第9話 二度目の、あの日
意識が戻る。……といっても、今私がいる電車の中が、現実である可能性は薄そうだけれど。
つまり、意識が戻る、という表現は正しいのかわからないわけで。まあ、そんなことはどうでもいいか。
私の隣には、完全無欠の彼女が、何よりも美しい彼女が、静かに寝息を立てていた。
その姿をこの双眸に焼き付けられることが、何よりも尊い。
電車はずっとトンネルの中を走っているらしく、窓の外は暗闇だ。
彼女は死んだ。私も死んだ。
けれど、今は二人とも生前の姿で、電車に乗っている。
ひょっとして、ここがあの世なのだろうか。それとも、三途の川的な何かだろうか。近代化の波に乗って、三途の川もこんな風になったのだろうか。この電車は三途の川の下に通っているトンネルの中を走っているのかもしれない。
隣にいる彼女は、安心しきった顔で寝ている。その様子に、二人で一緒に暮らしていた頃を思い出し、つい口元が綻ぶ。
すると、彼女が「んー」とうめき声を漏らし、眠たげに眼を開けた。
寝起きの彼女は、一度「うーん」と伸びをして、関節を鳴らす。肩の動きに黒髪が追従して持ち上がる。彼女が腕を降ろすと、さらさらと黒髪は流れていった。
「おはよ」
まだ少し眠そうな彼女が、真っ先に私を見てきてそう言った。
「ん、おはよ」
彼女の言葉に懐かしさを感じつつ返す。
「どうだった?」と彼女。
「どうって?」と私。
私の言葉を聞いた彼女は、『わかってるんでしょ?』と言いたげな微笑みを浮かべる。「……ええと、どういう」
彼女の表情、その含意を把握しかねた私。
「そうね、じゃあこっちからいくつか質問」
彼女はそう言って、人差し指を立てる。
「私との日々は楽しかった?」
「ええ、それはもう」
迷わず肯定する。彼女との日々は、私の人生で一番楽しかったものだ。
いや、もっと適切な表現がある。
今ならわかる。きっと、私の人生は、彼女との日々以外に価値を見いだせない。
「それはよかった。私も、楽しかったわ。……じゃあ次」
彼女は中指も立てる。ちょうど、ピースサインのようになる。
「私が死んで悲しかった?」
「…………そうに決まってるでしょ」
抉られたくなかった心の傷を、彼女は微笑みまじりに抉ってくる。ああ、こういうところだよなあ、と彼女の人間性、その特異性を思う。
彼女は、他人に対して迷わない。他人の心の機微などという、小さなことにほとんど拘泥しない。
だからこそ、私が気にしているであろうことも、自分が聞きたいという欲求に従って尋ねてくる。
「そう。それはよかった」
彼女は私の言葉を聞いて、ふわりと微笑む。
「じゃあ、最後に」
彼女はピースサインを引っ込めて、真面目な表情になり私を見据える。
しばらくの間、彼女はそうやって私を見る。私もどう反応したらいいかわからずに固まっていると、彼女が相好を崩した。あ、これ多分からかってるやつだな、と彼女との日々で得た経験から推測する私である。
「最後の選択、あの日の選択……。もう一度、やりなおせるとしたらどうする?」
彼女がそう尋ねた瞬間、電車がトンネルから抜けて、私の視界は強烈な光に支配される。
真っ白な光の中に、彼女が消えていく。そんな様子を見ていると、私の意識もここではないどこかに持って行かれるのであった。
○
「私を、終わらせてくれる?」
意識が覚醒した瞬間、彼女の澄んだ声が聞こえてきた。冷涼な夜の空気にも似たその声は、私の意識を明瞭にさせるには十分だ。
即座に、把握する。これがあの日の再現――、いやもう一度のあの日、なのだと。
これはあの日を追憶しているのではなく、もう一度の、あの日。
私が未来を選ぶことのできる、あの日。
ああ、と私は歓喜する。
もう一度、選べるのか。一度過ちを犯してなお、選べるのか。
ならば、もう迷うことは無い。私は彼女の頼みを受け入れよう。
「ええ、喜んで。あなたが美しい今、あなたが美しいまま、この世で一番大好きで、この世で一番大切で、この世で一番美しいあなたのことを、私が丁寧に終わらせてあげる」
私がそう告げると、彼女は私に何度も見せた、柔らかい微笑みを浮かべるのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます