第8話 彼女が、私に求めたこと

 彼女の奇行は日に日に増えていった。

 夜に部屋の片隅で膝を抱えていると思えば、時にはうめき声にも似た笑い声を漏らしていた。

 日中、ぼんやりと虚空を見つめていると思えば、唐突に笑い声を上げることもあった。

 今ならわかる。おそらく、彼女はこの世界に何らかの形で抗おうとしていたのだ。この世界に爪を立てようとしていたのだ。

 けれど、爪は折れて剥がれ落ちてしまい、彼女の心の体力も衰弱していったのだろう。

 大学に行く回数も次第に減っていき、最終的には引きこもりのような生活になった。

 そんな最中でも、彼女の美しさは欠片も損なわれなくて。いや、引きこもり生活になったがゆえに、肌の白さや滑らかさは一層の磨きがかかったようだった。

 その瞳に浮かべる黒の濃度もどんどん高まっていき――

 ある日、彼女が私に告げる。

 これが運命の分水嶺だと、一度終わったあとならわかる。

 でも、あのときはわからなかったのだ。

 夕食を食べた後、二人でぼんやりテレビを見ていた。画面では、お笑い芸人が何やら体を張ったギャグを披露している。

 私は、彼女がこの世界に抱く思いとテレビ画面に映る明るい景色は、その温度があまりにも隔絶しているように思えた。

 彼女の世界は、きっと暗く、冷え切っている。まるで、真冬の、新月の夜のような。

「ねえ」

 そんな中、彼女が私に呼びかける。

「どうしたの?」

 と彼女に問う。このときの彼女の瞳はやけに澄んでいて、しばらくの間ずっと、暗く淀んだ彼女の瞳しか見ていない私は、違和感のようなものを覚えたのだった。

「私、決めたわ」

「何を?」

 軽い口調で言う彼女に対し、同様に軽い口調で返す。

 彼女は私を見ながら、晴れやかな笑みを浮かべる。

「私、死のうと思うの」

 がつり、と頭を何かで殴られたような気がした。

 えーと、死ぬ? 

 誰が?

 私が混乱していると、彼女は晴れやかな表情のまま、私を置いてけぼりにして話を進める。

「生きていることは苦しいし、どうしようもないほど悲しいわ。たとえ今がよくても、いずれは全てが斜陽に入ってしまう。……今の私は、きっと私が生きてきた中で、そしてこれから先の私も含めて、一番綺麗な、幸せな私だと思う。だから」

 だから、何だ、と思った。どういった理屈で、先ほどのような答えが出るんだ。

「このままの私で死にたい。誰の手でも無い、あなたの手で。誰よりも愛したあなたの手で。誰よりも私に近しいあなたの手で。そうやって、美しいまま、私という存在は消え去るの。これって素敵じゃない?」

 彼女の中でそのような理屈は確固として成り立っているようだが、たった今そんな話を聞かされた私は困惑することしかできない。

「え、えっと、その」

 彼女の注意をこの話から逸らそうとする私だが、彼女はそれを許さなかった。

「大丈夫。この場合、あなたが答えればいいのはこの一つだけ」

 彼女は今までで一番妖艶な笑みを浮かべて、私を見据える。その引き込まれるような妖しげな美しさに、私は酩酊にも似た感じを覚える。

「私を終わらせてくれる?」

 彼女は、凜とした、澄んだ声でそう言った。

 彼女は、私に選択を迫る。

 生かすか、殺すか。

 今の私は、過去の追憶をしている状態にある。見るだけで、干渉できない状態。

 ゆえに、とわかっていても、それをもう一度見せつけられることしかできない。

 結果がわかっていても、変更できないのだ。

 あのとき、私は選び間違えた。その結果が、彼女も私も幸せにならない未来。

 彼女のことを本当に思って、答えを返すべきだったのだ。

 彼女の運命と私の運命を左右する決断。

 私は、それを選び間違えた。

 あのとき、私はこう返した。そして、今から返す言葉は、あのときと同じ言葉だろう。

「それは……」

 ああ、馬鹿め。

 あのときと全く同じ語調で、全く同じ言葉を紡ぐこの大馬鹿者め。

 心中で、過去の自分をなじる。深い、深い無力感が私を包み込む。無力の黒が眼窩に入り込み、視界を塗りつぶしていくような、そんな錯覚すら覚える。

 狂えるならば、狂ってしまいたいような無力感と後悔。

 何度詫びても足りないぐらい、私は彼女に謝りたかった。

 あのとき私は言った。

 深く考えず、いや、深く考えた気になって。

 もっと考えるべきだった。

 彼女のことを。

 彼女の価値観を。

 彼女の美しさを。

 それらの前に、私の価値観や私なんてものは、無価値以下の塵芥にも劣る存在であることを、自覚するべきであった。

 馬鹿が、口を開く。




「それは……できないわ」

 私はあのとき拒否したのだ。彼女の申し出を、彼女の救って欲しいという叫びを。

 彼女の願いを、無下に断ったのだ。この世界において、彼女の願いを叶えるのが、私一人しかいないのに。

「……そう、それは仕方ないわね」

 彼女は微笑んで返す。あのときは、この微笑みで一連の流れが冗談だと、馬鹿な私は勘違いした。

 でも、今ならわかる。彼女の微笑みは、全てを諦めた微笑み。覚悟を決めた微笑み。

 自らを、自らで終わらせるという、そんな決意を秘めたものだった。

 

 このあとの流れはよくわかっている。いやというほどわかっている。

 この数日後、彼女は高所から飛び降りて死んだ。

 私が最後に見た彼女は、アスファルトに頭から叩きつけられて見る影もなくなっていた。

 道路に咲く前衛芸術めいた赤い花を見て、私は自らの過ちを知る。

 彼女に対して、ありふれた価値観など無価値だったのだと。

 彼女という圧倒的美の化身、そして彼女が抱く常人を逸脱した価値判断。

 その前に、私が抱きそしてこの世界に跋扈している『生きていることは素晴らしい』なんていう、ありふれた陳腐な価値観は、実に貧弱で無力だったのだと。

 彼女の亡骸は、もう彼女だとわからなくなっていた。

 美しい相貌は粉々に砕け、白磁の手足は衝撃で無数の傷がつきひん曲がっている。

 彼女は、彼女だったものになってしまった。

 あとは知っての通り。

 私は自らの過ちと、彼女がいなくなった事実に打ち負かされ、自死を選んだ。

 ああいや、違うな。

 きっと私は、あの世で彼女ともう一度出会いたかったのだ。

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