くすくすさんと私~年下の同僚にからかわれておじさんは困ってます~
ケンジ
第1話くすくすさんと夜のストレンジャー
困った。
今すぐ『ストレンジャー』を歌いたい。もちろん、ビリー・ジョエルの名曲のことだ。急にあれを歌いたくてたまらなくなってしまった。
だが、今、私は家にいるわけではなく、会社にいて仕事もまだ残っていた。普通なら歌える状況ではない。ただし、現在の時間は夜の10時で、手狭なオフィスには私以外の人間は誰もいなかった。週に一度の残業の日で私だけが居残りをしていた。ということは、たとえ声を上げて歌ったところで誰の耳に止まることもないわけで、歌おうと思えば歌えるのだ。まるで誰かが私のためにセッティングしたとしか思えない状況にあって、歌おうかやめておこうか、かれこれ15分近く迷い続けていた。
『ストレンジャー』を最初に聴いたのは10代の頃で、確か煙草か
「さて」
そう呟きながらも、なおも決めかねていたが、実のところ歌う方向で考えていた。私しかいないオフィスで下手糞な歌をがなったところで誰の迷惑になるわけでもない。ただ一つ不安なのは誰かが急にここにやってくることだけだが、おそらく誰も来はしないだろう、という確信めいたものもあった。半年前にこの会社に入ってから何度となく残業してきたが、そんな時に他の社員がやってくることはなかったし、会社の入っているビルを巡回しているはずの警備員が立ち寄ったためしもなかった。誰か差し入れでも持ってきてくれればいいのに、と非人情をうらんだこともあったが、こういう状況になってみれば、人と人との触れ合いが失われた現代社会もそれほど悪いものではない、と思えてきた。
「ん。んん」
チューニングするかのように咽喉の調子を確かめてみる。もう歌う気満々だったが、別にフルコーラス歌うつもりはなかった。『ストレンジャー』には、いわゆるサビにあたる部分はないから、Bメロとでも言うのか、そこだけを歌えば満足できるはずだった。ためしに一度歌ってみる。と言っても、外に漏れないように口の中に籠る感じで歌ったので、自分の耳でもよく聞き取れない。ワイン通が赤い液体を口に含んで転がすように味わっているのをTVで観たことがあるが、あれと似ている気がした。もちろん、こんなことで欲求不満が解消されるわけがなく、次こそが本番だった。声を張り上げて熱唱する歌ではなかったが、それでもできるだけ気持ちを込めて歌いたかった。あー、あー、とありもしないマイクの機能をテストするかのように声を出してから、深く息を吸い込み、おもむろに口を大きく開いた。
「ドンビーアフレイトライアゲン エビワンゴーサウ エビナウアンゼンフーウー
ユードゥイッワイキャンサムワンエル ユーシュノーバイナウ ユーブビンゼアヤセル」
アカペラで歌い切った。あたりの空気に余韻めいたものが残っているのを感じる。胸の内にわだかまっていた歌唱欲がすっかりなくなっているのに気づいて、あんなに迷わないでさっさと歌えばよかった、と無為でしかなかった15分間をひそかに笑い飛ばす余裕も出来ていた。
「さて」
もう一度そう声に出して、ダイヤルをひねるように気持ちを切り替えてデスクトップPCのモニターに視線を戻す。少し目を離しただけで意味がまるで取れなくなってしまったデータに集中しようとしていると、
くすくすくす。
背後から笑い声が聞こえてきたので、驚いて振り返るといつの間にか
くすくすくす。
そんな私の屈託を知るはずもなく、もう一度彼女は笑う。甘くなめらかな響きが鼓膜を震わせる。
「ああ、そうか」
2度目の笑いの後に発せられた、やや低めの落ち着いた声は私に向けられたものではなかった。
「今日は木曜日なんですね」
「え?」
「“タウンむさしの”が締め切りだから、構成の人がひとり残っていないといけない。そして、今日の当番はシオタさんということですね」
「はあ」
くすくすくす。私の要領を得ない反応を可笑しがったわけでもなく、事実を了解できたことに純粋に喜びを感じているように見えた。彼女が知的な人だというのはわかりきっていたので特に驚きはない。それより鳶色の瞳を光らせたまま私の顔から目を離してくれない戸惑いの方が大きかった。
ローヒールの音が高く響いたかと思うと、いつの間にか彼女がすぐそばに来ていた。見下ろされる形になっていよいよ気後れがひどくなる。
「ここ、座ってもいいですか?」
右隣の事務用の椅子を指さした。そこにはいつも
「どうぞどうぞ」
音もなく腰掛ける仕草に、おんぼろの椅子にそこまで優雅に振舞わなくてもいいのに、と思っていたせいで、
「正直どうかと思うんですよね」
彼女の言葉に反応することができなかった。
「はい?」
「仕事を頂いている立場でこういうことを言うのは良くないとはわかっているんですけど、先方もこんな夜遅くまで粘らなくてもいいんじゃないか、と思うんです。おかげで、うちの構成さんが残業しなければいけなくなって、現にシオタさんは今こうして待っているじゃないですか」
私が今夜こうして残業している理由は彼女が説明してくれた通りだが、それよりも何よりも彼女の首元にあしらわれたオレンジと白のマーブルのスカーフについ目が行ってしまう。華やかな顔立ちと相俟ってスチュワーデス―今ならキャビンアテンダントと呼ぶべきなのだろうが―にしか見えない。彼女なら飛行機どころか宇宙船でも見事に仕事をこなすことだろう。
「まあ、別にいいんじゃないですか?」
「と言いますと?」
首をかしげてこちらの眼を覗き込まれたせいで言葉に詰まる。向こうの一挙手一投足にいちいち反応している自分が嫌になってくる。
「いや、あちらさんも最高のものに仕上げたいんですよ、きっと。もちろん、時間をかけたところで出来栄えに大差はないのかもしれませんが、“あれだけ時間をかけたんだから”と納得はできますから」
「つまり、心理的な問題だと?」
「ですね」
ふうん、と右の人差し指を薄桃色の唇に当ててから、
「いささか非生産的な気もしますけど」
まだ納得がいかないように言葉を返してきた。
「それを言ったらぼくもあまり生産的ではありませんから、お互い様ですよ」
ははは、と軽く笑ってみせる。
「シオタさんは優しいんですね」
そう言われたが、あまり褒められてはいない気がした。この件に関しては彼女だけでなく、私以外の構成の人間も大いに不満を持っているようだったが、私が先方の仕事ぶりを咎める気になれないのは、かつて私も締め切りぎりぎりまで粘って周囲の人間を困らせた経験が多々あって、とても他人に言えた義理ではないだけの話だった。だから私が取り立てて優しいわけではないのだが、前職のことはあまり話したくはないので、ええ、まあ、とか適当な相槌を打って済ませてしまった。
「楠野さんこそこんな時間まで何をされてたんです? お仕事ですか?」
質問された彼女が少しだけ目を見開く。私から何か言い出してくるとは思っていなかったのだろうか、という疑問は、柔らかな微笑みを目にしたせいで呆気なく消えていく。
「仕事ではないんですけど、仕事と関係なくもない、といった感じですね、準仕事というか」
妙な言葉遣いをする、と笑いそうになるのをこらえつつキーボードを叩き始める。彼女の出現で忘れていたが、そういえばまだ仕事は残っていたのだ。
「準仕事、ですか」
「ええ。クライアントの方と食事をしてきたんです。その場で何か具体的な話があったわけではないんですが、そういう積み重ねが後々生きてくるものなので」
仕事ができるというのはこういうことなのだろうな、という気がした。細やかな気配りと目配り。いつだったか、営業の人間が出払っている時に突然やってきた老人の対応に困り果てていると、そこへ戻ってきた彼女があっさり問題を解決してしまったのを思い出した。出来たお嬢さんですなあ、と笑顔で帰っていった老人の呟きに心から同意したかった。
「それで、その準仕事は上手く行きましたか?」
「ええ、それは」
と言ってから、
「何か馬鹿にされてる気がするんですけど」
軽く睨まれた。
「いやいや、そんなことないです」
馬鹿にはしていない。面白がっているだけで。
「ならいいんですけど」
背もたれがぎい、と鳴る。あ、この人にも体重はあるんだ、と馬鹿げたうえに失礼なことを考える。
「駅前のレストランで食事してたんですけど」
「ああ、最近出来てましたね」
いかにも敷居の高そうなところで私一人で入るのは躊躇われたが、準仕事にはぴったりだろう、と思っていると、彼女の視線が刺さってきた気がしたので慌てて考えを打ち消す。
「店を出たところで会社に忘れ物をしたのを思い出したんです。この時間なら構成の方がまだ残ってるはずだから取りに行こうと思って」
「ああ、それで」
だからこんな時間に来たのか。ようやく納得がいった。
「それで、その忘れ物は?」
「ありませんでした」
「え?」
「ありませんでした」
繰り返し言われてもわからないものはわからない。もしかしてそれは大変なことではないのか。
「え? いや、あの、それだったら、もっとちゃんと探した方がよくないですか。うちの会社に不届き者がいるとは考えたくありませんが、でももし万が一」
くすくすくす。目当てのものが無くて慌てているはずの彼女が笑い出したので混乱する。私だけが慌ててしまっているのがなんとなく理不尽な気がした。
「いえ、そうではなくて。あるはずの忘れ物がなかった、という話ではなくて、そもそも忘れ物自体がなかったんです」
「はい?」
「会社に戻ってきて、自分の机の引き出しに手を掛けた瞬間、“そういえば、あれは今日家に置いてきたんだ”と思い出したんです」
「ああ、そういうことですか」
乳を溶かし込んだように白い顔がかすかに赤みを帯びたのは自分のミスを恥じているからだろうか。
「わたし、よくそういうのをやっちゃうんです。もう、本当に馬鹿だなあって」
むしろそれでいいんじゃないか、という気がした。時々うっかりミスをする方が親しみを持てて彼女にとってもいいはずだ。それに、あくまで一般論としての話だが、少し天然の入った知的な美人なんて、スーパーレアどころかウルトラレアの、誰もが探し求めて手に入れたがっている物件だろう。もちろん、楠野さんがそうだと言っているわけではなく、私自身の好みと関係があるわけでもない、あくまで一般論としての話だが。
「でも、ぼくもそういうのをよくやらかしますから。こないだもipodがない、って家の中を慌ててさんざん探しまくっても見つからなくて、どこかで落としたのかなあ、ってがっかりしていたら、実はその時履いていたジーパンの後ろポケットに入っていた、ってことがありましたから。まったく、無駄に騒いで損しましたよ」
「それは老化かも知れませんね」
フォローしたつもりが切って捨てられた。それはあんまりだ、と言い返したかったが、彼女は私を心配してくれてるようで、青魚を食べると記憶力がよくなるそうですよとか、早起きして身体を動かすと脳も若返ると聞きましたとか、真剣にアドバイスしてくれているので、怒るのも筋違いな気がして何も言えなくなってしまった。
「それにしても大変でしたね。こんな夜遅くに無駄足を踏むなんて」
もつれた感情を振りほどこうとしたわけでもないが、楠野さんとのおしゃべりよりもデータの処理の方に集中しようとする。作業もそろそろ片付こうとしていた。
「いえ、そんなこともないですよ。全くの無駄というわけでもないです。だって」
くすくすくす。何もおかしいこともないはずなのに笑うのはおかしい、と奇妙に感じていると、
「シオタさんの素敵な歌を聴かせてもらいましたから」
オフィスが急に静かになった気がした。PCがカタカタカタと音を立てているのがやけに耳につく。私が入力したコマンドを中で小人たちが実行していると思えば微笑ましくもあったが、本当のところは型落ちしたマシンにそろそろガタがきているあらわれでしかなかった。買い替え時なんじゃないかな、と思ったところでようやく我に返る。今、彼女は何と言ったのか。
「楽しそうに歌ってましたね」
現実からエスケープしようとしても無駄だった。やはり彼女に聞かれていたのだ。うわあ。なんてことだ。気を抜いて歌っているところを人に見られるなんて。恥ずかしすぎる。しかも、実際に見られてみると、「楠野さんには一番見られたくなかった」という思いが胸の内を占めていくのを強く感じていた。何故そう思うのか、そこまではわからなかったが。
「あれ? 歌ってませんでした? じゃあ、あの時わたしが聴いたのはいったい」
白々しくとぼけられた。わかっているくせに。一思いに殺してくれればいいのに、急所を的確に避けてナイフで刺されているみたいだ。ここまでくれば観念した方がいいのはオキアミでも理解できるはずだった。おとなしくクジラの腹に収まった方がしあわせだよ、と。
「歌ってました」
「はい?」
「歌ってました。誰もいなかったので、つい、歌いたくなって、歌ってしまいました。どうもすみませんでした」
あ、いえいえ、と楠野さんがおろおろし出したので、私の方も内心慌ててしまう。私が気を悪くしたのだと思ったのだろう。多少むっとしていたせいであてつけがましく頭まで下げてしまったが、そこまでする必要は無かったのだ。自分の大人げなさを実感するという、日々のノルマを今日も着実に実行してしまった。
「謝らなくてもいいじゃないですか。別に誰かに迷惑がかかったわけでもありませんし、何かのルールに違反したわけでもありませんし」
「はあ」
私が入ってこのかた、タイムレコーダーの時間も5分遅れのまま、誰も直そうとしないこの零細企業が、歌を禁止するというディストピアじみた規則を作るはずもなかった。そんなルーズな雰囲気が私には合っているのだが。
「それに、お世辞を言ってるわけではなくて、本当に素敵でしたよ、シオタさんの歌」
2つの掌を合わせてこちらに流し目をくれる彼女が本当に私を褒めてくれているのはわかったが、それはそれで気まずいものがあったので、視線をモニターへと逸らしてしまう。
「それはどうも」
最後の入力が終わって心持ち強くエンターキーを叩く。
「ところで」
くすくすくす、と笑いながら話を切り出される。
「さっきの歌は何という歌なんですか?」
まだその話を続ける? と言いたかったが、向こうは別に悪気はなさそうなので、あまり強くも言えない。
「日本の歌じゃなかったみたいですけど、外国のですか?」
「ストレンジャー」
「はい?」
ぼそっと呟いたせいでちゃんと聞き取ってもらえなかったようだ。「もっとハキハキしゃべれよ」とこの前社長に怒られたのを思い出す。
「ストレンジャー、という歌です」
「誰が歌ってるんですか?」
「ビリー・ジョエル。結構有名な歌なんですけど」
「へえっ」
感心している様子を見ていると洋楽にはあまり強くないのかな、という気がした。クラシックが好きなのかもしれない、と思ったが、それは何の根拠もない妄想か、あるいは「そうあってほしい」という私の一方的な願望でしかなかった。
「それはそうと」
マウスをクリックしながら最終確認をしていると、また話を切り出された。
「その<ストレンジャー>、もう一度歌ってもらえませんか?」
「はい?」
さすがに驚いて彼女の方に向き直ると、期待を込めた視線と正面からぶつかってしまった。
「本当にいい歌だったので、もう一度ちゃんと聴いてみたいんです」
「いや、あの、その。あの時は誰もいなかったからたまたま歌っちゃっただけで。ぼくの歌なんか誰かに聴かせるようなものなんかじゃ」
「そんなことないですから。大丈夫ですから」
一体どういうつもりなんだ。何かの罠か。彼女の意図はどうあれ、今は全力でこの願い事から逃れなくてはならなかった。
「あ、それと」
細身の肢体を乗せた椅子がわずかに滑って私の方へと近づく。キャスターの具合は悪くないのだろうが、間合いが縮まって私の困惑はよりひどくなる。
「今度は全部歌ってみてください。フルコーラスで」
「はい?」
なんで歌うことを前提に話が進んでるんだよ、と言いたかったが、もちろん彼女にそんな気安い口が利けるはずもない。たとえ、何かの間違いで友達にでもなれたとしても、とてもそんな風には話せない、という気がした。
「いや、あの、それは本当に無理ですって。さっきはたまたま詞を覚えていたから歌っただけで、別に歌詞を完全に覚えているわけじゃありませんから」
「そうですね。外国の歌ですもんね」
彼女が考え込んだのは一瞬だけで、すぐに私の方に向き直って明るい笑みで解決策を示してきた。さすがは我が社が誇る腕利きのキャリアウーマン。
「あ。じゃあ、わからないところはハミングしてください」
「はい?」
ハミング? そんなの子供の頃に賛美歌を歌って以来やったことなどない。カトリック系の幼稚園に2年間まじめに通っていたのだから、困難な状況に置かれている私を神は見捨てないでほしかったが、
「別に全部ちゃんと歌えなくてもいいですから。お願いします」
天使のような女性が私に無理難題を告知しているのが今の現実だった。エリ、エリ、レマ、サバクタニ。
「でも、ハミングって、そんな」
「わたしはよくやりますよ。カラオケで失敗しちゃったときに、ふふふーん、ってごまかすんです」
「へえ。そうなんですか」
「ふふふーん」がとても可愛らしかったので、こちらもついごまかされそうになるが、ピンチが目前に迫っていることに何も変わりはなかった。でも、あの「ふふふーん」はやっぱりよかった、と思い返すのと同時に閃きが私の脳裏に訪れた。これだ。
「楠野さんもカラオケに行かれるんですか?」
「はい。歌うのが好きというわけではないんですが、お付き合いがあると好むと好まざるとに関わらず、歌わないといけない場合も多いので」
「好むと好まざるとに関わらず」というフレーズを文章でなく口にする人を初めて見た、と感心したが、大事なのはそこではない。
「持ち歌とかあるんですか?」
「そんな自慢できるレベルではありませんけど」
一瞬ためらってから、
「坂本冬美さんの<夜桜お七>をよく歌わせてもらってます」
凄いな。もろに熱唱型じゃないか。彼女の普段の落ち着いたたたずまいから、てっきり<ハナミズキ>か<雪の華>でも切々と歌い上げるものだとばかり思い込んでいた。でも、こっちの方が聴きたい。断然聴きたい。
「そうですね、じゃあ、交換条件というわけでもないですけど」
今まで一方的に彼女にやりこめられてばかりだったから、私の方から少しばかり攻めても誰にも文句は言われないはずだった。
「ぼくが歌った後で、楠野さんにも歌ってほしいですね、<夜桜お七>を」
「はあ」
楠野さんはいまひとつ理解しかねる表情で頷いた。この人、自分に発言権があるとでも勘違いしているのかしら? とでも思っていそうだった。「かしら」などと話す女性にお目にかかったことはないが、彼女なら違和感なく話せるような気がした。
「何故、<夜桜お七>って指定するんです?」
「いや、だって、ただ単に“歌ってください”ってお願いして、童謡とか校歌とか歌われたら、なんだかつまらない気がして」
「うちの小学校の校歌、いい歌でしたけど」
思わぬ愛校心を発揮されて、気を悪くしたかな、とびくびくしたが、
「わかりました」
天井のシーリングライトより明るい笑顔で答えてくれたので安心する。
「シオタさんが歌ってくれたら、わたしも<夜桜お七>を歌うことにします」
「約束ですよ?」
「はい。約束です」
ごくつまらないことでも、彼女と2人だけのつながりができるのは素晴らしいことに違いなかった。よし、じゃあ、歌うか、とすっかりやる気になっている一方で、まんまと乗せられた、という後悔もかすかに残っていたが、それはあえて見ないことにする。
ん、ん、と咽喉の調子を確かめてから、息を深く吸い込む。緊張してきた。柄にもなく、と言いたいが、今までが緊張してばかりの人生だったので、それが私の柄なのだろう。
「じゃあ、歌います」
「お願いします」
彼女の笑顔を見る限り、本当に私の歌を楽しみにしてくれているようで、わけわからん、と思いながらも、がっかりさせたくないな、という思いも胸の中で混ぜこぜになる。ともあれ、約束通り、私は歌い始めた。
ぱちぱちぱち、と拍手が鳴るのを耳にして、<ストレンジャー>を歌い切れたことが自覚できた。
「お疲れさまでした」
楠野さんは本当に喜んでくれているように見えた。笑顔に嘲りや皮肉が含まれている様子はまるでない。おっさんの下手な歌をわざわざ聴いてこの反応とは変な人だな、とひどいことをつい考えてしまう。
「いや、つまらない歌をお聞かせしてしまって、お恥ずかしい限りです」
「そんなことありません。とてもよかったです」
「いえいえ」
謙遜はしてみたが、内心自分でもわりとよく歌えた気がしていた。間違えずに歌おうとするよりも気持ちを込めようとしたのがよかったのかもしれない。特に“some are silk,and some are leather”は結構上手く行ったという自信があった。
「最初に耳にした時から思っていましたが、通して聴くとやっぱりいい歌だってわかりますね。それに」
俯き加減になった彼女の顔が私からは見づらくなる。
「ちゃんとハミングしていたのもポイントが高いです」
くすくすくす。くすくすくす。小刻みに震える細い肩を見るうちに胸の中が羞恥心で一杯になる。いや、確かに中盤で歌詞を度忘れしているのに気づいて、慌ててハミングしたけれど、それは彼女のアイディア通りにやったまでのことで、笑われる謂れなどまったくないはずだった。しかも「ポイント」ってなんなんだ。貯まったら何かいいことでもあるのか。
「シオタさんって素直な方なんですね」
くすくすくす。まだ笑っている。どうも私とでは笑いのツボが全く異なるようだった。彼女は確か関西の方の出身だったはずだが、本場の笑いとはそんなものなのだろうか。
「ぼくなんかじゃ元歌の魅力をちっとも出せませんから、ちゃんと本当の歌を聴いた方がいいですよ」
無理に話題を切り替えようとして顔をPCへと向ける。40歳にさしかかってもふてくされてばかりの自分が嫌になる。ええ、それは、などといつもの彼女らしからぬ妙に歯切れの悪い返事の後で、
「ところで少し気になったんですけど、誰のことなんですか?」
よく理解できない質問をされて再び顔を彼女の方へと向ける。30秒ぶりの再会だ。
「はい?」
「いえ、タイトルの<ストレンジャー>なんですけど、それって誰なのか、って気になって」
「ああ。それは自分自身のことですよ」
「え?」
「歌詞を読めば分かりますけど、“誰もが自分でも知らないもうひとつの顔を持っている”という意味みたいですよ」
「へえ。深いですねえ」
彼女は素直に感心してくれているので嬉しくなる。ここでもうひとつ何か知識をひけらかせば好感度アップにつながるのではないか。
「昔、“ストレンジャー・ザン・パラダイス”という映画もありましたけどね」
「それは比較級だから意味が違うんじゃないですか?」
きっぱりと否定される。駄目押しをしようとしてさっきのプラス分も帳消しにしてしまう、私の人生ではよくある風景のひとこまだった。
「シオタさん、映画もお好きなんですか?」
くすくすくす。何が面白いのか、また笑われる。そんな彼女は私にとってストレンジェストな存在だった。
「そうですか。てっきりあれと同じだと思ってたんですけど」
また話題が切り替わったようで面食らう。頭のいい人との会話は疲れる。
「あれ、というと?」
「日本の歌にもあったじゃないですか。<異邦人>って」
「ああ、ありましたね」
私が生まれるか生まれないかくらいの時期にヒットしたナンバーだ。今やすっかりスタンダードとして定着している。と、そこで思い当たった。
「あ、でも、その通りですよ」
「はい?」
「あの歌の“異邦人”というのも自分自身のことだから、<ストレンジャー>と同じですよ。さすが楠野さん。おみごと」
いえいえ、そんなたまたまです、と顔を赤くしてはにかみながら頭を下げる彼女を見て、これなら残業した甲斐があったな、と思っていると、
「ところで」
彼女がやや上目遣いでこちらを見てきたので、どきっとしてしまう。
「シオタさん、せっかくなので、<異邦人>も歌ってもらえませんか?」
もうやだこの人。やっぱり残業なんかするんじゃなかった。何がどう「せっかく」なんだよ。おっと、ここでキレたらまずいことくらいは私でもわかる。なんとか穏便に断らなければ。
「えーと、あの、楠野さん」
「なんでしょう?」
無茶な頼みをしてきたくせに全く汚れのない微笑みをたたえられて、ますます頭に血が上ってくる。
「おっしゃっている意味がよくわからないのですが」
「いえ、シオタさんに<異邦人>を歌ってほしい、というそのままの意味ですが」
「だから、なぜそんなことを?」
「純粋に聴きたいだけなんですけど、いけなかったでしょうか?」
そう言われると、こちらも無下に断りづらくなる。いや、そんなことはない。断ったって何の問題もない、ともう一度気持ちを強く持とうとしたものの、
「お願いします。歌ってくれたら、わたしも<夜桜お七>を歌いますから」
このように頼まれて意志薄弱な人間がこらえられるものではなかった。私の<ストレンジャー>と<異邦人>、楠野さんの<夜桜お七>なら、2対1の交換トレードでちょうど釣り合いが取れるくらいなのかもしれない。こうなったら、どうしても彼女の歌声を聴いてみたかった。
「わかりました。じゃあ、約束ですよ」
「はい、約束です」
この人に外交を任せたら我が国と諸外国との間に横たわるたくさんの懸案事項もすぐに解決するのではないか、と時間が経つにつれ輝きを増していく顔を見ながらつくづく思った。そもそもこんなちっぽけな編集プロダクションに彼女のような仕事の出来る女性が勤めていること自体不思議ではあったが、それよりも今は本日2曲目のナンバーを歌い上げる方に気をつけた方がよさそうだった。ああ。すっかり乗せられてしまっているな、俺。
驚いた。<異邦人>をひとつも間違えずに歌い切れた。歌い出した瞬間に「あれ? そういえば、俺、この歌、ちゃんと歌ったこと無くね?」と気づいてしまったのだが、無意識のうちに歌詞を全部覚えていたらしく、全く詰まることがなかった。何よりハミングに頼らずに済んだので安心する。
「すごい。全部合ってますよ」
楠野さんが手持ちのスマホで何かを見ながら感心している。あ。そうか、ネットで歌詞を見ながら歌えばよかったのだ。何故気づかない。すぐ目の前にPCもあるのに。文明の利器も使いこなせなければ無用の長物でしかない、とこんな場所でこんな時間に教訓めいたものを悟りたくはなかった。
「ありがとうございます。すごくよかったです」
「それはどうも」
やれやれ。訳が分からないにも程があるミッションだったが、なんとか無事に達成することができたようだ。楠野さんが嬉しそうだから、私も嬉しくなる。後は「タウンむさしの」から連絡が来るのを待つだけ、とPCを見ようとして、
「じゃあ、次は聖子ちゃんをお願いします」
おい。ライブに来たオーディエンスでもアンコールする時はもう少し遠慮するぞ。しかも、今何て言った?
「せいこちゃん、って松田聖子?」
「ええ。それ以外に聖子ちゃんっていますか?」
そりゃ橋本聖子とかいるだろ、と思ったが、そんな突っ込みを入れる気力はとうになくなってしまっている。
「ずいぶん昔の歌がお好きなんですね」
彼女の年代にしては珍しい気がしたが、この件に関してあまり深く考えない方がいい、という気もしていた。いつだったか、専務が「楠野さん、アラサーには見えないねえ」と何気なく言うなり、彼女を中心とした半径10メートルの空気が零下273度に一瞬で変化したのは、この会社に勤める者全員の骨身に沁みる経験になっていた。
「母がよく家で聴いてましたから。好き、というか、空気みたいにあって当たり前の存在ですね。聖子ちゃんや明菜ちゃんは」
「ちゃん」づけしているけれど、彼女たちはあなたよりもずいぶん年上だよ、と言いたかったが、それを言うとオフィスがまた氷結地獄に変貌するので黙っておく。それにしても、さすがに3曲も歌うのはいかがなものか、と思っていたが、
「夜桜お七、夜桜お七」
呪文のように唱えられて、2曲も歌ったのならもう1曲歌っても一緒なのか、と思い直してしまう。多重債務者か麻薬中毒者の心理に近づいているようで自分でもやばいと分かる。いや、それにしても、女性アイドルの歌を歌うのはこのおっさんには難度が高すぎる。
「あの、全部歌わなくてもいいですか? サビだけでも」
「あ、それはもう。シオタさんの好きなように歌っていただければ」
そもそも歌うのが好きじゃないんだよ、と言いたかったが、一人でこっそり歌っているところを見られている以上、説得力も何もあったものではない。向こうから譲歩を得られたので、それだけで満足すべきなのかもしれなかった。
「何を歌われます?」
「あ、えーと」
松田聖子の歌は私もわりと知っていたが、名曲が多いだけにひとつ選べ、と言われても困ってしまう。仕方なく、最初になんとなく思い浮かんだ曲名を言ってみる。
「じゃあ、<渚のバルコニー>で」
「いいですね。わたしの心のベストテンにも入ってます」
第1位はなんだろう、と思いながら彼女の方にちら、と目をやると、黙って私の方を優しく見つめているだけなので、慌てて視線を戻してから、なんだか落ち着かない気分のまま歌いだしてしまった。
くすくすくす。くすくすくす。くすくすくす。
おのれの馬鹿さ加減がほとほと嫌になるので、口もきけないほど身体を震わせている楠野さんから目を背けたいのだが、それと同時に懸命に笑いをこらえている姿が何処となくセクシーに思えるので、目を離すことも出来ない。
「そんなに笑わなくてもいいじゃないですか」
ようやく笑いの発作が収まりつつある彼女に苦情を申し立てると、
「ごめんなさい、でも」
くすくすくす。また発作が再発してしまう。
「申し訳ないとは思いますけど、でも、おじさんが一生懸命可愛らしく歌おうとしてるなあ、と思うと、我慢できなくて」
くすくすくす。くすくすくす。くすくすくす。両手で顔を覆っても笑い声はこちらの耳に届く。いや、それはよく考えなくてもわかることじゃないですか、と言いたかった。リクエストした時点で、惨劇の発生はあらかじめわかりきっていたのに、何故やらせたんだ。私に一体何を期待していたのか。こんな恥ずかしい思いをさせて何が楽しいんだ。顔が熱くなって自分が焼けた石になったかのように思えてくる。今の私に安納芋を持たせたら、たちどころに見事にふかせることは間違いなかった。九里より美味い十三里。
「ああ、本当におか、んん、楽しい人ですね、シオタさんって」
今「おかしい」と言おうとした。言おうとしてごまかしやがった。とんでもない牝狐だ、この人。もういい。もうたくさんだ。何やってるんだ、「タウンむさしの」
。早く連絡してくれ。でないと。
「それじゃあ、今度はミスチルをお願いできますか?」
ほら。完全にこの人のおもちゃにされちゃってるじゃないか、俺。
「<Innocent World>でいいですか?」
おまけに断り切れないし。もうどうすればいいんだ。
その後は本当に大変だった。ひとつ歌い切るごとに、すかさず楠野さんが「〇〇の<××>!」といった具合に新しい歌をリクエストしてくるのだ。おかげでちっとも休めなくなってしまった。これ、何処かで見たことあるな、と5曲目か6曲目くらいで思い当たった。あれだ。お笑いの番組で芸人がメドレー形式でものまねを次々に披露していくやつ。まさか自分がやる羽目になるとは全く思ってもいなかった。それにしても自分でも驚いたことに、彼女がリクエストしてきた歌を全部歌えてしまうのだ。ミスチルやスピッツは私の世代なら誰でも歌えるだろうが、<青春アミーゴ>や<フライングゲット>まで歌えたのは本当にビックリした。ジャニーズにもAKBにもほとんど興味ないのに。<Lovers Again>も歌えたからEXILEもいける。いつの間に覚えていたんだろう、と自らのレパートリーの思わぬ充実ぶりに思わず感心してしまったのだが、それには大きな問題があって、彼女のリクエストに応えられる限り、この一人ヒットパレードに終わりはないのだ。無理なリクエストが来れば、「すみません、ギブです」とリタイアできるのだが、歌えるのであればいつまでもどこまでも続いていく。そんなマイナスの螺旋に私は囚われてしまったようだった。ああ、ラルクの<花葬>も歌えたとは知らなかった。もうかれこれ何曲歌っただろう。10曲か、20曲か。
「ててててててて、てててててててて、てれてて、てれてて、てれてて、てれてて、てれててててててて、てーれー、てーれー」
いかん。もう限界だ。
「って、<剣の舞>なんか歌えるわけないでしょう!」
マジなテンションで突っ込んでしまった。女性相手に大声を出したのはさすがにまずいかな、とすぐに冷静になったが、返ってきたのは例の「くすくすくす」だった。
「ごめんなさい。シオタさんが何でもやってくれるので、つい調子に乗ってしまいました。でも、まさかクラシックまでやっていただけるとは」
くすくすくす。あまり反省しているように見えないので、もう少し苦言を呈した方がいいかな、と思ったが、リクエストされた時点で断らない私も悪かったのだろう。ハチャトゥリアンもこの世に甦って「シオタ、あんたが悪い」と言ってきそうだ。
「でも、すごいじゃないですか。何でも歌えるんですね」
彼女の瞳には賛嘆の色が確かに浮かんでいて、そのせいで俄かに身動きが取りづらくなった気がする。
「いや、それは、自分でも驚いています、ええ」
「そんなに知ってるならipodを失くしても大丈夫なんじゃないですか?」
それとこれとは別問題だろう、とまたツッコミを入れかけて自重する。あの小さな電子機器のおかげで1時間弱の通勤にもなんとか耐えられているのだ。音楽のない生活など考えられない、とどこかのレコード屋のキャッチコピーを自己流に和訳したところで、そういえば、と思い出した。自分が何のために歌っていたのか、それを忘れては駄目ではないか。
「じゃあ、今度は楠野さんの番です」
「はい?」
頼んでもない料理がいきなり目の前に運ばれてきたかのように、きょとんとする彼女。だが、約束は約束だ。果たしてもらわなければならない。
「ぼくが歌ったら、歌ってくれるって言ってたじゃないですか」
「ああ、そうでした、そうでした。<夜桜お七>ですね」
やっと聴ける。数十曲歌った挙句にやっと1曲だけ歌ってもらえるなんて、レートがあまりに不当な気もするが、それはもうどうでもいい。この瞬間のために咽喉が涸れるまで歌ってきたのだ。さあ、早く歌ってくれないか。
彼女は背筋を伸ばして座ったままかすかに笑みを浮かべて黙って私を見ていた。姿勢の良さに惚れ惚れするが、それだと歌いづらいのではないか。まだ黙っている。どうして歌わないのだろう。やけに気を持たせる。部屋の中が静かすぎて耳鳴りまでしてきた。
「どうしました?」
彼女がわすかに首を傾げて、つられて髪の毛も静かに揺れる。
「いや、あの、歌ってくれるんですよね? <夜桜お七>」
「はい、歌いますよ。約束ですから」
そこで、ふたつの鳶色の瞳が、きら、と輝いたのを見たおかげで、それだったら歌ってくれないか、という私の追撃の言葉はこの世に生み出されないまま消えていく。
「近いうちに会社のみんなで食事会を開くそうですから」
「はい?」
いきなり話が飛んだ。それとこれに何の関係が。
「その時に二次会でカラオケに行くと思いますよ」
いかに鈍い人間でもさすがに気づく。え。ということは。
「シオタさん、もしかして、わたしが今ここで歌うと思っていたんですか?」
はい、完全にそう思い込んでいました。だが、それは完全な誤解だということにもたった今気づいていた。よくよく考えてみれば、彼女は歌う約束こそしてはいたが、今ここで歌うなどとは一言も言ってはいないのだ。大いなる早とちりをした結果、ワンマンショーを開催してしまったわけだ。なんてことだ。
「ごめんなさい。誤解させてしまったんじゃ」
「いえいえいえ、まさか、こんなところであなたが歌うなんて、そんなはずあるわけがないじゃないですか。ははははは」
恥ずかしいやらがっかりするやらですっかり泣きそうになっていたが、この状況では痩せ我慢するしかなさそうだった。
「そうですよね、だって、会社は歌を歌うところではありませんもんね」
くすくすくす。傷心の人間に追い討ちをかけてくるなんて、あなたは鬼か。狙ってやっているのか、と疑念が兆したが、天然でやっている方が
「はあ」
聞こえよがしに溜息をついてしまった。平静を装うには心身のダメージが大きすぎた。
「お疲れのようですね」
心配してくれている彼女に、誰のせいでこうなったとお思いですか? と憎まれ口を叩こうとしたが、口を衝いて出たのは全く別の言葉だった。
「ビリー・ジョエルは正しかったんだな、って今気づきました」
「はい?」
楠野さんは明らかに戸惑っていたが、言った私自身が戸惑っているのだから無理もなかった。自分でも何を言っているのかよくわからないが、今夜こうして彼女と過ごしてきた時間をそう悪いものではないと思っている、それだけはなんとなくわかっていた。
「いや、<ストレンジャー>ですよ。言いましたよね? 人は誰もが自分でも知らない別の顔を持っている、って」
「ああ、はい。そうでしたね」
彼女の椅子が少しだけ回って、私と正面から向き合うかたちになる。真剣に話を聞いてくれようとしているみたいだ。
「ぼくから見たら、楠野さんもストレンジャーなんですよ」
「わたしがですか?」
長い時間をかけて、ようやく本題にたどりついたような、そんな気分になっていた。目の前の彼女も何処か緊張しているように見える。
「いつもちゃんとしていてすごいなあ、と思っていたら、まさかこんな人だったとは」
「ちょっと待ってください。こんな人、ってどういうことですか」
異議あり、と端正な容貌が全力で訴えていた。法廷でこんな顔をされたら裁判官は即刻木槌を振り下ろして彼女の訴えを全面的に認めることだろう。
「こんな人というのは、こんな人ってことですよ」
「意味が分からないです。もっと具体的に言っていただかないと」
「いや、そうとしか言いようがないんですよ。あなたはこんな人なんですよ」
「だから、そんな言い方って」
彼女がそこで黙ってしまったのは、反論しているうちに思いがけず私との距離が近づいていたことに気づいたからなのだろう。私のよれよれの灰色のスラックスと彼女のスカートから飛び出た白く尖った膝が触れ合いそうになっている。こほん、と咳払いをしてから、キャスターを滑らせて楠野さんはまっすぐ後退っていく。私としてもあまり近づかれると困るので、そうしてくれる方がありがたかったし、近づいた時に細く長い脚を一瞬凝視したのがばれなければいい、とひそかに願っていた。
くすくすくす。遠ざかった分音量が控えめになった気がする。さっきまで機嫌を損ねていたのに、いきなりどうしたのか。
「それを言うなら、シオタさんもストレンジャーじゃないですか」
「え?」
「わたしもシオタさんがそんな人だとは思ってませんでした。普段とは全然違ってて」
いたずらっぽい笑顔を浮かべられて困惑する。
「普段のぼくはどんな感じですかね?」
思わず聞いてしまう。
「わたしは違うんですけど、他の女の子たちは“いつも黙っていて怖い”とか“何考えているかわからない”とか思っているみたいですよ」
そう言われてもあまりショックを受けなかったのは、これまで集団に属するたびに言われていたことだからだ。緊張して皆に打ち解けられずにいるうちにまた距離を作ってしまう、今まで何度も繰り返してきたことだ。今更直しようもないし、直す気力もない。
「でも、そんなことないじゃないですか。シオタさんはシオタさんじゃないですか」
褒めてくれているようでいてさっぱり意味が分からない。「こんな人」と言われた意趣返しだろうか。頭が良いだけに執念深い人なのかもしれない。
「そりゃ、ぼくはシオタ以外の何者でもありませんから」
「今みたいに歌を歌ってたら、みんな怖がったりしませんよ。そうだ。これから、仕事中にたまに歌ってみたらいかがですか?」
「いやいや、それはもういいです。勘弁してください」
職場で歌っていたら別の意味で怖がられるだろう。あまりいい対策とは思えなかったし、楠野さんも「くすくすくす」と笑っているから本気で言ったわけでもないのだろう。
「楠野さんはどうなんです?」
「はい?」
「いや、“わたしは違うんですけど”って言ってたじゃないですか。楠野さんはぼくのことをどう思ってたんです? それに、今こんなところを見てどう思ったんですか?」
そう言ってから、かなり踏み込んだことを言ってしまったことに気づいた。おいおい。女の人に面と向かってそんなこと聞くなよ、と自分にツッコミを入れてももう遅い。向こうだって困るだろう、と焦りながら彼女を見てみると、
「そうですね」
波ひとつ立たない湖のように落ち着いた表情で静かに呟かれてますます焦る。いや、ここは冗談っぽく言ってくれた方がこちらとしても有難いのだが。
「わたしがシオタさんをどう思っているかというと」
慈しみすら感じるまなざしが、身体も心も、私という存在そのものを溶かしていく。彼女はそこで口元に手を当ててまた何かを考え出したようで、次の言葉を待つ私の中で心の揺れが激しくなる。早く。何でもいいから早く言ってほしい。これ以上期待してしまうと、本当に立ち直れなくなる。そして、再び彼女が視線を上げて何事かを言おうとしたその時、窓際でけたたましく電子音が鳴り響いた。オレンジのランプが点滅して、着信を知らせている。
「出ないんですか?」
楠野さんに不思議そうに言われて、ああ、そうですね、はははは、と適当な相槌を打ちながら立ち上がって歩き出す。「タウンむさしの」、こんな時に電話してくるんじゃないよ。もっと遅くても良かったんだぞ。
受話器越しに聞こえるまだ青年らしき担当者は、こんな夜分遅くまでお待たせして、と蚊の鳴くような声で何度も謝ってきたが、「あんなに謝るくらいならもっと早く連絡すればいいんだ」と、うちの構成のメンバーの中で彼の評判はかなり悪かった。いえいえ、全然大丈夫ですよ、と心にもない鷹揚な態度を示してから受話器を置くと、
「問題ありませんか?」
立ち上がった楠野さんを見て、私は全てを了解した気分になっていた。私と彼女の2人の時間はこれで終わりだ。そして、さっきの質問の答えも返ってくることはない。
「ああ、はい。大丈夫です。後は印刷所の方にデータを送信すれば一丁上がりなので」
「ごくろうさまです」
いつも職場で見る彼女だった。1ミリも隙を見せることなく、確実に仕事をこなしていく、私よりも高い場所に棲んでいる人。そんな彼女を眩しく思うのもいつも通りだったが、何故か今はそれを空しいとも思ってもいた。その理由を知ろうとすれば余計に空しくなることだけはわかっていたので、無駄な努力をするつもりはなかった。
「それでは、お先に失礼させていただきます」
「帰り、気をつけてください」
「はい。ありがとうございます」
一礼して、ドアへと歩いていく。時計は既に11時を回っている。会社から駅まで少し離れてはいるが、街灯に煌々と照らされた大通りを外れずに行けるので、危ないことはないだろう。彼女はひとりでも大丈夫な人なのだ。背中に疲労がのしかかるのと、咽喉がひりつくのを感じながら、自席に戻ってモニターに向かい、送られてきたデータを確認して印刷所へ送信の準備をする。私も早く帰りたかった。今から急げば駅前で何かを軽く食べても、終電には間に合う。こちらと向こうでキャッチボールをするかのように何度も確認作業を続けていて、大きなミスも残ってはいないはずだ、と思いながらも、見落としのないようにチェックを続けていると、
くすくすくす。
背後からあの笑い声が聞こえた。まさか、と驚きながら振り返ると、楠野さんが扉の前に立っていた。ちょうど1時間前と同じ状況なので、閉鎖空間に迷い込んでループに突入してしまったのか、などとSFチックなことを考えてしまったが、
「ひとつ言い忘れていたことがありました」
そう彼女が言ったので、そうではないと気づいた。もちろん、そんなことがあってたまるはずがないが、彼女となら2周でも3周でも余裕で繰り返しを耐えられる気がする。それにしても、何を言い忘れていたというのだろう。
部屋中をオーロラが包んでいた。東京の郊外で見られるはずもない現象なのに。地球が私に隠れてこっそりとポールシフトをしていたとでもいうのか。そうではない。楠野さんが笑ったのだ。それもさっきまでしばしば見せていた微笑みではなく、満面の笑みだ。光の奔流に押し流されるような気がする。今日という日が終わろうとしているのに、24時間しかない一日の23時間目にこれほどのパワーを温存していたとは。全く底が知れない。そして、そんな笑顔で一体何を言おうとしているのか。思わず身構える私の耳に飛び込んできたのは。
「わたし、<ピアノマン>が好きなんです」
それでは、おやすみなさい。そう言って彼女は今度こそ部屋を出ていく。後に「くすくすくす」と笑い声だけを残して。
それからしばらく、私はオートマチックに作業を続けた。あー、とか、うー、とか言いながら、キーを叩いてはモニターを見つめる。モニターを見てはキーを叩く。それを何度か繰り返しているうちに、「タウンむさしの」の次号のデータは印刷所に送られた。そのデータをもとに明日の夕方には印刷は終わり、そして週明けにはこの街のいたるところにある郵便受けに配達されるはずで、みなさんにお得な情報の数々をお知らせすることだろう。めでたしめでたし。
「ちっともめでたくねえよっ!」
あああああ、と呻きながら立ち上がる。知ってたんじゃないか。楠野さん、ビリー・ジョエルを知ってたんじゃないか。<ピアノマン>を知っていて<ストレンジャー>を知らないなんてありえない。それなのにどうして、知らないふりをしたんだ? 何故私に歌を歌わせたんだ? わけがわからない。牝狐どころじゃない。魔女だ。あの人は魔女だ。ああああああ、ともう一度呻いてしまう。そうでもしないと恥ずかしさに耐えられない。
みたび呻こうとしてやめたのは、決心がついたからだった。このままにしてはおけない。彼女に理由を訊かなければ。そうでなければとてもおさまらない。今夜は眠れなくなってしまう。今からなら、彼女に追いつけるはずだった。急ごう。PCの電源を落として、空調を切って、部屋の電気を消して、きっちり戸締まりをする。この間実に3分足らず。社長から預かっていたオフィスの鍵を警備室にいる年輩の守衛に渡して、表に出る。夜の冷たい空気を感じながら駅へと向かっているはずの楠野さんの背中を早歩きで追い始めた。いったいどういうつもりであんなことをしたのか、彼女を問い詰めてやりたい一心、というわけではなく、いくら明るいとはいっても夜道を女性一人で歩かせるのはよくない、という別の一心もあった。こんなことでは彼女に会えたとしても軽くいなされて終わりだな、と心の中だけで苦笑いしながらも足は止まらない。とにかく彼女にもう一度会いたい、と思うのと同時に、何処かで誰かが口笛を吹いているのに気がついた。<ストレンジャー>の
(終)
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