14

 次の日は酷く暑かった。午後一コマの授業を終えて出るとアスファルトに水が張っている。地表近くにある諸々がつくづく揺らいで足許からぐらつく。そういう中を和久田は、一人で、もしかしたらと思って、注意深く日陰を選んで、自転車をゆっくりと押していた。同じ方角に帰るフェルミは別に用ができたようだ、他のパルタイに呼ばれて行くのだと言っていた。もしかしたらその用というのがすぐ終わって戻ってくるのではないかと思って、地を這うかぎろいの様子を見ながら、押すともなく自転車を押して前に出た。

 あるいは声の届くのを待ち、あるいは涼を求める心地もあり、ただでさえ暑い中でそうやって気もそぞろにしていたから、外界への注意力がひどく落ちていたらしい。彼は酷暑の灰色の路地の向こうで非人間的力が炸裂している事実に気付きもしなかったし、ようやっと気付いたのは、自転車の正面に一人の男がひどい焦燥をみせて転がり込んできたというそれだけのことでしかなかった。

「何が?」

「フェルミと落ち合う予定だったが、途中で捕まった。逃げきれなかった」

 前に抱えられたジーボーグの片脚が脛の半ばから砕けて今やそこには無い。蛍光色のペンキのような液がこぼれて黒光りする道路の上に垂れている。かつてフェルミも一度武藤の《爪》に胴を両断されてその命の数を三つ四つひといきに削られた、そのときにも彼女の腹の切断面からは毒々しく光る青い液が、ジーボーグよりよほど激しく流れ出ていた。ジーボーグは疵の程度は深くないようだが回復が遅い。海月のような薄く細いドレスの肩に浮かぶフラクトゥールの数字が削れる。9から8に。

 ガドリンは何か背後から来るものに脅えていた。世を忍ぶための人の姿、フェルミでいうなら高校生相当の、人間的な見た目の、濃い《超常》の匂いを撒き散らさない、はじめに和久田の部屋にやってきたときのあの姿で、転がるように路地の一角からまろび出る。地に足をとられ低く跳ぶように転ぶ彼の髪が幽かに黄色く光っているように見える。

 見ると、どこか襤褸をはおったような、蚤や虱ふうの細々した塵をこぼしている。腐れた布の切れ端が風に流れてほろと崩れて消えるように、夜空よりもういっそう暗い色をした細い塵が、衣服の皴から、顔の膚から、舞うともなく舞っている。それは球体をしているらしかった。パルタイのライプ、すなわち彼らの超常の力の十全な行使を可能にするための特殊な変化形態、それの構成素が、人の姿かたちに戻るにあたって収束、体内に格納されるのだが、その構成素の分解された一部である黒球が、格納されることなしに浮動し、それを引きずっている。これは不具合というのか。展開機能の十分な制御能力が今や著しく減衰している証拠ではあった。

 白昼の住宅街でパルタイが堂々その力を振るっている、しかもそのパルタイの力の行使が尚及ばない何者かがある。かかる何者かに対峙すればこそガドリンは力を行使していたのだし、押し負けた結果として今こうして地面に転がり、万事休すの最中に和久田と鉢合わせた。

 何者だ、他のパルタイか、ニコラウスか、あるいは。

 彼方に超常の気配はない。狂言でなければ、ガドリンを襲った敵手は既に力を引っ込めているらしい。和久田は彼を下げて、水を打ったように静まりかえっている路地の奥へ飛び出る。

 周囲に同じように広がる住宅街の路地と、何ら変わるところはない。アスファルトで打ちこめられた道に熱波で水が張り、辻に立つカーブミラーの楕円鏡面は太陽光線を反射して白く光っている。根元をやや曲げて設置されたカーブミラー、庭に植えられ葉の繁る枝を道路に張りだしている灌木までもが溶けるような熱の中に、しかし、人影はない。

 炎天に誰一人として外に出ようとしなくなってしまったのか、和久田は内心何かそらおそろしいものを感じないでもなかったが、しかし誰もいないというのはおかしい。今までガドリンと組み合い、それを蹴散らし、追跡する勢力は、どこに行ってしまったのか。屋根の上にも民家の庭先にもそれらしい影が潜んでいる様子はなかった。緑色の茂みの奥に所々原色の花が咲いていて、それらがちらちらとかすめて見える。別段何かがおかしいという様子はみえない、路の脇にゆらぐ空間の絶対的歪みの残滓でもあるわけでもない。斜めに白日が差す。猛威を振るっていただろうはずの《超常》が残した痕跡は、自然の熱が見せる錯覚に溶け込んで消えている。

 ガドリンは、追手は正面の辻の位置にいたと証言した。辻というほど大袈裟なものではない。正面の道を斜めに横切る、小型の自動車が通れる程度の細い道との交点、根元の曲がったカーブミラーが立っている取るに足らない交差の中央には位置していた、らしい。

 和久田は一歩一歩ほんのわずか腰を低めて進んだ。足踏みしめるごとに、視界の端で、何かよからぬものが蠢くのではないか。以前の《蟹》の例もある、既に離脱している可能性はないのか。ガドリンは、ない、と言う。一歩出たところで、それに次いで、おそらく、と付け加える。

 和久田から見て右奥から左手前へ斜めに抜けている道の左手には、低いブロック塀の上に金属の柵が巡り、すぐ奥には鉢植えや灌木に三メートルほどの松など種々の植物に覆われた小さな庭がある。さらに奥には民家があり、二階に貼りだした部分を持つ家屋の高い越屋根より少しばかり上までのびる円い葉をもった広葉樹が、鬱蒼と葉を茂らせている、その蒸散の気配だけで薄暗い木陰の空気までもが濛濛と湿気ている。古い家屋は黒ずんだ木材の色を晒して、屋根瓦の青い染料は所により落ち所により溜まって斑のようにもみえる一定のパターンを呈している。平たい木材で組まれ、柵に対して立てられた棚の上の、盆栽が植わっている陶器の剥き出しの土の赤茶けた色彩がそこだけ明るく発している。角地いっぱいに植物で埋め尽くしたような敷地の向かい、右手にはプレハブ住宅じみた三四階建ての集合住宅が方形の外観いっぱいに安っぽいタイル模様を広げている。さほど古くない、築二十年ほどか。それが背後から斜めの日差しを受けて、道路のそう広くはない範囲に尖った陰を落としている。陰のきわで汀のように陽炎が揺れている。背後を見透かさせることのない集合住宅の分厚い陰に隠れて、ガドリンを追い詰めた刺客が、声をひそめて、日を浴びて潜んでいるように感じる。

 縁を通るように、和久田は一歩、一歩、踏み外すことを恐れるように、くすんだプレハブの陰、辻を曲がったこちらからは見ることのできない場所をにらみながら進む。鼓動ごとに深度が上がる。左胸に組み込まれたエンジンに青い炎が灯り、一拍一拍のリズムがエネルギーを噴いて全身へ広げていく。延ばされた光が白々と冴え走り、溶けた鋼鉄の白日の袂で、形のない力がリズムへ、リズムへと齎される。

 陽炎を踏んで歩く和久田の体に、内側から滲み出して、像が重なる。形にならない像が見えないままに重なり、内奥の青白い炎が身体から溢れ出して、全身を覆うタールの潮と入れ替わりに、純青と愚者金を差し色にして、光のない宙の色を灯した《鎧》が浮かび上がるだろう。そのための準備が、心臓の炉から噴く熱が全身に回る。

 辻の交差へ躍り出、右へ続いていた道に向き直って構える。片脚を前へ出して、腰を落とし、拳を軽く挙げて待ち構える先には、またしても、誰もいない。ただ正面から照りつける白熱が日向を隈なく焼き、いやましに立ち昇る無い水の溜まりが端から蒸発して、向かいの景色を細切れにして空気に映している。

 いないようだ。では、後ろは? 振り向こうとした寸前に、ズボンのポケットで携帯電話が震える。小刻みに繰り返し震えている。フェルミからの着信だった。

「もしもし」

『そっちにガドリンが来たりしてません?』

「いるよ、…………もしもし?」

『いや、高校の北門に来るよう言われて、時間になっても来ないんで待ってたんですがね、そう、ジーボーグは? いる? そう。いいですか、よく聞いて、

「やあ、はじめまして……。きみが《怪人》だね?」

 無人の光の外部、すなわち視界の外から告げ知らせる声が響き、百八十度向き直った眼の先に、一人男の影があった。声を発して男が一歩動く。一歩前に出る。対する和久田は大股に一歩下がって見る。

 鼠顔の小男である。肌の色は今度はまだらに見えてい、葉叢から洩れる日の差す木陰の下にあるかのように、まだらが刻一刻変わっていくように見える。笑った顔の中で、唇の間から乱杭歯の一本がとび出し、目は引っ掻いたように細く、鼻は削ぎ落されたように低い。黒眼も白眼も見えず、軟骨の部分がごっそり無くなっているかのようだった。しかしよく見ればそれは単にそのように見えているというだけで、男の鼻は暴力的に失われたわけではなく、しっかりと単純に低かった。彫りが深いわけでもない、平坦な顔立ちだが決して卵のように丸いということもない。ひとしきり凹凸はある。しかしその凹凸が、そのいずれもにしたところで、決してどのような整ったひとつの印象を与えそうもない表情を呈していて、和久田はこのような顔の人間を今まで見たことがあっただろうかと自問した。

 焼けつく日差しの下で陰一つない中に男は立っていた。全身の衣服が赤で統一されている。熱帯のハイビスカスのように鮮やかな発色の下履きの腰から濃紺のサスペンダーがのびて肩に架かっている。その肩から腕にかけて覆っているのはやはりズボンと同じほど瞭然と赤いシャツだ。一見して不気味なのは、厚い生地で造られたその細身のシャツもズボンも、目の前の男にはまだあそびのある造型であるらしいことだった。

 覗く手指は餓鬼幽鬼のように細く不均一に節くれ立っている。爪の黄変しているらしいのが和久田の目にも見える。薄く毛が生えた指や腕は大方長袖のシャツに隠されているが、そのまばらで無節操の感じは荒地のように見える。脚は真っ赤なズボンに比べてさらに細い、ほとんど骨と皮ばかりに痩せているらしい。見かけによれば腕も同様で、裾から突き出る首にも鶏のように筋がとびでて浮かんでいる。小さな黒い靴がその足元で眩く輝いているのはエナメルだろうか。白日の下に白日の照り返しが眩く輝いている。

「きみが、怪人だろう? 《パルタイ》フェルミの息子。最初はカフカを名乗っていた、今ではどうなのかな、わからないが……きみが《超人》と人間のあいだだということは、わかっている」

「あなたは」

 誰なんですかと聞こうとしたところで、窄まった喉がその渇きから貼り付き、動きが止まる。すわ咳き込みそうになる。できない。この男の面前で、目を逸らし、顔を背けるわけにはいかない。結局咳き込む。しかし目だけは、顔だけは逸らさない。前を見たまま、改めて問う。

「誰なんですか?」

「ニコラウスから聞いたよ、きみの《鎧》について。ザインがあるとして、本来はそれ自体に埋め込まれるべき生成装置メカニスムを人間の体内に埋め込むことで、その肉の体にパルタイの力を徐々に慣らしていくと共に肉体自身も変成させていく。それをつうじて最終的には人間であると同時にパルタイであるような或物へと変える、それが《超人》である。ニコラウスもパルタイ以外から《超人》に向かうつもりはないし、自分もこの体に半端な改造を加えようとも思わない。しかしフェルミの実験は見たところさしあたりうまくいっているようだし、きみの《鎧》のような高い力も当然あって損はない。だから彼も似たものを、似て非なるものを、作った。名乗る名前はそうだな、《怪人》というのはいかにも丁度良かったんだが、先んじてきみに使われてしまった。だから、別の名前を名乗ろう」

 両腕を肩の高さに対して水平に掲げて手を突き出す。親指、人差し指、小指の三本指が立っている。どれも皆一様にふくれとくびれがあり、その様子はどの指でも違っている、肩幅よりわずかに広くとられた手が、人差し指を真上にのばして示す印の中央に男の顔がある。

 声なしに笑う。口角が急に上がる。多重に互い違いの歯が今にも口の端から洩れて落ちるように見える。瞳は見えない。たわんで古いゴムのように裂けそうな感覚を与えてくる暗い皺が寄るのを見て、和久田は一瞬その赤い服の奥に、あの蟹に似た力の回転を見出した。男が口を窄める。

「ニコラウスは人の形の時、どんな姿をしている?」

『少なくとも目の前にいるそれはニコラウスではない』

 バイクのエンジンの回転音が聞こえる。ボイスパーカッションの要領で、男の咽喉と口腔が炎天下に陽炎に囲われて内燃機関を再現している。耳は縮こまって小さい。髪は刈られて、野火に焼かれた冬の枯野の寂しさの頭頂で、梳かれた髪の間に透けた地肌が、正面から受ける白日の熱を跳ね返している。

環=改‐Um-

 腕輪が浮かぶ。力の噴出口は第一に腕だった。手首を囲う黒い環は互いに独立して浮遊している。高まる力の感情に応ずるかのように、事実応じているのだろう、男は輪をかけて陰惨に笑う。それでようやく和久田の心に、この男こそがガドリンを幾度と追い詰め、ジーボーグの命を狙い、今こうしてパルタイの子の前に姿を現したニコラウスの刺客なのだということが深く響き届いた。

‐造-bau‼」

 雑音を飲み込むように閉じた唇が弾ける。途端に力も膨れ上がる。手首を囲うブロックに続いて、手の甲と平、指の背と腹、前腕に上腕、各々を覆い囲う黒い円周が、相互に独立に立ち現れる。胴を含めて、全体に幅広の平たい部分とはるかに細い部分が組み合わされて、ちょうど桶のように全身を包んでいく。

 変化は単に五体を覆うだけではなかった。「エ」字形の鉄骨が男の影からのびる。巻き貝様の柱が突き立つ。男の足許からマスがせりあがる。土台から生えた築地が鎧を着込んだ男の左右を塞ぐ。その上に展開するヂングの構造体が覆い被さり、無数の建造物の残骸のような円柱や直方体、四角錐、五角柱、有形無形の意匠が上にも下にも散発的に湧いて出る、土台に生えた脚は明らかにあの蟹のものと相似形だった。頂点を跨ぐチューブさえ冠したヂングの全高は、彼の立つ辻のすぐ脇の民家に植えられた落葉樹の梢を追い抜いている。

 それは熱や蒸した感覚や喉の渇きとは違う。熱さのない火、冷たくない氷、厚みを持たない立体、長さを持たない線、そうした様々な不可能の持つ特有の雰囲気が、鎧の胸にドラゴンの紋章を持ち地上に立つ和久田を軽く見下ろす男を中心にして、葉脈のように走る赤光とともに黒い街路へ剥き出しに放たれている。

 尖塔の中腹に赤い穴が開いた。葉脈のように走る赤い導線を巻き込んでその中央に位置している光は、蟹のものよりも男の纏うものよりも明るく深い色をして、それが瞳に相当するらしいことに気付くまで時間がかかった。

 第二メインカメラの準備もできたな、と瞳の奥から声がした。瞳の向こうに、鷹揚な声の主が、拵えられた革張りのソフアに腰を深くおろして、甘い赤ワインのグラスを掲げてこちらに挨拶を向けてくる。大きな体の持ち主だ。全身の肉の詰まったなかの空洞を共鳴管にして、こわばりのない体から、距離をものともしないで、洞穴のなかに落ち込んだ鉛の塊の慄えのような声が、やましさのない調子で響き渡る。

『はじめまして、フェルミの因子のキャリア。私はパルタイ【9】赤《正義》ニコラウス』

『名前は、そう、囲い建てられた者=改造人間Umbäuter、だッ!』

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