たちめかがり
フカイ
掌編(読み切り)
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たちめがかり(裁ち目かがり)
断ち目かがりとは、いわゆるジグザグ縫いのことで、
布端がほつれてくるのを防ぐことができる。
最近の自動化されたミシンには標準で付与されている縫い方の機能。
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温かい三月の雨。
一雨ごとに春が近づく。
窓の外の冬枯れの景色はいつしか潤い、そして芽吹き、やがて華やぐ。しかし今はその一歩手前。春を呼ぶ雨が、朝から音もなく降っている。
リビング・ダイニングの食事を摂るためのテーブルに、ポータブルミシンを持ち込み、ハンナは午前の光の中で、巾着袋を縫っている。小学生の息子のために、給食配膳用のスモックを仕舞う袋になる予定だ。
型紙通りに切り出したキルト布を裏返し、二枚重ねた裏表の布端にたちめがかりに縫い合わせてゆく。
縫い口についたLED照明のおかげで、手元が明るく照らし出される。
両手で押さえた布の中心を、針が全自動で左右に縫い目を変えながら、縫い進んでゆく。上糸の糸車がミシンの筐体の上でカタカタと回る。リズミカルな機械音。複雑精緻な糸の掛け方さえ間違わなければ、驚くほど美しく、ミシンはハンナの意図どおりに二つの布をくっつけ合わせる。
正確無比に針が下降し、布に上糸が通され、下糸と噛み合わされ、針が上がり、送り歯が布を先へ進める。素晴らしい速さで、この工程が繰り返される。
針が縫い進む間、ハンナは息を詰めて、その指先に意識を集中させる。チャコペンで引いたラインに沿って縫い目が進むように。
美しい作業だ、と思う。
目にも留まらぬ針の上下。精巧なメカニズムが針を左右に振り、下糸を噛み合わせる。作業主と機械が気持ちをあわせ、静かな部屋の中で作業をすすめる。
そこには誠実で親密な気持ちの交流がある。送り出される上糸と、
人間同士との不完全なコミュニケーションのような
優れた機械は人の意識をシンプリファイする。
存在自体がカオスである人をつかの間、論旨の整合したクリアな世界へ導いてくれる。その透明感のある気配は、早春の雨の空気にとてもよく、似合う。
誰にも邪魔されない、密やかで意味のある集中。意識を先鋭化し、邪念を廃する集中。
こうして、部屋の中で作業に没頭している時間が、ハンナの小さな幸せのひとつだ。
心を乱す世間の些事に背を向けて、海の見える部屋で一人、春先の雨の気配に包まれて縫い物をしていると、その集中の先になにか大切な人生のギフトを感じることがある。
それはボストンで過ごした子ども時代、クリスマスの朝に枕元におかれたものに近い。
ぬいぐるみや人形であったその頃のギフトは、ハンナを心から幸せにした。
いまのこの静かな時間は、そんな力強い幸福を呼び起こすわけではないが、しかしこのせわしなく進む人生という運行システムの中にあって、わずかな驚きとともにもたらされる、心から愛しい時間だ。
縫い物が終わったら、アールグレイを
ジャズはピアノをリーダーとした小さな編成、たとえばトリオがいい。ビ・バップ時代よりももっとモダンな、クールジャズを聴こう。
なるべく美しい音楽が良い。
美しく、気高い小品であって欲しい。
幸せの時間を縁取りし、ほつれぬよう「たちめがかり」で縫い付けてくれる、大切な音楽。
ほら、聞こえてきた。
たちめかがり フカイ @fukai
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