第2話くすくすさんとマッターホルンの雪

 困った。

 ジェラートがすごく食べたい。

 とあるカフェの公式サイトで見かけた画像が頭から離れない。別に私は甘党ではないのだが、だからといって、あんな美味しそうな氷菓ひょうかを見て何もせずにいられるわけがなかった。いくら手が空いたからといって、仕事中にネットサーフィンなどするものではない、という天にまします誰かしらのおぼしなのかもしれなかったが、ともあれそれを発見してから終業までの1時間余り、食欲と闘わなければならなかった。幸い残業もなかったので、定時で会社を飛び出すと急いで目当ての店へと向かう。その店が武蔵小金井むさしこがねいの駅近くにあって、会社のある武蔵境むさしさかいから現在私が住んでいる八王子はちおうじまで帰る途中に立ち寄れる、というのも幸いだった。電車に揺られること2駅、駅から歩くこと5分、交差点近くの少しだけくすんだ白い外壁の商業ビルの1階に、カフェ「プリンス・ルパート」はあった。ルパート王子っていったい誰だろう、と思いつつ自動ドアを抜けて店内に入る。

 席は7割方埋まっていて、あまり気は進まなかったが中央付近の4人掛けのテーブルにつくことにした。端っこのカウンター席でこそこそしていた方が性には合っているのだが、この店の広々とした開放的な間取りを見る限り、私のような根の暗い客層は想定していないようだった。見渡してみると、客のほとんどが連れ立ってきた若者で、ひとりの客は私以外見当たらない。ますますアウェイに来た感じを強く持ってしまう。この辺りに土地鑑とちかんはないが、近くに大学があるのだろう、と彼らがテーブルの上に広げたノートを見てぼんやりと思う。

「お決まりですか?」

 いつの間にかすぐそばにウェイトレスが立っていた。客と同じように彼女も若い。はあ、などと要領を得ない返事をしながらあわててメニューをめくるが、目当ての品は決まっているので、あくまでめくるふりをしているだけだ。

「えーと、これ。この、“マッターホルンの淡雪あわゆき”をお願いします」

 何言ってるんだこいつ、とみなさんは思われたかもしれないが、私が目当てにしていたバニラのジェラートは本当にそういう名前だったのだから仕方ない。チョコレートのジェラートは「カカオの誘惑」で、シークヮーサーのジェラートは「琉球りゅうきゅうの風」である。どういう意図でそういうネーミングにしたのか皆目かいもく見当もつかないが、名前はどうあれ美味しければそれでいい。かしこまりました、とにこやかな笑顔のままウェイトレスが立ち去る。

 注文を終えて、大きく開けた窓から外の眺めをぼんやりと見る。既に夕闇が迫っていて、行き交う自動車のヘッドライトがひときわまぶしく見える。日に日に夜になるのが早くなっているのを実感しつつも、まだ秋にさしかかったばかりだからジュラートも時季外れではないだろう、とやはりぼんやりと思っていた。

 マッターホルンねえ、と心の中だけで呟く。その山に関しての私の知識は乏しい。もちろん実際に登ったことなどないし、たぶんスイスの、たぶんアルプスにあって、たぶん富士山よりも高かった、と「たぶん」を連呼してしまう。おそらく白いジェラートを山の形に盛り付けて「マッターホルンの淡雪」という名前にしたのだろうが、それなら別に「北岳きただけの雪」でもいいだろう、という気がした。何故北岳かというと、だいぶ昔に「日本で一番高い山の名前は誰でも知っているが、二番目に高い山の名前は誰も知らない」と誰かが言っていたのを聞いて、その「二番目に高い山」が気の毒になって以来、「自分だけでも忘れないでいよう」と半ばむきになって覚えているせいである。

「おまたせしました」

 ごとっ、と大きめの音が響いたのは、ウェイトレスが未熟なせいではない。直径25センチもあるガラスのうつわをテーブルに置いて沈黙が保たれていたのなら、むしろその方が異常だろう。そんなことより、問題はその器に盛られた白いかたまりだ。透明な円盤の上にそびえる白いたおやかな峰。なるほど、確かにこれは「マッターホルンの淡雪」と呼ぶべきだ、北岳ではダメだ、とどちらの山の形も詳しく知りもしないのに内心で強く納得した。

 おいしい。と口にするまでもなく感じていた。頂のあたりをスプーンでおもむろに削り取ると、何故かこわごわと口に含む。甘さ。なめらかさ。冷たさ。そういったものがぜになった快感が口の中から脳へと伝わり、それから爪先つまさきまで行き渡っていく。かすかに冷えた固い銀のさじまでもが快い。すばらしい。この感動を何に例えればいいのか。誰をたたえればいいのか。「プリンス・ルパート」のパティシエか、今も何処どこかの牧場で草をんでいるであろうよくえた乳牛か。ともあれ、感動で胸をいっぱいにしながら、二口、三口とジェラートを続けざまに頬張ってしまう。ああ、生きていてよかった。


 くすくすくす。


 幸福の絶頂にあった私の耳にいつか聞いたことのある笑い声が届き、せわしなく動かしていた手を止めてしまう。しかし、この場にいるはずのない人の声がどうして聞こえるのか。あまりのおいしさに幻聴が聞こえたのだろう。くすくすくす。ほら、また聞こえた。いやにしつこい幻聴だ。もしかすると幻聴ではないのかもしれない。まさか、そんなこともあるはずもないが、一応念のために声が聞こえた方へゆっくりと顔を向けてみる。

 くすくすくす。

 楠野くすのさんがすぐそばで微笑んだまま私を見下ろしていた。ああ、やっぱり。幻聴であって欲しかったが。よりによってスイーツを食べているところを見られるとは。恥ずかしすぎる。クールになっていた頭がたちまちウォームになり、ホットになるのも時間の問題だった。

「ごめんなさい。とてもおいしそうに食べていらっしゃったので、つい声をかけそびれてしまって」

 くすくすくす。また笑われた。さぞかし馬鹿面ばかづらさらしていたんだろうな、と自分が嫌になる。だが、それはそれとして、職場の同僚に外で会ったのだから挨拶あいさつはしておかないといけない。社会人であり、一応は大人のはずなのだから。そう思って、楠野さんの方へ顔を向けると、彼女は右の人差し指で唇の上をちょいちょいと撫でていた。そんな風にアピールしなくてもあなたの口許くちもとが魅力的なのはよくわかってますよ、と言いたくなったが、

「おひげ、ついてますよ」

「え」

 そう言われてやっと、口の周りが白く汚れていたのに気づいた。慌てて右手の甲でぬぐう私の耳に、くすくすくす、とまた聞こえた。勘の鈍さを嘲笑われているのか、いい歳なのに何をやっているんだと呆れられているのか、とも思ったが、たぶんどちらでもなく彼女は純粋に可笑おかしがっているだけなのだろう。ただ、その純粋さが今の私にはつらい、というのも確かだった。

 口を拭き終わって、もう一度楠野さんの方を見ると、彼女も私を見下ろしてかすかに微笑んでいた。二人して何故か黙ったまま数瞬すうしゅんが経過する。マンガなら三点リーダーが出るところだ、と思っていると、

「お疲れ様です」

 思い出したかのように彼女が頭を下げた。

「ああ、お疲れ様です」

 慌てて私も頭を下げる。だいぶ順序が逆になってしまったが、これで職場の同僚との挨拶は済んだことになる。

「シオタさん、仕事の方はもうあがられたんですか?」

「あ、はい。今日は定時で」

 就業時間内に二駅ふたえき向こうのカフェに行くような豪快なサボりをする人間だと思われているのだろうか。私も気になっていたことを彼女に訊いてみる。

「楠野さんは今日はずっと外で?」

「はい。あちこち飛び回ってましたけど、今日はもうあがりです」

 黒のパンツスーツを着ているのも飛び回りやすいように、と考えたためだろう。肌の露出こそ少ないが、彼女の優美なスタイルがより強調されているように感じられて、目が眩む思いがする。しかも、清潔感もあるので、男はもちろん、女性だって好感を抱かずにはいられないだろう。間違いなく今日の営業の戦果も上々なはずだった。

「でも、都内に行ってるって聞きましたけど」

 私たちの働いている会社は武蔵野むさしの市にあるので、れっきとした東京都のはずなのだが、二十三区の外は都内に含まれない、という感覚が私の中にはあった。

「そうですね。新宿とか池袋とか。あの辺を重点的に」

 幸い楠野さんは私の差別的な感覚に突っ込みを入れないでくれたが、それでも疑問は解けなかった。彼女はかしら線で通勤していると聞いていたから、つまり、世田谷せたがや杉並すぎなみに住んでいるはずだった。楠野さんならきっと世田谷だろうな、とまたしても差別的に考えてしまったが、それはともかく、そうなると話が少し妙なことになってくる。うちの会社の営業は直帰ちょっきが許されているので、仕事が終わってもわざわざ職場まで戻らなければいけない、ということはなかったし、実際のところ会社で仕事をしていても、楠野さんの姿を一日中ほとんど見かけないことも何度かあったので、「今日は直帰なんだな」とそのたびに思っていた。別に淋しいなどとは思ったりはしなかったが。そう、淋しくなんかなかった。話がややれかけたが、つまり、私が言いたいのは、新宿か池袋で営業をしていたのならそのまま自宅に帰ってしまえばいいのに、どうして今こうして会社のある武蔵境よりもさらに遠い武蔵小金井にいるのか、ということだった。ただ、そんなことを気にするのは細かすぎて気持ち悪い、というのは自分でも感じていたし、何より女性のプライヴェートを穿鑿せんさくするのはよくないことだ、というのも人間関係の機微きびうとい私でもさすがにわかっていた。とはいえ、それだけに余計に気にかかって仕方がなかった。もやもやした気持ちを口に出しかねていると、

「いくらか遠回りだったんですけどね」

「え?」

 手にしていた袋をひょいと持ち上げながら楠野さんが呟いた。薄い透明な袋の中にカラフルな丸いお菓子がひとつひとつパッケージされているのが見える。マカロンだ。

「でも、どうしても食べたかったんです」

 やはり都内からここまで来たらしい。私が気にしていたのに感づいて、先回りして説明してくれたのだとしても、別に驚くにはあたらなかった。会社で働いている時も、「この人って、もしかしてテレパス?」と思う時がしばしばある。

「そのためにここまでわざわざ?」

「お菓子のためなら何処にだって駆けつけます」

 くすくすくす。楽しげに笑った。よその国だろうとよその星だろうと、スイーツの噂を聞きつけたらすぐに飛んでいく、という気合いが感じられた。この店、テイクアウトもやっているんだな、とどうでもいいことを考えてしまう。

「疲れた時に食べたくなるんですよ、”甘い大統領”」

「はい?」

「あ、そういう名前なんです。このマカロン」

 どうしてそういう名前になったのかは薄々見当がついていたが、ダジャレを言って座布団を没収されたくないので黙っておくことにした。そういえば、あの番組を見なくなって久しい、とぼんやり考えていたせいで、目の前から楠野さんが消えていることに気づくのに時間がかかった。

「あれ?」

 辺りを見渡しても、ほっそりとした牝鹿めじかのような姿はない。挨拶もせずに立ち去る人ではないはずだが、と思ってすぐに、「でも、俺には挨拶しなくていいと思っているのかも」とひがみっぽく納得してしまった。会社で歌っているような奴だしな、と溜息をつきながら再び白いジェラートを向き合う。既に八合目まで消失したマッターホルンからの下山にもう一度取り掛かることにしよう。落胆しているせいか、口の中に甘さだけでなく苦みもかすかに感じていた。

 残業中に「ストレンジャー」を歌っているところを楠野さんに見られてから、もう一か月が経っただろうか。それまであまり接点のなかった彼女にさんざん翻弄された動揺は今もなお私の心の中から消えてはいなかった。あの夜、会社から去った楠野さんをすぐに追いかけたものの、結局追いつくことはできなかった。武蔵境から八王子までの30分間、終電間近の電車の中で「脚、速すぎだろ」とそれだけしか思わなかったのも記憶に新しい。それから、私と彼女との間に何か変化があったかというと、そんなものはありはしなかった。職場で事務的なやりとりは何度となくしていたが、それを離れて会話をすることも特になかった。楠野さん以外の女性社員にも特に変化が見られないところから考えると、私について陰口を叩いてもいないらしい。「あいつ、会社で歌ってたんだよ? 超ヤバくない?」などとは言っていないらしい。いや、もちろん彼女がそんなギャルみたいな口の利き方をするはずもないのだが。おそらく彼女は気を使ってその件に触れるのを避けてくれているのだろう。ならば私から話さなければいけない、とは思っていたのだが、そんな勇気など当然持ち合わせていないので、カビキラーでも殺せないほどのうじうじを抱えたまま時間だけが過ぎていった。

 高嶺たかねの花だな、と何度となく感じていたことを今もまた感じていた。やはり彼女は私には遠すぎる存在なのだ。あの夜がイレギュラーなだけで、いくら手を伸ばしても届きはしないのだ。あーあ、とまた溜息が出た。

 くすくすくす。また聞こえた。もういいよ。幻聴は一日一回で十分だよ、と思いながら視線を上げると、楠野さんが私と向かい合って座っているのが見えた。少し首を傾げて黙ったまま微笑んでいる。なんだ? 願望がつのりすぎてとうとう幻覚まで見えるようになったのか? 

「おいしくないんですか?」

「はい?」

 幻覚が質問してきた。最近の幻覚は口がけるほどに進化しているようだ。と言っても昔の幻覚がどんなものなのか知りはしないのだが。

「アイスクリームを食べながらそんな難しい顔をしている人、初めて見ました」

 くすくすくす。その笑い声を聞けば、目の前の彼女が幻でも夢でもなく確実に存在すると信じるしかなかった。え? それじゃあ、今、目の前に座っているのは、幻覚ではなく本物の楠野さんなのか? しかし、本物だとしたらそっちの方が信じがたい。何故楠野さんが私と一緒に座っているのか。

「いつもは持ち帰りだけなんですけど、せっかくなので今日は食べていこうかな、と思って」

 私の方を見た彼女の鳶色とびいろの瞳にひとすじの光芒こうぼうが見えた気がした。夜空を渡る流星さながら、と思ったが、願いをかけるまでもなく私の望みはかないかけていた。

「シオタさんがご迷惑なら別の席に移りますけど」

「いやいやいやいや」

 慌てて腰を浮かしかける。バラエティ番組でいわゆる「雛壇ひなだん」に座っているお笑い芸人みたいになってしまった。

「いやいや。大丈夫です。全然大丈夫です。というか、同じ職場で働いてるのに別々に食べていたら、”どんだけ仲が悪いんだよ?”って思われますよ。いや、もちろん、誰かが見ているわけはないんですけど、もし万が一そう思われたら困るなあ、って話で」

 ははははは、と気の抜けた笑い声をあげる。彼女の「くすくすくす」に比べたらゴミみたいだな、と適確な自己評価を下しながら腰を下ろす。はあ、と楠野さんはいつになく多弁な私に戸惑った様子だったが、私としては、千載一遇のチャンスを前にして、ここで必死にならなければいつなるんだ、としか思えなかった。「ここは危ないから別の場所から攻めよう」などと義経よしつね鵯越ひよどりごえで言うはずもないのと同じことだった。

「それなら、お言葉に甘えさせていただきます」

 いくらでも甘えてほしかった。

「いや、楠野さんはもう帰られたと思ったのでびっくりしました」

「今日行った仕事先から連絡があったので少し席を外しただけです」

 そう言ってから眉をひそめて、

「わたし、あいさつもしないで黙って帰ったりなんかしません」

 そう抗議された。疑って悪かった、と思うよりも、むっとすると少し幼く見えてこれはこれでいい、と思ってしまう。馬鹿な男である。

「ですよね。楠野さんはそんな人じゃないですよね」

「すみません」

 私のフォローを無視して彼女はウェイトレスを呼び止めていた。

「”越えられない壁”と”ダージリン急行”をお願いします」

 なんだかすごいものを頼んでいる。「ダージリン急行」はダージリン・ティーなのだろう。「灼熱のアッサム・リーダー」がアッサム・ティーなのと同じように。しかし、もう一方はなんなんだ。まるで見当がつかない。

「なんですか、その”越えられない壁”って」

「前から一度食べてみたかったんです」

 くすくすくす、と笑い混じりではぐらかされた。どうせすぐにわかることだから、あまり気にしないことにする。

「シオタさんもこのお店にいらしてたんですね」

「いや、今日初めて来たんですよ」

「そうなんですか?」

「いつもはこんなおしゃれなカフェなんて来ないんですけどね。もっぱらファストフードとか立ち食い蕎麦そばばかりで」

 自虐も含みつつそう言うと、

「わたしもよく行きますよ、立ち食い蕎麦」

「え?」

 予想外の答えが返ってきて素で驚いてしまう。

「というか、今日のお昼もお蕎麦をスタンディングで食べてきました」

 格好良く言っても立ち食いは立ち食いだろう。

「楠野さんが立ち食いそばに行くんですか?」

「はい、行きますよ。行ったらいけませんか?」

 もちろん行っていけないわけはない。しかし、そんなのは掃き溜めに鶴どころではない。核処理場にモナリザ、と言ってもまだ適切かはわからない。彼女のおかげで「都内の立ち食い蕎麦屋に突然現れては颯爽さっそうと蕎麦を啜っていく謎の美女が出没している」などという都市伝説上でSNS上で流布しているのではないか。帰ったらググってみよう。

「外回りしてるとすごく助かるんですよ。時間もかからなくて、リーズナブルで」

「味はどうなんですか?」

「少なくとも外れを引いた覚えはないですね。どの店でも最低限の味は保証されているので、日本ってすごいなあ、と思います」

 そこで自国に誇りを持つのか、と可笑しく思ったが、彼女の話は尚も続き、「急行の止まらない駅には何故かいい店が多い」とか「裏メニューでモンブランを出している店がある」とか立ち食い蕎麦にまつわるトリヴィアを多数聞かせてもらった。それにしても、モンブランって。

「すごいな。ぼくよりも全然詳しい」

「いくらでも尊敬してくださってもかまいませんよ?」

 もともと鼻の高い人が自慢げになると、「鼻高々」の模範解答のようになるのだな、ということに気づいた。

「それにしても、この前はまんまとしてやられましたよ」

「はい?」

 いきなりそう言われた楠野さんはもちろん戸惑っていたが、言った私も戸惑っていた。無意識のうちに口走ってしまっていた。1か月前の話をしたかったのは間違いないが、このタイミングで話を持ち出したのは間違いなのかもしれない。とはいえ、吐いた唾は飲めないし、出てしまった言葉は消せないので、話を続けるしかなかった。

「いや、だから、この前の話ですよ」

「と言いますと?」

 楠野さんは尚も戸惑っているように見えたが、実はそれは擬態で、口元に笑みが浮かんでいるのを見ると、おそらく私が言いたいことなどとっくに分かってしまっているのだろう。刑事ドラマの容疑者なら「とぼけるな!」と言われて電気スタンドの光を思い切り浴びせられそうな態度だったが、彼女がどんな罪を犯して捕まるのか、そこまでは私の脚本では描けていなかった。

「楠野さん、ビリー・ジョエルを知ってたんじゃないですか」

 結局私の方から話をするしかなかった。この後もこういった面倒な段取りを踏まなければならないのだろうか。

「ああ、やっぱりその件でしたか」

 くすくすくす。実に楽しそうに笑われてしゃくさわる。しかも「やっぱり」ということは気づいていてとぼけていたのだ。ダブルで癪に障る。

「どうして知らないふりなんかしたんですか?」

「だって、そうしないと、シオタさんが歌ってくれないと思ったものですから」

「いや、あの時も言ったはずですけど、ぼくの歌なんて聞いたってしょうがないでしょう。どうしてそんなに聞きたがるんです?」

「どうして、と言われても困ります。ただ単にそう“したい”と思っただけですから。シオタさんの歌を聴きたい、というのも、甘いお菓子を食べたい、というのも、そう”したい”と思ったことがすべてで、何故”したい”のかは、わたしにはさほど重要ではありませんから」

 今までずっと理性的な人だとばかり思いこんでいたが、実は多分に感覚的な人なのかもしれない、と目の前の女性について見方を改める必要を感じていた。そういえば、今日はいつもと髪型が少し違っていて、あまりウェーブがかかっていない。朝方見かけた、営業に出かけていく彼女の後頭部に留められた白いバレッタをなんとなく思い返す。あれを見ただけで今日は満足すべきはずだったのだが。

「おまたせしました」

 ウェイトレスが楠野さんの前にお茶とお菓子を置いていく。茶色い横長の直方体。チョコレートケーキか。

「チョコブラウニーですね」

 やっぱりこの人、テレパスなんじゃないかなあ。いくらなんでもタイミングが合いすぎる。今度から会社であまりエロいことは考えないようにしよう。

 小ぶりのフォークにはさほど力が入っているようにも見えなかったのに、ブラウニーはあっさりと静かに割れた。直方体から分かれた立方体が小さく開かれた彼女の口に運ばれ、消えていく。作法に則ったかのようなまるで滞りの無い動きを、対面で私はぼんやりと見つめてしまっていた。お目当てのケーキを口にした楠野さんの表情はいつにも増して理知的で、美味を堪能たんのうするというよりは成分を分析しているように見えた。一口目から1分以上が過ぎてからようやく彼女は、うん、うん、と小さく2回頷いて、

「すばらしいですね。外は固く焼きあがっているのに、中はしっとりと柔らかくて。甘さたっぷりなのにしつこくなくて上品で。食感も味も申し分ないです。まさに“越えられない壁”という名前にふさわしい絶品です」

 口許をおさえてから、すばらしいです、ともういちど呟いた。食レポまで見事にこなすとはいよいよ死角がない。ただ、あまりに完璧だと取り付きにくく感じられてしまうので、こうなると逆に弱点が一つくらいあった方がいいような気がしてきた。ネズミが嫌いだとか背中の一部だけドラゴンの血を浴びていないとか、そういうわかりやすいウィークポイントがあった方が親しみが湧く気がする。というか、ドラゴンの血を浴びている時点で親しみも何もあったものではないのだが。

「でも、わたしもあの夜のことはたまに思い出すんです」

 二口、三口とケーキを食べながら彼女が呟いた。

「え?」

「せっかくシオタさんに歌ってもらったのに、あれじゃダメだったな、って反省してるんです」

 思いがけない、そして嬉しい言葉だった。そうか、そうだったのか。楠野さんも私に無茶振りをしたのを悪いと思ってくれていたのか。反省してくれていたのか。アイスで冷えていた胸が温かくなるのを感じる。ダージリンティーで咽喉のどを潤すと、彼女は私の顔を見つめながら優しく微笑みかけてきた。

「どうせなら、〈オネスティ〉も歌ってもらえばよかった、って反省してるんです」

 そうじゃない。私が求めている反省はそういう方向ではない。百歩譲って、そう思うのは楠野さんの自由だとしても、その気持ちを私に向かって言うことはないだろう。そこまでオネストにならなくていい。

 くすくすくす。対面の男が渋い顔をしているのがよほど面白かったらしい。お気に召してもらえたなら光栄だ。

「ぼくも、楠野さんの〈夜桜よざくらしち〉がいつ聴けるのか、楽しみにしているんですけど」

「あら。そのことはてっきりお忘れなのかとばかり思っていました」

 忘れるわけがない。そのためにあの夜何曲歌ったのか、彼女も知っているはずだった。

「別にしらばっくれるつもりはありませんが、あれからシオタさんからお話がないので、もういいのかな、という気分になりかけてました」

「え、でも、会社で仕事中にその話をするのはどうかと思って」

「わたしだったら、本当にしてほしいことは何度でもお願いしますけどね。それをしない、というのはその程度の気持ちしかないんじゃないか?って思っちゃいますけどね。あ、もちろん、シオタさんがそうだと言っているわけではありませんよ」

 言ってる。完全に言ってる。しかし、そう言われると約束が履行りこうされないのは私の落ち度でもある気がしてきた。いや、約束は約束なのだから、こっちが何もしなくても何も言わなくても向こうが自らやってくれないと、とも思ったが、しかし、それが虫のいい考え方であることは否定できなかった。「世界は私の都合のいいようにはできていない」と書かれたタトゥーを左の上腕部じょうわんぶに入れて、事あるごとにシャツの袖をまくって確認すべきではないか、という気すらしてきた。それくらいしなければ、自分から動けない気がしていた。

 楠野さんがティーカップをテーブルから少し浮かせたところで止めたのは、私が姿勢を正したのに気がついたからだろう。頭を深く下げてから頼みこむ。

「お願いします。どうか<夜桜お七>を歌ってください。お願いします」

「え。いや、そんな」

 困惑の色が滲んでいるおかげで、彼女のハスキーな声がいつもより高くなっていた。こんな声も出せるのか、と二つの鼓膜から伝わる震えを感じていると、

「あの、シオタさん。その、お気持ちは分かりましたから。もう大丈夫ですから」

 彼女が本気で困っているのがわかったので顔を上げると、私たち二人に周囲から視線が注がれているのにようやく気付いた。「きっとあの冴えない男があんな美人に失礼を働いたに違いない」と思われているのか、「きっとあんな美人があの冴えない男に無理無体な要求をしているに違いない」と思われているのか、どちらの意見が多いのかテレゴングで全国を一斉調査してみたい気もしたが、よく考えてみなくてもインターネットの時代にわざわざ時代遅れのシステムを活用する意義は見出せなかった。

「人前で簡単に頭を下げたらダメですよ」

 まさしく「説諭せつゆ」という熟語にふさわしい口調でさとされた。そのまま人差し指で私の顔を指さして「めっ!」と言ってくれるオプションがあったなら、いくら大枚をはたいても惜しくはないな、などと邪気に満ちたことを考えそうになって妄想に急ブレーキをかける。

「すみません。ぼくが本気だということを分かってもらいたくて、つい」

「いえ、シオタさんが本気なのは分かってましたけど」

 珍しい状況だった。私が平然としていて彼女が動揺している。これまで終始やりこめられっぱなしだったので、多少溜飲りゅういんが下がった気もしたが、よく考えてみると、周囲からは楠野さんより私の方が異様に思われているはずで、つまりは相討ち覚悟でないと彼女を慌てさせることは不可能だ、という事実が裏書きされただけなのではないか、という気がしてきた。下がった溜飲が若干戻った感じがするが、かすかに苦みがあるのは胃液が混じっているからだろうか。

「本当は、別にお願いされなくても歌うつもりだったんです」

 まだ赤みの引かない顔で楠野さんが呟く。

「え?」

「あの後、たまたま会社のみんなで一緒にカラオケに行く機会がなかったから、約束を果たせなかっただけなんです。わたしも“そろそろなんとかしなきゃ”とは思ってたんです」

「じゃあ、さっきはどうしてあんな」

「ちょっと意地悪を言って困らせようと思っただけなんです。シオタさんが困ってたから、“うそぴょーん”って言おうと思ってたら、まさかあんな大声でお願いしてくるなんて」

 その言い方だと私が悪者みたいではないか、という不満は、「世の中にこんなに”うそぴょーん”が似合わない人がいるのか」という驚きに掻き消された。私がお願いしたために彼女の「うそぴょーん」を未然に食い止めて、うら若き女性に恥をかかさずに済んだのだから、これはかなりのファインプレイと言ってもいいのではないか。堤防に腕を突っ込んだオランダの少年の話とともに道徳の教科書に載せてほしいエピソードといっても過言ではない、と自分の中に強い確信があった。

「やめておけばよかったですね。わたし、人に意地悪するの、苦手なんです」

「そんなの、得意だったら嫌ですよ」

 くすくすくす、と転がる鈴のような音色が聴こえたところを見ると、私の返しはそれほどまずくはなかったらしい。

「来月、社長の誕生日会をしますから、その時に歌えればいいんですけど」

「この歳になってめでたくもねえよ」と先週社長が誕生日会についてぶつくさ言っているのを聞いていたが、祝われる本人はともかく少なくとも私にとってはめでたいイベントになりそうだった。

「じゃあ、楽しみにしてます」

「はい。わたしもシオタさんの<オネスティ>、楽しみです」

 いや、だから、どうして私も歌うことになってるんだよ、しかも曲まで指定されて、と思いつつも、それと同時にで練習しなければ、という気持ちになりつつあったので、結局彼女の思うがままに事態が進んでいくのがこの世界の摂理のようだった。すべて世は事もなし。

「食べないんですか?」

 楠野さんにそう言われるまで、マッターホルンが溶けて崩れているのに気づかなかった。あ、いえいえ、食べます食べます。もはやアイスクリームというよりシェイクに近い状態になっているので、スプーンで掬うのにやや苦労する。とはいえ、口に入れば美味しいことに変わりはなく、食べ進めるのに問題はなかった。楠野さんの方をちらっと見てみると、「越えられない壁」は順調になくなっていて、このままだと東西に分かれた皿が統一されるのは時間の問題だった。立ち食い蕎麦のヘビーユーザーだけあって、なかなかの早食いらしい。そのうち、私の方はめぼしい塊を全て食べてしまって、もう後は白い液体しか残っていない状況になった。いっそ、器を持ち上げて飲み干してしまおうか、と思ったが、職場の同僚が一緒にいるのにそんな行儀の悪いことはできないに決まっている、と諦めたところで、

「シオタさん」

 その同僚に声をかけられた。表情も声音も真剣そのもので、アフター5に似つかわしくない様子に、アイスクリームに浮かれていた私としても真剣にならざるを得ない。

「シオタさんは、どうしてシオタさんなんですか?」

 まさか哲学的なことを訊いてくるとは思わなかった。それとも文学的なのだろうか。私がロミオで、彼女がジュリエット。もし仮にそうだったとしても、何ら迷惑だとは思わなかっただろうが。とはいえ簡単には答えられない質問であることに変わりはない。私の顔にクエスチョンマークが浮かんでいたのだろう。彼女は少し慌てて、

「すみません、言い方に語弊ごへいがありました。シオタさんの名前の由来を聞きたかったんです」

 そういうことか。それなら小学3年生にでも理解できる。

「名前の由来、ですか」

「ええ。人と話すときによく聞くんです。みなさんそれぞれに理由があって勉強になるので」

 それに加えて会話が膨らみやすいテーマなのかもしれない、という気もした。ある程度プライヴァシーに踏み込んだ話になるが、楠野さんがそれなりに私に興味を持ってくれているようなので、あまり悪い気はしなかった。それに、この会話に乗れば確実にリターンが見込める、というのも私を乗り気にさせていた。

「あまり大した理由なんかありませんけどね」

「みなさんそうおっしゃるんです」

 くすくすくす。私がそう言うのも予想済みなのか、楽しげに笑った。

「でも、今まで聞いてみた限りでも、みなさんそれぞれに違った由来をお持ちで、誰一人として同じお話ではありませんでした。聞いているととても勉強になります」

 これをテーマに本でも書くつもりなのだろうか、と思うくらいの真剣さだった。そうなると私もあまりふざけてはいられない。本を出すなら楠野さんの写真を表紙に大きく載せたらベストセラー間違いなしだろう、少なくとも私は最低5冊は買うぞ、などと考えているあたり、まだふざけすぎなのだろうが。

とおるさん、ですよね」

 彼女の口から私の名前が出たのは初めてなのでどぎまぎしてしまう。これからずっとそう呼んでくれて構わないのだが、一度だけでもそう呼ばれて満足すべきなのだろう、と喜びが諦めにゆるやかに変化するのを感じながら話を始める。

「最初、親父は“秀”の字を使いたかったらしいんですよ」

「はい」

 小さめの頭部がこくり、とうなずくのを見ながら、話を続ける。

「“秀吉ひでよし”でも“秀一しゅういち”でも別に構わなかったみたいなんですけど、とにかくその字が使いたかった、と」

「それはシオタさんが女の子だった場合でもそうだったんですか?」

「透さん」はやはり1回こっきりのサービスだったようだ。やや落胆しながら答える。

「ああ、どうなのかなあ。親父は男が生まれるって確信していたみたいで。女の子の場合はあまり考えてなかったんじゃないかなあ」

「シオタさんが生まれてから“秀”の字を使おう、と決められたとか?」

「かもしれません。ぼくもあまり詳しい話は聞いたことはないんですけど。で、名前を付ける前に念のために姓名判断をしておこう、と考えたらしくて、毎年初詣に行く神社に話を聞きに行ったらしいんですね」

「神社、ですか?」

 驚きを隠せないでいる。彼女がこれまで聞いてきたケースでもあまりない展開なのだろうか。

「ええ。神社というから神主さんに話を聞いたのか、それともその神社にいた別の偉い人に聞いたのかはわかりませんけど、とにかく姓名判断してもらったんですね。そうしたら、ぼくに“秀”の字は合っていない、この名前を付けるのはよくない、と言われたらしいんですね」

「まあ」

 いや、40年前の話にそんなに素直に驚かなくても、という気はしたが、すぐに続きを話したい気分になったので、彼女は確かに聞き上手なのだろう。

「そう言われて親父は困っちゃって。でも、仕方がないから、その次の日に図書館に行って、漢和辞典とかを調べて他にいい字はないか、と探していたら、“透”を見つけて、“これだ”と思ったらしくて。“秀”としんにょうがくっついているから、この字なら“秀”の字とほぼ一緒だ、って言ってましたけど、ほぼ一緒と言っても違う字なんですけどね」

「すばらしい判断だと思います」

 父さん、あなた東京で美人に褒められているよ、と今度実家に電話した方がいいだろうか。

「それで、また神社に行ったら、これなら問題ない、と言われたみたいで、結局、“透”になった、ということみたいです」

「なかなか波乱万丈でしたね」

 それほどのことでも、と思ってしまったが、考えてみれば、子供が生まれるということ自体が親にとっては壮大なドラマなのかもしれず、子供どころか結婚もしていない私がとやかく言うべき筋合いの話でもない、と考え直した。

「シオタさんは自分の名前、お好きですか?」

「えーと、どう答えたらいいんだろう。まあ、好きでも嫌いでもないんですけど、せっかくつけてもらった名前なので、受け入れてはいます。自分がこの名前であることに納得している、というか」

 持って回った言い方になってしまった、と反省するのと同時に少し嫌な記憶が甦ってきてしまった。

「ああ、でも、学生の頃、名前のせいで友達にあだ名をつけられましてね」

「どんなあだ名ですか?」

「“ニゴル”です。“透”って名前なのにちっとも透明じゃない、透き通っていない、むしろ逆に不純じゃないか、ということで、そういうあだ名になったみたいですけど」

「なかなか含蓄がんちくに富んだお友達ですね」

 くすくすくす。いや、含蓄というよりは蓄膿ちくのうというべきですよ、あんな連中。と言いたかったが、彼女の笑顔を曇らせたくはないので黙ることにした。

「わたしはいい名前だと思いますよ、“透”さん」

 まさかの2回目だ。しかも褒められた。変なあだ名をつけられて不愉快になったのも一遍に許せる気がした。今度同窓会に出かけて旧交を温めてこようか。

「じゃあ、今度はぼくから質問させてもらってもいいですか?」

「はい?」

 残りわずかとなったチョコブラウニーをフォークで刺すのに集中していたらしい楠野さんは少し驚いた様子だった。はやる気持ちをおさえつつ言葉を続ける。

「今度は楠野さんの名前の由来をお聞きしたいんですけど」

 そう。これが私があてにしていた「リターン」だ。女性に名前について聞くのはなかなか難しいところがあるが、最初に自分の方から話してしまえば断れないはずだった。ネバー・セイ・ネバー。できないとは言わせないぞ、と心がアグレッシブ一本槍になっていく。

「そうですね。私のこともお話しないといけませんね」

 楠野さんはあまり気にしている様子でもなかった。これまで何度も人と名前の話をしていると、名前を聞かれるのもよくあることで、実際のところ名前の由来を話すのに抵抗はないのかもしれない。だが、ここからの展開は今までになかったはずだった。

「当てていいですか?」

「え?」

「楠野さんの名前の由来、当てていいですか?」

 ブラウニーが刺さったフォークが皿の上に置かれる。燃え上がらんばかりに輝く瞳が私を強く見つめていた。

「面白いですね。ええ。是非当ててみてください」

 声がいつもより少し低く、本気が感じられる。どうやら何かに火をつけてしまったらしい。私の言葉を挑発だと受け止めたのだろうか。それにしても、火の回りが早すぎはしないか。建築用の資材には絶対に向いていない。少し怖くなってきた。

「あ。ところで、楠野さんの名前はお父さんがつけられたんですか?」

「当てる、と宣言してからヒントを聞くんですか?」

 呆れられた。言われてみれば確かにその通りで返す言葉がない。私の行動はどうにも間が抜けている。

「まあ、でも、少しくらいならサービスしましょう。ええ、わたしの名前は父がつけました」

 それでも楠野さんは答えてくれるのだからいい人だった。よし。これなら間違いない。当てる自信があった。

「それではお聞かせ願えますか?」

「ええ」

 あらかじめ結果が分かっている行動を起こす時には奇妙な充実感が伴う、というのは初めて体験する感覚だった。確定された未来。約束された勝利。そういった輝かしいものに向かって私は歩みを進めた。

「ズバリ、楠野さんの名前は塩野七生しおのななみさんにあやかってつけられたものですね?」

 楠野七生。初めて書くはずだが、それが彼女のフルネームである。楠野七生と塩野七生。偶然でここまで似るわけがない、というのは最初に彼女の名前を知った時から感じていたことだった。塩野七生は今や司馬遼太郎しばりょうたろうと並んでビジネスパーソン―今風な言い回しをしてみた―が愛読する歴史作家で、おそらく楠野さんの父上も読んでいて、それで娘にその名前をつけたのだろう。お父上の願いが通じたのか、娘さんは見事に聡明そうめいな知性の持ち主になっていた。その知性のおかげで私はしばしば右往左往させられている、と考えると素直に称賛する気持ちにはなれなかったが、とりあえず今は彼女の名前の秘密を解き明かせた興奮で耳たぶまで熱くなっていた。さて、私に言い当てられた楠野さんは、というと。

 くすくすくす。くすくすくす。くすくすくす。

 両手で顔をおおって肩を震わせていた。白い牡丹ぼたんを思わせる二つの掌から漏れ出てくるのは笑い声なので、正解を出されて悔し泣きをしているわけではないようだ。それにしても何故笑うのか。私の言ったことは何もおかしくはない。おかしくはないはずだった。それとも本当におかしなことを言ってしまったのか。

「楠野さん、あの」

「はずれです。大間違いです。バツです」

 不安になった私の問いかけにかぶせるように石橋を叩き壊すほど念入りに不正解を宣告すると、またあの「くすくすくす」が始まって彼女は何もしゃべれなくなってしまった。まさか、だ。まさか間違っていたとは。

 ああ、おかしい、と笑みを浮かべながら楠野さんが細い指先で目尻に溜まった涙を掬い取っていく。

「あんなに自信たっぷりだったのに、あんなに堂々としていたのに、それに」

 くすくすくす。くすくすくす。

「”ズバリ”って言っておきながら間違えるなんて」

 そこまで言うと笑いすぎてとうとう声も出なくなってしまった。黙ったまま全身を震わせている彼女をちらちらと何人かの男性客が興味津々な様子で見ているのがかんに障った。おいおい、見世物じゃないぞ。俺が笑わせたんだから、彼女を見ていいのは俺だけなんだ、と心の中で強く主張してみたが、現実でそう口を出すほど私は蛮勇ばんゆうを持ち合わせてはいなかった。シオタ・ザ・バーバリアンにはなれそうもない。

「そんなにおかしいですか?」

「はい。おかしいです」

 トッププレーヤーのリターンエース並みの速さで返事された。

「最初、シオタさんが“当てる”って宣言した時に結構カチンと来ちゃったんですよ。シオタさんのく、んん、そうじゃなくて。えーとですね、つまり、名前という人にとって大事なものについて、そんな簡単に当てるとか言うなんてデリカシーがないんじゃないの? って思っちゃったんです。はい。そういうことです」

 言っていることはもっともで、私としても反省すべき点は確かにあるのだろうが、途中で「シオタさんのくせに」と言いかけたのはデリカシーに欠けてはいないのだろうか。

「だから、間違えたらどうしてくれようか、って思ってました。どんな罰ゲームをしてやろうか、って」

「罰ゲーム、ですか」

「はい。痛い系としびれる系とからい系の3つにまで絞り込めていたんですが」

 どうしてそんなに罰ゲームのレパートリーが充実しているのか。以前にデスゲームを主催したことがあるのか。

「あのー、どれも嫌なんですけど、せめて、痺れる系にしてくれませんか?」

 くすくすくす。実に楽しげに笑われる。

「冗談ですよ。そんなことしませんから。シオタさん、間違えはしましたけど、すごく面白かったから、わたしとしては合格点です」

 合格の基準がさっぱりわからない。楠野大学を受験する気持ちには全くもってなれなかった。センター試験の点数がどの程度配点されるかもわかったものではない。

「なんといっても自信たっぷりに不正解を出したのがよかったんですけど、間違いの中身もよかったですね。一生懸命自分なりに考えた、というのが伝わってきて、いい間違いだったと思います」

 いちいち解説してくれなくてもいいから。「いい間違い」ってなんなんだよ。

「でも、シオタさん、そんなに気にしなくてもいいですよ。私の名前の由来、当てられた人は今まで一人もいませんから」

「そうなんですか?」

「はい。ラッキーセブンとか虹の七色とかよく言われるんですけど、そういう可愛らしいものじゃないんですね。あと7月生まれでもありませんし」

 彼女の誕生月が3月なのは知っていたので、その可能性は最初から外していた。何故誕生日を知っていたかについては牡蠣かきのように固く口を閉ざすつもりなので、読者の皆さんも勘繰かんぐるするだけ無駄である、と言っておきたい。

「すみません、さっき偉そうなことを言ってしまってお願いしづらいんですけど、楠野さんの名前の由来を教えてもらえますか?」

「いいですね。素直な人は好きですよ」

「好き」と安易に言ってほしくはなかった。隙あらばいい方に勘違いしたがる私の精神がまた暴れ出してしまう。私の葛藤など当然知るはずもなく楠野さんは既にぬるくなっているであろうお茶を少しだけ飲んでから説明を始めた。

楠木正成くすのきまさしげです」

「はい?」

「楠木正成から私の名前は取られたんです」

 その瞬間脳裏に閃くものがあった。待て待て、また間違えるわけには行かないから、一度持ち帰ってよく検討するんだ、という私の頭の中の穏健派おんけんはたちの主張を無視して、インスピレーションをそのままに口走っていた。

「もしかして、七生報国しちしょうほうこくですか?」

 そう言われた楠野さんが固まったのが見えた。フリーズしたのは一瞬だけで、ふ、と軽く息を吐くと、かすかに微笑んだ。馥郁ふくいくたる香りがカフェ全体に満ちたかのように錯覚してしまう。

「すごいですね。まさか最初のヒントで当てるなんて」

 見事的中したらしい。デストラーデのガッツポーズをしたいところだったが、何分さっき大外れしたばかりなので、心の中だけで「よっしゃ!」と叫ぶだけにとどめておく。これで彼女の私への評価も上がることだろう、と思うともう一度「よっしゃ!」と叫びたくなる。

「でも、シオタさん、七生報国だなんて、妙なことを知ってますね」

 残念ながら評価に変動はないようだった。いや、自分の名前の由来になった言葉を妙とか言わなくても、と思ったが、言われてみると、戦前はよく使われたようだが、最近ではめったに耳にしない言葉である。そういう言葉をあえて娘の名前にした、ということは、楠野さんのお父上は、なんというか、その、ライトサイドな思想の人なのだろうか、と心持ち緊張してきてしまう。

「父は別に右翼ではないんですけど」

 まただ。また気持ちを読まれた。テレパス七瀬ななせならぬテレパス七生か。

「楠木正成をすごく尊敬しているんです。うちの、楠野の家も実は楠木氏の末裔まつえいなんだ、って言い張っていて。クスノキが泰平の世になって気が抜けてクスノになったんや、って子供の頃から何度も聞かされました」

 話の内容よりも少しだけ関西弁が出たことに気が向いてしまう。いい感じなので、たまになまりを出してほしい、と何処どこかに要望書を提出したくなる。

「でも、楠野さんは確か奈良のご出身ですよね? 本当に子孫なんじゃないですか?」

「うちの近所はそういう人が多いんです。聖徳太子の生まれ変わりだとか役小角えんのおづぬの子孫だとか。本当にそうだったら日本史の常識がくつがえっちゃいますよ」

 そう言う楠野さんが心底ウンザリした表情だったのでつい笑いそうになる。しかし、楠野さんの容貌や気品からして、実は南朝なんちょうの血を引いている、と言われたら信じてしまうな、と思ったものの、それを口に出すのはさすがにはばかられた。

「あのー、もしかして、自分の名前があまり好きではないとか?」

 眉をひそめて溜息をつく様子が妙に似合っていて見とれてしまう。

字面じづら、というか、見た目は悪くないと思うんですけど、なにしろ、“七回生まれ変わっても国にむくいる”というのが凄すぎて。わたし一人が背負うには重すぎます」

 うれい顔のまま楠野さんは話を続ける。

「子供の頃、母にそんな風に文句を言ったら、“国じゃなくて世の中のために尽くすと考えなさい。とても素敵な名前よ”って言ってくれたんですけどね」

「お母さんのおっしゃる通りだと思いますよ。ぼくもいい名前だと思います」

 ありがとうございます、と軽く頭を下げられる。完全に陽が沈み、窓の外が真っ暗になっているのに気づいて、何故か言葉に詰まってしまう。しばしの沈黙を破ったのは彼女の「くすくすくす」だった。

「すみません。さっきのことを思い出してしまって。私の名前と塩野七生さんをからめたのはなかなか良かったな、って」

 もういいから。そのことは忘れようよ、と言いたかったが、むしろここは逆に自分からアピールしていく場なのかもしれない、と思い直した。

「考えたんですけど、塩野七生さんも七生報国から名前を付けたんですかね?」

「あの人は7月7日生まれだから、そういう名前になったはずですけど」

 アピールしていく場ではなかったようだ。しかも向こうの方が詳しいじゃないか。

「それに塩野さんは“ななみ”さんですけど。わたしは“ななお”ですから」

 え。出かかった大声を危ういところで飲みこむ。嘘だろ。ずっと「ななみ」さんだと思っていたのに。

「さっき、シオタさんのお話で、お父さんが男の子が生まれると確信していた、ってあったじゃないですか」

「ええ。ええ」

 内心の動揺を押し隠すためにメジャーリーグのボブルヘッドみたいに何度も大きく頷く。幸い楠野さんは私の様子など気にせずに話を続けてくれた。

「うちもそうだったんです。だから、“ななお”って本当は男の子の名前なんですよ。でも、わたしはこの通り女なので、名前を考えてなくて困ったみたいなんですけど、“いや、女でもこの名前で行ける”って押し通すことにしたらしくて。何事もそんな感じで雑なんですよ、うちの父は」

 彼女の名前が決まった経緯も父親に不満を述べているのも興味深かったが、私は私で「ななお」さんについて考えをまとめるのに必死だった。よりによって楠野さんの名前を間違って覚えるとか有り得ないだろ。そうは言っても、会社で誰も彼女を下の名前で読んでないから仕方ないって。え? でも、樋笠ひがささんが「ナナさん」って呼んでいるのを聞いた覚えが。いや、そうだったとしても「ななお」さんだとは気づかなくてもしょうがないだろ? 

「あの、シオタさん?」

 黙ったままの私が気になったのか、彼女が不審そうに訊いてきたので、直ちに脳内会議は打ち切られた。所詮私が何人集まったところで有効な策など出るはずもなかった。船頭せんどう多くして船山に上る。ドライバー多くして車宇宙に飛び出す。ことわざを21世紀向けに改変したところで、満面の笑みを浮かべて返事をする。

「ななお、という名前。楠野さんに似合っていると思いますよ、」

 あなたの名前は最初から存じ上げてましたよ、という態度を貫き通すことにした。その方が誰も傷つかずに済む。それに、どさくさまぎれに下の名前で呼んでしまった。しかし、よく考えてみれば、「ななみ」より「ななお」という名前の方がずっと素敵に感じられた。くすのななおさん、か。いいな。声に出して読みたい日本語ナンバーワンは今こうして決定された。

「はあ。それはどうも。ありがとうございます」

 楠野さんは今ひとつ要領を得ない表情で感謝を述べたが、私の奇行が招いた事態なので不満を言うわけには行かなかった。残り二切れになったブラウニーの片割れを楠野さんが口に運ぶ。名残を惜しむかのようによく味わっているようだった。それを見た私もデパートで閉店間際に流れる「蛍の光」を耳にしたのと同じくらいにセンチメンタルになる。

「塩野七生さん、昔はよく読んでました」

「『ローマ人の物語』とか、ですか?」

「ええ。学生の頃に一通り読みましたけど、最近はご無沙汰なのでまた読んでみようかと」

 読者を一人カムバックさせることに成功したので、塩野先生かあるいは新潮社は私に感謝してほしい。

「塩野さんはカエサルが理想の男性だと書いてましたけど」

「ああ。そういえばそうでしたね」

「楠野さんもカエサルはお好きですか?」

 思いついたことをすぐに口に出すのをやめにしたい。好みのタイプを女性に軽々しく聞くのはダメに決まっているではないか。

「いや、わたしはちょっと違いますね」

「くすくすくす」と笑われたので安心したが、それでも今度からは思いつきを審査するゲートを心の中に設ける必要があった。空港の保安検査場のようにX線で中身をチェックするのだ。

「タイプではないんですか?」

「ええ。手紙が短い人はちょっとダメですね」

 何を言っているのか、と一瞬戸惑ったが、「来た、見た、勝った」のことだと思い当たった。そんなところで判断する? と私の方こそ「くすくすくす」と笑いたくなる。それに、某巨大匿名掲示板に書き込むと「長文おつw」と揶揄されることの多い私としては心強い要素だと言えなくもなかった。

「あれは今でいうSNSみたいな感覚で手紙を書いたと思うんですよね、カエサル」

 楠野さんは私が話を当然理解しているという前提で話し出した。天才バッターはえてしていい打撃コーチにならない、という話を思い出す。

「フェイスブックとかツイッターですか?」

「ええ。“ルビコン川なう”みたいな感じで」

 危うく吹き出しそうになって急いでうつむく。真面目な顔でそんなことを言わないでほしい。

「どうしました? わたし、何かおかしなこと、言いました?」

 やめてくれ。それ、ダメ押しになっているから。しかも、「ポンペイウスがカエサルを退会させました」という余計な妄想までしてしまって、いよいよ笑いが止まらなくなる。LINEなんかやっていないのに、どうしてそんなことを思いつくのか。自分の想像力が憎い。

「どうも。お見苦しいところをお見せしてしまって」

 90秒後、私は楠野さんに頭を下げていた。心配そうな顔をしている彼女を見て、申し訳ないことをした、と反省していたが、

「シオタさんの笑いのツボって独特ですね」

 と言われて自らをかえりみる気はさらさらなくなった。あなただ。それはあなたのことだ。

「歴史上の人物で言うなら、高校の時にすごく好きだった人がいるんですよね」

 おや。向こうから話に乗っかってくれた。これは助かる。私としても彼女のタイプは知っておきたい。

「誰なんですか?」

 最後のブラウニーにゆっくりとフォークを刺してから、彼女はそっと呟いた。

周瑜公瑾しゅうゆこうきん です」

 フルネームなのが本気度の高さを表しているように感じられた。この場合、フルネームと言うのは適切なのかどうかはわからないが、ともあれ、楠野さんが万感の思いを込めてラストワンを味わい終わるまで質問を待つことにした。そして、120秒後。

「周瑜、というと、あの、三国志の?」

「はい。呉に仕えた、“美周郎びしゅうろう”と称えられた、あの周瑜です」

 完全にガチだ。私も三国志は人並みにたしなんでいるつもりだったが、これは危険な香りがする。大喬だいきょう小喬しょうきょうの話を振るのもまずい気がする。

「えーと、楠野さんが周瑜をお好きなのは、美形だから、なんですか?」

「もちろんです。美形、いいじゃないですか。男の人だって美人がお好きでしょう?」

 それは否定できない。今こうして、楠野さんと向かい合っている間中どきどきし通しの私が「人間、顔じゃないですよ」と言うのは、恐るべき偽善でしかない。

「ぼくの感触だと、三国志では諸葛孔明しょかつこうめいが一番人気のように思うんですけど」

「まさにそこなんです」

 なるべくヒートアップしないように話を振ったつもりなのに、身を乗り出さんばかりの勢いで食いついてきた。歴女れきじょって怖い。

赤壁せきへきの戦いでも、周瑜は孔明の影になっちゃってるじゃないですか。あの空回り感というか不遇ふぐうな感じが、なんというか、ぐっとくるんですよ」

 私が考えているより、この人はだいぶ厄介なのかもしれない。こじらせている、というか。

「それに、私の友達で時空を超えるレベルで孔明が好きな子がいたので、“推し”がかぶったらまずい、というのもありました」

 1500年以上前の歴史の話をしているのか今のアイドルの話をしているのか混乱してくる。

「時空を超えるレベル、というのはどういうことなんですか?」

「その子、高2の夏休みにひとりで中国旅行に行って、五丈原ごじょうげんまで行って泣いて帰ってきましたから」

 気合入りすぎだろう。現地の人も困惑したのではないか。それとも、そういう日本人は珍しくないのか。

「確かにそれは時空を超えてますね」

「でしょう? その子は今、大手商社の上海支社で勤務していて、現地で結婚もしたと聞いているので、昔の友人としては何よりなんですけど」

「好きこそものの上手なれ、ですね」

 当たっているのか的外れなのか、自分でもよく分からないことを言ってしまう。

「それで、シオタさんは?」

「はい?」

 ずい、と彼女が顔を近づけてきたので緊張する。美人は3日で飽きる、というのは絶対嘘だ。一生かかっても慣れそうもない。

「シオタさんの好きな歴史上の女性です。わたしにばかり話をさせるのはずるいですよ」

 あなたが自分から話をしたんじゃないですか、と反撃したかったが、もしかすると、最初からそれが狙いだったのか、という気もした。名前の由来とは逆のパターンだ。

「女性、ですか?」

「ええ。縛りを入れないと、信長のぶながとか龍馬りょうまとか適当なところでお茶を濁されそうですし」

 日本史の二大人気者を「適当」と言うのもどうかと思うが、そもそも私は信長も龍馬もそれほど好きではない。それにしても、好きな歴史上の女性、というのはあまり考えたことがない。クレオパトラ、楊貴妃ようきひ小野小町おののこまちといったいわゆる「世界三大美女」もあまりピンと来ないしな、と思ったところでふと思い出した。

「あ、一人いました」

「誰です?」

 楠野さんが本気で知りたそうな様子なので、「なんでこの人、こんなことに興味があるんだ?」とやや困惑したが、とりあえず話を続ける。

小式部内侍こしきぶのないしです」

 彼女の目が大きく丸くなって、中に吸い込まれそうな気分になる。そうなったらそうなったで別に構わない気もした。

「こしきぶのないし、ですか」

「はい」

 んー、と楠野さんが少し困った顔をしている。「ひそみにならう」の故事を思い出したが、そういえば西施せいしも候補に入れるべきだったか、と少しだけ考える。

「あの、その人は実在の人物ですよね?」

 それはそうに決まっている。架空の人物まで入れたら何でもありになってしまう。セーラームーンでも綾波あやなみでも何でもいいことになる。どちらかと言えば私はジュピター派でありアスカ派でもあるが。

 もしかすると、楠野さんは小式部内侍を知らないのだろうか、ということに思い当たった。周瑜にはあんなに詳しかったのに、と思ったが、興味の有無で知識に差が出るのは致し方のない事であり、私にも大いに身の覚えがあることだった。そういうことなら一から説明しよう、というつもりになっていた。

「あのですね、小式部内侍は、平安時代の人なんです」

「名前はそんな感じですよね」

 楠野さんも知らなかったとは言えないのか、知っている風な感じを出してきた。意外と見栄っ張りなのかな、と思いつつ説明を続ける。

「で、あの和泉式部いずみしきぶの娘なんです」

「ああ。だから、“小式部”なんですか」

「そういうことです。お母さんと同じように歌の才能があって、やっぱり同じように綺麗な人だったんだろうな、とぼくは思ってるんですけど」

「和泉式部は恋多き女性だったようですけど、綺麗だったかはわからないんじゃないですか?」

 いや、そこはいい方に想像させてほしい。それを言い出したら周瑜だって本当に美形だったかどうかわからない、などと言えば、美しい女王の怒りを買いそうなので、臣下しんかたる身として反論せずに話を進める。

「彼女、小式部内侍は若くして宮廷きゅうていに出て、歌の才能も評価されていたんですけど、まだ若いこともあってやっかみもあったみたいなんです。ある時、ある貴族が彼女のところにやってきて『またお母さんに歌を代作してもらったら?』とからかってきたんです」

「嫌な人はいつの時代にもいるんですね」

 楠野さんが本気で怒っていた。彼女も何か身に覚えがあるのかもしれない。働く女性が生きやすいとは言えない世の中だ。

「それで、貴族が立ち去ろうとすると、小式部内侍がその貴族のすそをつかまえて、見事な歌を咄嗟とっさに作って貴族をやりこめた、という話を中学の古文の授業で習ったんです」

「へえ。うちの学校は『徒然草つれづれぐさ』ばかりやってましたけど、シオタさんのところはそういうことをやってたんですか」

「ぼくは中学から私立に行ってましたから。それで、その話を読んで、“この女の子、かわいいなあ”と思ったんです。今で言う“萌え”というか」

 そう言っているうちに、「俺はなんて馬鹿な中学生だったんだ」という気持ちで頭が一杯になってきた。授業中にそんなことを考えるんじゃない、と四半世紀前の自分にきつく説教したくなったが、いくら自分自身とはいえ、中学生に本気で憤るアラフォーの男は馬鹿な男子中学生よりもっと始末に負えない、と思うと、怒りを何処に向けたらいいのか、わからなくなってしまった。

「たぶん、なんですけど、その、小式部内侍が裾をつかむところに中学生のシオタくんはぐっと来たんでしょうね」

 くすくすくす。そんな風に笑われると自分の恥ずかしい部分を把握されてしまったみたいでいたたまれなくなる。それに「シオタくん」と呼ばれたのも何故か恥ずかしい。

「はあ。まあ、そういうことなんでしょうね。本当に感激したんで、小式部内侍がその時にんだ歌も覚えたんですけど、だいぶ昔のことだから出てこないな。えーと、大江山おおえやま、で始まるというのは覚えているんですけど」

 記憶の扉をこじ開けようと四苦八苦している私の耳に、

「大江山 いく野の道も 遠ければ まだふみも見ず あま橋立はしだて

 となめらかな絹のような声が忍び寄ってきた。

「そうそう。それです」

 と顔を上げると同時に飛び込んできた楠野さんの笑顔を見た瞬間に全てを了解していた。またやられた。「くすくすくす」という笑い声もやはり絹のようになめらかだ。

「楠野さん」

「はい?」

「知ってましたね? 小式部内侍のこと」

 ビリー・ジョエルみたいに、と続けようとしたが、ビリー・ジョエルと小式部内侍を並べるのも妙な気がしたのでやめておく。歌手と歌人かじんでは似ているようでやはり違う。

「いえいえ、違います違います。たまたまその歌を知っていただけです」

「本当ですか?」

「信じてください。わたしがシオタさんをおとしいれるような真似をすると思いますか?」

 思います。残念ながら1か月前のことを水に流せるほど私は人間ができてはいない。

「わたしの家では、お正月に必ず百人一首をやっていたので、それで覚えていたんです。あと、『ちはやふる』も読んでますから」

 好きだと言ってもオタクだと思われないマンガを読んでいるあたりはさすがだな、と思ったが、それでも猜疑心さいぎしんは晴れなかった。ただ、目の前の楠野さんが本当に慌てているように見えたので、もしかすると本当なのかもしれない、という気もしていた。

「本当に違うんですけど、でも、信じてもらえなくても仕方ないですよね。なにしろわたしには前科ぜんかがありますから」

 しょんぼりしているのは演技には見えなかった。嫌だな。落ち込んだ彼女を見たくない。

「信じます。信じますから、そんなに落ち込まないでください」

「いえ、別に落ち込んではいませんけど」

 二人して黙ってしまう。なんだか妙な空気になってしまった。私のせいか、彼女のせいか、あるいは二人のせいか。

「ありがとうございます」

 先に口を開いたのは彼女の方だった。別に感謝されるようなことなどした覚えはないが。

「はい?」

「シオタさんの今のお話、とても面白かったです。今後の参考にさせていただきます」

 どの部分をどう参考にするのだろうか。営業先で相手の裾をつかまえたりするのか。

「いや、こちらこそ、楠野さんのお話、大変興味深く聞かせてもらって、楽しかったです」

 とは言ったものの、周瑜の話もあまりためになった気はしない。彼女が美形好きだと知って、私にはいよいよチャンスはない、としか思えなかった。整形でもするか。

「やっぱり楠野さんのことがわからないな」

「はい?」

 思いつきを審査する脳内のゲートは着工されたばかりでまだ機能していなかった。完成は来春らいしゅんあたりか。

「別に悪い意味で言っているわけはないんですけど、やっぱりぼくが考えていた人とは少し違ってたな、って」

「この前もそう言ってましたね。人のことを勝手に“ストレンジャー”にして」

 彼女が溜息をついて、背もたれに身体を預ける。

「すみません。失礼なことを言って」

「いえ、失礼とは思いませんけど、何を当たり前のことを言っているんだろう、とは思います」

「え?」

「当たり前じゃないですか。そう簡単にわたしという人間をわかったつもりになられては困ります。会社で働いている時のわたしだけがわたしじゃありません」

「すみません」

「だから謝らないでください。わたしだって、シオタさんのことがわかりませんし、今日ますますわからなくなりました」

 お互い様です。そう言うとダージリンティーを飲み干した。

「ぼくのこともわかりませんか?」

「わかりません。もう少しヒントを出していただかないと」

 不親切な旅行案内に注文を付けるように文句を言われた。

「でも、こないだの“ストレンジャー”の話じゃありませんけど、わたしもわたしのことが全然わかってません」

 くすくすくす。お茶もお菓子もなくなったテーブルの上に新たな一品を追加するかのように、楠野さんが頬杖ほおづえを突く。気の抜けたような、リラックスした感じの彼女がこちらに目を向けた瞬間、「マッターホルンの淡雪」を食べたい、と思った以上の強い衝動しょうどうが私をとらえていた。彼女のことをわかりたい。そして、彼女に私のことをわかってほしい。そんな衝動を押し隠したまま会話を続ける。

「楠野さんなら自分のことをよくご存じなのかと思ってましたけど」

「そんなことないです。まあ、強いて言うなら、時には善人で、時には悪人、というのが自分自身のイメージですけど」

峰不二子みねふじこみたいなことを言いますね」

 きょとんとした表情になる楠野さん。しまった、伝わらなかったか。

「峰不二子がそんなことを言ってるんですか?」

「『カリオストロの城』で言ってましたよ。てっきりご覧になってるかと」

「観ましたよ。銭形警部ぜにがたけいぶが“あなたの心です”と言っていたのは覚えてるんですけど。わたし、ジブリはあまり得意じゃないんですよね」

 わかりづらいことを言った私が悪いに決まっているのに、楠野さんが責任を感じているように見えたので、『カリオストロの城』はジブリの映画ではない、と突っ込むわけには行かなかった。

「不二子ちゃん、子供の頃に少し憧れてました」

「そうなんですか?」

「ええ。夕方に再放送をやっているのをよく観ていて。ルパンを相手に一人で堂々と渡り合うのがかっこいいなあ、って」

 今の彼女と峰不二子はかけ離れている感じなので意外な気がしたが、自分と違うからこそ憧れる、という心情は、少年時代にプロレスに熱中していた私にもよく理解できた。でも、楠野さんだってルパン一味と対決しても引けは取らないはずだ、と思っていると、当の彼女が微笑みをたたえたまま黙って私を見ているのに気づいた。瞳の輝きがいつにも増して強く、あやしい感じがする。そして、楠野さんがゆっくりと口を開いた。

「ねえ、ルパン」

 強烈なカウンターを喰らったかのようにのけぞってしまう。とても我慢できない。モノマネのつもりなのだろうが、似てない。似てないにも程がある。あんな優し気でのんびりした不二子ちゃんはいない。ルパンよりムーミンに呼びかけているみたいだ。噴き出したのは本日2度目だが、1度目とは段違いの強烈さだった。わからない。やっぱり楠野さんという人がわからない。

「似てない。全然似てない」

 漏れ出た声を聞いた楠野さんはさすがにむっとした様子で、

「そうですか? 結構自信あったんですけど」

 あれで? と思ってはいけない、とわかっていても思ってしまうのだから仕方がなかった。今の私には笑いを止めるのはリーマン予想を解くのと同じくらいの難事業なんじぎょうだった。ひー、ひー、と息をつきながら、なんとか顔を上げる。

「いや、申し訳ない。でも、破壊力がありすぎて、ぼくにはとても耐えられませんでした。本当に申し訳ない」

「わたしのモノマネでシオタさんの何が破壊されたんですか?」

 誠心誠意せいしんせいい謝罪したつもりだったが、余計なワードを入れてしまったせいで、楠野さんをますます怒らせてしまう。どうも困ったことになった。

「ああ、でも、そうですね」

 マジシャンのように怒りを一瞬で消すと、楠野さんがにやりと笑った。おなじみの「くすくすくす」に負けず劣らず、こちらも魅力的だった。無料ではもったいないスマイルだ。

「シオタさんにルパンのモノマネをしてもらいましょうか」

「ええっ、どうしてそんな」

「今度はわたしが笑いたいからです。わたしのことを笑っておいて、それで済むと思ってるんですか?」

「そんな無茶苦茶な」

 またしても無茶振りをされてすっかり弱り切った表情になっていたはずの私だったが、実は内心では余裕綽々しゃくしゃくだった。正直なところ、こういう流れになるのは読めていた。自慢ではないが、私のルパンのモノマネには定評があった。小学校低学年からかれこれ30年近く磨いてきたスキルである。大学のサークルの飲み会で披露した際には、「お前なら三代目のルパンになれる」と先輩に絶賛されたほどだが、その意見に対して、「いや、厳密に言えばクリカンは二代目ではないでしょう」などと異論が相次ぎ、オタクが集まると面倒くさいことにしかならない、という教訓を得たのも今となってはいい思い出のような、そうでもないような気がする。ともあれ、これから私が見事なルパンのモノマネをすることによって、すっかり追い詰めたつもりになっていた楠野さんが感動して、今までの非礼ひれいびるとともに、「シオタさん素敵。結婚してください」と抱きついてくる、というハッピーエンドに到達する一分いちぶすきも見当たらない緻密ちみつな計画を立てて、今から実行しようとしていた。

「じゃあ、仕方ないですね。やってみますよ」

 渋々やっている雰囲気を出すことによって、後にやってくる感動をより大きなものにするのを狙っていた。ぱちぱちぱち、と小さく手を叩く楠野さんの態度も豹変ひょうへんするはずだった。

「では、いきます」

「お願いします」

 すー、と息を吸い込んでから、

「おーれのなまえはるぱーんしゃーんしぇー」

 決まった。なんてそっくりなんだ。俺は山田康雄やまだやすおの生まれ変わりに違いない、と時系列を無視した感動にひたっていたので、あたりの様子がおかしいのになかなか気づけなかった。周囲から失笑と苦笑が聞こえてくる。しまった。モノマネを上手くやろうと、それだけを考えていたせいで、声のボリュームを落とすのをすっかり忘れていた。店中に怪盗の名乗りが響き渡ったに違いない。うわあ。恥ずかししぎる。頭に血がのぼるのを自覚しながら前方を確認すると、

 くすくすくす。くすくすくす。くすくすくす。くすくすくす。

 彼女も当然の反応を示していた。全身が小刻みに揺れている。私のパーフェクト・プランが砂のように崩れ去っていくのを認めざるを得なかった。

「まさか、あんなに全力でやっていただけるなんて」

 くすくすくす。いや、私がやらかしたとしても、あなたの不二子ちゃんが帳消しになるわけじゃないからね、と言いたかったが、糸のように細められた目の奥に光が時々よぎるのを見ると、口を開く気はなくなってしまう。どうあがいても、この人には勝てない。

「シオタさんって、本当にいい人ですね」

 ようやく落ち着いたらしい彼女にそう言われても、あまり喜べなかった。ただの「いい人」ではなく、「どうでもいい人」「都合のいい人」なのではないか、とひがみっぽく考えてしまう。

「あれ?」

 楠野さんがジャケットからレモンイエローのスマホを取り出すと、画面を見つめた。

森宮もりみやさんから連絡が来てました」

 森宮さん、というのは、うちの会社の総務を取り仕切っている女性で、仕事を決しておろそかにしない姿勢から、会社のみんなから絶大な信頼を得ていた。楠野さんと年齢も一つか二つしか違わないはずだった。

「何かあったんですか?」

「大したことではないんですが、明日の朝一で相談したいことがあるそうです」

 そう言ってから、楠野さんの態度からそれまでの落ち着きは消えてしまった。妙にそわそわしているのが傍目はためからも見て取れる。理由はわかっていた。この店からなら会社まですぐに行けるから、明日まで延ばすことなく、今日のうちに解決しておきたいのだ。ただ、私に気兼きがねしてそれができないでいる。そういうことなのだろう。変なモノマネをした私と同類に見られたくなくて離れたいんだ、とまでは思わなかった。森宮さんと同じように、彼女が仕事に関して手抜きのできない人だというのはよくわかっていた。

「森宮さんはまだ会社に?」

「ええ。あの人、まず定時で帰りませんから」

 嫌味で言っているわけでなく、親近感があるが故の軽口なのだろう。楠野さんと森宮さんと樋笠さんが3人で連れ立って昼食に出かけるのを何度か見た覚えがある。

「今から行ったらどうです?」

「いいんですか?」

 自分でもこれほどいいトスを上げられた記憶はあまりない。楠野さんはスパイクを決めようと飛び上がろうとしていた。

「ぼくはもう少しゆっくりしていきますから、どうか気にしないで」

「では、お言葉に甘えさせてもらいます」

 音もなく立ち上がる楠野さん。

「今日はとても楽しかったです。また明日よろしくお願いします」

「こちらこそ。お疲れ様です。楠野さんはもう少しだけ頑張ってください」

 お互い頭を下げ合う。私の横を通り過ぎた彼女の明るい髪に留まったバレッタが朝と同じように白く輝いているのを見た瞬間、彼女の名前を呼んでいた。ぴた、と足を止めて振り向いた顔には微笑みがたたえられていた。アイスティーに浮かんだレモンのように薄くさわやかな微笑み。

「あ、えーとですね」

 少しためらってから、

「今度、おすすめの立ち食い蕎麦屋に連れて行ってほしいんですけど」

 馬鹿なことを言っていると自分でも十分わかっていたし、会社に急いでいる人を引き止めてまで言うことではないのも明らかだった。脳内のゲートをなんとか年内には完成させなくては。

 くすくすくす。やはり笑われた。ただ、

「はい。それならそのうちに一緒に行きましょうか」

 そう言われたのは「やはり」ではなかった。軽くお辞儀をしてから楠野さんはカフェの外へと出て行った。

 再び聞こえてきた失笑と苦笑は気にはならなかった。モノマネの後で女性の名前を大声で呼んだ男が滑稽こっけいなのはわかりきっている。しかし、そんなことはこの際どうでもよかった。「それならそのうちに一緒に行きましょうか」。その言葉のほうが何よりも重要だった。もちろんただの社交辞令に過ぎないかもしれない。とはいえ、約束は約束である。「夜桜お七」を歌ってくれるのと同じ約束である。履行を迫ってはいけない、という理屈はないはずだった。

 1時間前に高くそびえていた巨峰きょほうは消え失せ、器の中には白い液体だけが溜まっていた。このままでは嫌だ、とそれだけを思っていた。1ヶ月前の会社、そしてついさっきまでの「プリンス・ルパート」。彼女と2人で過ごした時間は、実に楽しいものだった。部分的に見れば面倒くさかったり腹が立ったりはしたが、それでも彼女といて楽しいのは明らかで、それこそが何にも増して大事なことだった。それでも、このままでは嫌だった。もっと近づきたい。もっと長い時間一緒にいたかった。金もキャリアも無に等しいアラフォーの冴えない男が、30歳を少し過ぎているとはいえ能力の高い美しい女性にアタックしたところで、玉砕するのは当然のことで、それを覆す策などありはしなかった。しかし、それでも、なんとかしたいのだ。

「お下げしてよろしいですか?」

「マッターホルンの淡雪」を運んできたのと同じウェイトレスにそう言われて、思いつめすぎているのに気づいた。ああ、そうですね、などと適当に相槌を打ちながら、「追加で注文したいんですけど、いいですか?」

 とつい言ってしまう。おうかがいします、と言いながらもウェイトレスは戸惑った様子だったが、私も同じくらい戸惑いながらメニューをパラパラめくって、

「この、”ゴッホの耳”と”生命の泉”をお願いできますか?」

 と頼む。どちらもどんな食べ物なのかさっぱりわからないが、とりあえず何でもいいから口に入れて落ち着きたかった。かしこまりました、とからの器を持ってウェイトレスは去っていく。

 高嶺の花だな、とまた感じていた。とはいえ、いくら高嶺の花でも山に登れば間近まぢかで見られて手でれられるかもしれない、と考えるのは今までにないことだった。とりあえず、山に登らなければ何も始まらないのだ。もちろん、遭難のおそれはあったが、ルートを見失って崖から落ちようが、ヒグマの餌になろうが、氷壁ひょうへきに埋もれて1万年後に発見されようが、それはそれでいいのではないか、という気分になっていた。もっとも、「ゴッホの耳」と「生命の泉」がテーブルに到着した瞬間にそんな気分は消し飛んでしまったのだが。                        (終)


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くすくすさんと私~年下の同僚にからかわれておじさんは困ってます~ ケンジ @kenjicm

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