第三章 改造人間、跳梁する。
15
『名前は、そう、
『おや』
怪気炎をあげんばかりの刺客に次いで、赤瞳の奥底から、さして重要でもない小さな発見を伝える口ぶりでニコラウスが声をあげた。
『もう一人がいないね、ウムボイター。彼女はどこへ行ったかな』
『いるだろうと思ったんだが、どうも本当にいないらしい』
『折角のヂングがもっとも効力を発揮するのは彼女を前にしてではないかな』
『そうだろう、だからここで撤退することもできる。しかし撤退しなければ目の前の彼はわれわれを迎撃せざるをえなくなるだろう』
『退けばそれだけ無駄な力を使わないでは済む』
『退かなければヂングの力がどれほどか試すことができる』
刺客は和久田を見る。見つめ直す。それまで彼は視線を外していた、そのあいだにも塔に絡みついた蔦の先がひらいて、さながら腕の先の手のように牽制をかけている。節のない腕がどこまでものびる。怪人君、と刺客が言う。
『きみはどうやらひとりでここにいるらしいな。われわれの目的としては、きみひとりを相手にするというのは役不足だ。役者不足といってもいい、きみにとっては。きみはここからすぐに逃げ去ってもいい。後ろのガドリンとジーボーグを置いて、逃げ去ってしまってもいっこうに構わない。われわれの目的は、そう、武藤陽子の《黒兎》の力に、この新たなヂングがどれほど対抗できるか、それを検証することにあるのだからね』
――知っている? どうやって、《ビオス》からか?
武藤の名に反応して、待機中だった心臓のエンジンが俄然回転した。汗が内側から乾いて、重油の色をした鎧が浮かび上がる。目の色を変える和久田に、刺客がいっそう喜色ばんで言った。
『ちょっと学校に端末を入り込ませて覗いてみただけだよ! もう一人二人別の顔もいたな、あの子の名前は何と言ったっけか。安心して、彼女らには、指一本、触れていない』
『ところで、何故戦う、フェルミの息子よ』
今度はニコラウスが問うた。赤い瞳の奥で、戸外の暑さとは隔絶された落ち着いた声で訊く。首から顎を覆う鎧が固まりながら、和久田は訊き返す。
「あなたこそ、どうして同胞を殺そうとするんですか。おれにはそれがわからない。数少ないガドリンもジーボーグも、あなたにとっては数少ないパルタイの仲間のはずだ」
炎天下にアスファルトより黒い怪人が立つ。瞳は愚者金色に燃えている。それを見てニコラウスは応える。
『私に知恵を授けた者によれば、生物の種とは顕な形質や遺伝子配列ではなく、交配可能の如何によって決定されるという。個体の間に子を残すことが可能であること、これが生物の一つの種を括りだす必要条件であると。ところで同胞といったね、同胞、はらから、即ち同じ女の腹から生まれてきた者』
『パルタイは自然発生するんでしょう、街の澱んだ空気の底から生まれてきた』
『そう、われらはどこからともなく来た。だからある意味ではわれらははらからである。しかし、互いが交配によって子をなすことはできない。馬と驢馬の間の騾馬のような、一代限りの子でさえ、パルタイの間にはできない。パルタイは一人ひとりが独立した一つの種なのだよ。だから、私がきみを呼ぶ言葉は形容矛盾なのだが』
『だから殺しても胸は痛まないと?』
『一つの理由にはなる』
『それに、ジーボーグを生かしておくのは、一つの危険でさえあるんだ、怪人君、きみは、知らないだろうけれどね』
無人の道路に《超常》に列する四人が並んでいる。和久田は背後の二人を見る。ジーボーグは目覚めない。砕けた脚は元に戻っている。閉じた目はぴったりと合わされて開かない。見返せば赤い脈の走った蔦が、根元からぶるぶると蠕動して、肉でできた管のように動く。
あの触腕の打擲が終いにはジーボーグの肌を破り骨を砕いたのだ。和久田は腕の鎧を湧かせてとり集め、その手に脚の長さほどの
和久田は半身にしていた体のまま膝をわずかに落として、跳びあがると同時に真上に落ちかかり、尖塔の頂から一気に滑り落ちる軌道を頭に描いた。梢を過ぎて加速度が高まるまま、落下の向きだけを三百三十度度変えて、尖塔の頂上をつかむ。細い自律する蔦のつかみかかってくるのをかいくぐりながら、円を描いて塔の外周を落ちていく。
回っていくうちに和久田の体は最初に跳びあがった位置、ウムボイターの正面にあたる点に何度か達する。あるところで和久田は塔に手を突き、側面を押して宙に躍り出る。そこはウムボイターの立つテラスのほとんどすぐ上にあたる場所だった。和久田は広葉樹の二倍にあたる落下のエネルギーを集中させた先膨れのロッドを、テラスに棒立ちのままの刺客の横面めがけて振り払った。
善美 (the TALE on Love and Evil/*kalos kai agathos) 金村亜久里/Charles Auson @charlie_tm
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