第10話 二輪、咲ク
私たちは山奥にいた。
誰も足を踏み入れないような、森の中にいた。
彼女が落ち葉の上に仰向けで転がり、私が馬乗りになるよう彼女の上へ。
彼女と目が合う。その瞳に、何度魅了されたことだろうか。
ことここに至って、彼女の美しさは極まっていた。
紅葉の布団の上に寝転がる彼女。絹のように滑らかな漆黒の髪の毛が、紅葉の上に散らばり、見事な模様を描いている。
彼女の白さは、その黒と下地の朱によってより一層映える。このまま写真に撮っておきたいという衝動に駆られそうになるが、そうすると、今度は今の彼女が他の誰かに見られる可能性がある。
それは嫌だった。
私は誰よりも美しい彼女の、何よりも美しいこの姿を、私自身で独占したいのだ。
「……よろしく。またね」
彼女がそう言って目を閉じる。私は一度呼吸を整え、ゆっくりと彼女に手を伸ばす。
彼女の頸部に手が触れる。彼女の肌理の細かい肌は、私の乾いた手に吸い付くかのようだった。
じわりと、彼女の温度が私に伝わる。太い血管からは、彼女の血流が。彼女の喉が上下するたびに、彼女が呼吸をしているのがわかった。
それらを。
私は終わらせる。
手に力を込める。血管も、気管も、締め上げるように力を込める。ぐぐぐ、と私が力をいれると、彼女の繊細な喉が潰れていく感触がよくわかった。
彼女の顔が紅潮していく。目の端からは、涙が。きっとそれらは、彼女の意思ではなく、彼女の体が防衛反応として表出させているものなのだろう。
本当に良いのだろうか、と彼女の涙を前に私は逡巡する。
すると、彼女と目があった。
彼女の目は、私に迷うなと伝えていた。澄んだ黒の底から、彼女の意思がしっかりと伝わる。
ならば、そうするしかない。彼女を、終わらせる。
さらに力を込める。彼女の鼻や口から水や泡が微かに漏れる。きっと苦しいだろうに、彼女は苦悶の表情を浮かべず、自身の体に巡る空気が止められるのを、泰然と受け入れていた。
それは、また別種の美しさを包含しているように思えた。
そう思えた瞬間、私は私がこの世界に生まれてきた意味を知る。
彼女という芸術家が、彼女という唯一無二の完璧な作品を完成させるための、道具。
ただの道具。
それが、私がこの世界に存在している意味だと理解した。
道具は、迷わない。
私は持ち主の指令通りに、遂行するまでだ。
けれど、これだけは、ということがある。道具としての私ではなく、私としての私が、やらせて欲しいことがある。
彼女の頸を絞めながら、彼女にゆっくりと顔を近づける。彼女の吐息は、欠片も感じられない。
彼女の顔、その下半分は体液で濡れていた。おそらく、あと数秒で彼女の意識は途切れるだろう。
そして、彼女は終わるだろう。
その瞬間に。
顔を伸ばす。
私は彼女の唇に、自身の唇を接させた。
最期の体温が、口唇に伝わる。
彼女の最期に、手向けとして私の体温を伝える。
彼女がこの世に残した最期の温もり。私はそれを存分に味わいつつ、彼女の完成を見るのだった。
○
あのときと同様の手段で終わらせることにした。
大量の錠剤を酒で流し込む。
やがて、意識はもうろうとしてくる。
あのときと、同じ感覚。
けれど、あのときと違うことだってある。
それはその行為している状況。
そして、心の中の充足であった。
あのときの心中が真冬の寒さで溢れているとすると、今は春のぽかぽかした、温暖な気候だろうか。
そんなことを考えていると、体に力が入らなくなった。彼女の上に覆い被さるようにして倒れる。
先に行った彼女は、私を待っていてくれるだろうか。
彼女の匂いを存分に嗅ぎつつ、そんなことを考えた。
自然と、口元が綻ぶ。
ああ、私は彼女が大好きだ。
終わる寸前、心の底からそう思い、心の中に温もりが満ちた。
二輪、咲ク 眼精疲労 @cebada5959
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