第7話 深海のような暗がりにて

 彼女のスキンシップは増加していった。

 一緒に寝ることが、寝る前のキスに変化した。

 を彼女が求めてくる頻度も増えた。

 彼女は甘えん坊だったのだろうか、と思ったりもしたが、どうやら違うらしい。

 私を堪能したあと、彼女はひどく冷めた瞳を浮かべるのだ。

 とはいえ、その瞳は私に向けられたものではなく、もっと漠然としたものに向けられているように思えた。

 そして一方で、彼女の奇行が増えた。

 たとえば、こんなことがあった。

 深夜、私が目を覚ますと、隣で寝ていたはずの彼女がいない。どうしたのだろうか、と思い彼女を探す。

 彼女は、部屋の隅でうずくまっていた。

「……どうしたの?」

 と私は問う。彼女は顔を上げて、私を見る。

「起きたんだ」

「まあね、ちょっとトイレに行きたくて。……それで、あなたが居ないからびっくりして」

「あはは、それはごめんね。少ししてから戻るから」

「……そう、わかった」

 そんなやりとりをして私がトイレに行き、その後布団に入ってしばらくした頃、薄目を開いて彼女を見る。

 彼女は、未だに部屋の隅でうずくまっていた。

「……寝ないの?」

 彼女に問うと、彼女は首を小さく横に振って返す。

「……寝ない」

「……何かあったの?」

「……特別何かがあったってわけじゃないけど」

「…………でも、何かがあるからそこにいるんでしょ?」

 私がそう言うと、彼女は不機嫌そうな表情を浮かべて目を逸らす。

「……どうしたの?」

「大丈夫。寝てて」

 私を拒絶するような言葉を発する彼女。私は彼女の様子を、言葉を考慮して、どうすべきかと考える。

 このまま彼女の言うとおり、そのまま寝てしまう方がいいのだろうか。……本当に?

 彼女はそう言ったものの、果たしてそれは真に彼女が求めていることなのだろうか。

 大丈夫、と彼女は言った。だが、そもそも大丈夫な人間は、夜中に部屋の隅でうずくまらない。

「……さすがにこの状況は寝れないわよ」

 軽い口調でそう言ってみる。

「……寝てて」

「寝れない。……何か、あったの?」

 私は彼女の隣まで行き、しゃがみ込む。ちょうどここからは誰も入っていない布団が見えて、まるで人間の抜け殻のようにも思えた。

「……何か、あったってわけじゃないけど……」

 彼女はぽつりと言葉を発し、それがきっかけとなったのか、話を続ける。

「怖いの」

 小さな、消え入りそうな声で彼女はそう言った。

「……何が?」

「老いることが」

「……この前の、こと?」

「…………それは、関係してる」

 彼女はそう言って、小さく首肯した。

 今の彼女の所作、そして言葉は、出会った頃の彼女とはあまりにもかけ離れている。

 それに、普段の彼女は甘えてくることはあったものの、ここまで弱さを見せることはなかった。

 ゆえに、私は混乱する。

 その乱れを収束させるために、自身の思考に道筋をつけようと思案する。

 そうして出てきた結論が、一つ。

 これこそが、彼女の内側にあるものなのではないか、ということ。

 彼女はその内面に、このような恐怖と、そして闇を抱えていたのではないだろうか、ということ。

 ただ。

 ただ、である。

 暗闇の中、彼女の膝がおぼろな光に照らされている。彼女の横顔も同様に。

 ああ、と私は再認する。

 彼女はこれほどまでにない、美の化身であるということを。

 彼女はこの暗闇の中でなお、普段見せないような姿を見せてなお――いや、見せているからこそかもしれないが――何よりも美しかった。

 彼女が俯けば、滑らかな黒い髪が彼女の横顔を隠す。それはまるで貴族の使う御簾のような役割を発揮し、神秘的な雰囲気を彼女に上乗せする。

 白磁のような柔肌に包まれた腕が、膝を抱えている。その様子はまるで至高の彫像のようであった。

 今の彼女は、手を伸ばし難いと感じるほどに、美しい。

 けれど、それと同時に、彼女は私の同居人であり、そして恋人だ。

「……何が、怖いの?」

 だからこそ、私は一歩踏み込む。

 しばしの沈黙を挟んで、彼女はぽつりと切り出す。

「……生きることが、老いることが。……いいや、違うわね」

 彼女はそう言って頭を振る。

「全てを失うとわかっていて生きるこの世界が、そして全てを失うという運命が怖いの」

「……全てを、失う?」

「ええ、人は生きる。生きるということは、時間が経つということ。そのうちに、人は色んなことができる。努力をして何かを得ることができる。けれど」

「……けれど?」

「そうやって得たものも、しだいに手からこぼれ落ちていって、最後には何も残らない」

 彼女がどんな経験によって、このようなことを言っているのか。なんとなく、私は察していた。

「それに。生きているうちに、私は、今の私から違う私へと変化していく。それは成長かもしれないけれど、ある一点から成長ではなく老化に、衰退に置き換わってしまう。私は、いつか老いるわ。老いて、くすんでしまう。……それだけならまだしも、さらに老いると、最終的には身動きさえ取れなくなってしまう。食事さえも自分で取れなくなって、チューブで流し込まれるような……そんなことになってしまう。……私がそうなっている様子を、あなたは見たい?」

 彼女の言葉に、私は返す言葉が無かった。だから、黙る。それは肯定とも取れるかもしれない。

 そうだ、彼女の言うとおり、私たちはいつか老いるのだ。私も、彼女も。

 私のことはどうでもいい。

 けれど、彼女が老いて、老いて、老いて、今の彼女の内外に溢れている美しさを発揮するものが、全て跡形もなく消え失せたとしたら。

 そう考えて、ぞっとした。

 そんな未来は、認めたくない。

 でも、このまま時が進めば、そんな未来がやってくることは避けられない。

 ならば、どうする?

 そんな未来が来るのならいっそ――。

 そこで、私は自分が一体何を考えているのかと気づき、思考を止める。

 しかし。

 彼女の双眸が、私をじっと見つめていた。彼女の漆黒の瞳は、この暗闇の中、まるで深い海の底のように、光を宿していない。

「どうせ全てが消えて無くなるのなら、人が生きる意味って何でしょうね」

「……だからこそ、人は足掻き、努力する……という考え方もできるかもよ?」

 心にも思っていないことを言う私であった。そんな綺麗ごとだけで世の中が回っているはずがないだろう。

 無論、私が言ったことのような思いを抱いて生きている人もいるだろう。

 けれど、たぶんそんな人たちは一握りだ。残りの大半は、漫然と日々を生きている人たちや、あるいは彼女のように生きることを肯定できない人ばかりのような気がした。

 ふと、思う。

 生きていることを手放しに肯定できる人は、この世界にどれくらいいるのだろうか、と。

 私の言葉を聞いて、彼女は小さく笑う。

「……そうね、そういう生き方も……できたかもしれないわね」

 彼女はそう言って、諦めたような笑みを浮かべた。

 彼女の言葉は、『できる』ではなくて『できた』という、過去形。それはつまり、終わってしまったことを示している。

 自分のことを終わったものとして話す彼女は、今までのどんな時よりも不安定で、そのまま消えてしまいそうだった。

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