天井の沼

雅 清(Meme11masa)

天井の沼

 男は雨の中、一人歩いていた。足取りは重く顔には疲れが見える。

向かう先は自分の住む古いワンルームマンションだ。駅からは徒歩で20分ほどの場所にあり白塗りの壁、灰色の階段を上り廊下を進み奥から2番目の部屋が男の住処となっている。玄関を開けると右に小さなキッチンがあり左にはユニットバス、その入り口には小さな服の山が築かれている。明日、近所のコインランドリーに行かなければ。

 荷物を降ろし、冷蔵庫からペットボトル入りのお茶を取り出し、リビングのテーブルへと運んだ。ここに越してきたばかりの頃に自炊をするからと奮発した冷蔵庫だが、中に食材が並ぶことはごく稀だ。そのためガスコンロもお湯を沸かすとき以外に使うことはほぼ無いと言っていい。

 窓の外からは微かに雨音が聞こえ電車の騒音がこれをかき消して行く。

折り畳み式の小さなテーブル、テレビとその隣には本棚、部屋の隅には布団が畳まれている。一人での夕食、スーパーで売れ残っていた弁当を口へと運んでいく。

美味しいとも不味いともなく淡々とした食事だ。食事は楽しむというより、働く為に食べなければならないというものであり、義務感に似た思いがテーブルを支配している。男にとって食事はただの栄養補給という作業でしかないのだ。

 なんとなくつけたテレビはこのところの出来事を伝えていた。だが男にとっては別にどうでも良かった。誰が不倫しただとか、政治家の汚職だとかに興味なんて無いし、観たい番組があるわけでもない。ただこの場に寂しさを紛らわす音が欲しかったに過ぎない。

 夕食を食べ終え、空になった容器を傍のゴミ箱へと押し込む。プラ容器の折れる音が静かな室内には異様にうるさく思えた。

シャワーを浴びるのさえ面倒だ、明日の朝に浴びればいい。男はそう思いながら布団も敷かず体を横たえた。蛍光灯の光が目に滲みて眩しいが、再び起き上がって灯りを消す気力は沸いてこない。畳んだ布団の上に置かれた枕に手を伸ばして引きずりおろし、頭の下へと収めた。

 連日の疲れのせいか瞼は重く、テレビの雑音と雨音が子守歌のように聞こえ、そして遠ざかっていく。男が心地よい眠りに落ちるのにさほどの時間はかからなかった。


 頬に冷たいものが触れる、心地よい惰眠は突然に終わってしまった。

おもむろに頬を拭い、テーブルの上にあるスマホを寝たままの姿勢で探り当て手元へと引き寄せる。

ちょうど深夜2時になったところだ、視界に入るスマホの画面はやたらぼやけて見える。

 男は不機嫌に目を細めながら天井を見つめたが原因になるようなそういったものは見当たらない。蛍光灯の光がやたら眩しく恨めしく感じる以外に異常はない。

これ以上、冷たいものの正体を探る気は起きないし、やはり起きる気力も沸いてこなかった。再びこのまま眠ってしまおう。男は再びまどろみ始めた。


 頬に冷たいものが触れ、体がピクリと震えた。頬を指先で拭うと僅かに濡れている。又しても邪魔されてしまった。

男は仕方なく目を覚ました。スマホの時計を確認するがまだ5分も経っていない。

このところ雨ばかりが続いている。外観こそ綺麗に繕ってあるものの古いアパートだ、雨漏りがいつあってもおかしくない。

2度も睡眠を妨げられたのだ、確認しなければならないという思いに駆られ、男は面倒そう溜め息を吐きながら体を仰向けになり天井を見上げた。

 寝起きのぼやけた目と蛍光灯の眩しさでハッキリとは見えないがやはり雨漏りのようだが何かが違う。

白一色であるはずの天井に薄い暗い灰色が広がっている。徐々に視界が鮮明になるにつれ、男はその異常さに気づいていった。

 雨漏りなんて生易しいものではない、そこにいつもの天井は無く、暗い水が広がっているのだ。それは沼地のような暗い濁りであり、天井の本来の白い色は少しも確認する事が出来ない。静かに波打つ不気味な水面がそこにあった。水がこちらに向かって落ちてくる様子はない、逆に自分が天井の水に向かって落ちてしまうのではないか。そんな感覚が押し寄せ、男は動けずにいた。

 非現実的な現象を前に男の脳は持てる全ての知識を駆使し目の前の出来事を理解しようと試みていたが分かる筈もなくただただ混乱するばかりだ。天井だけ重力が逆転してしまっただろうか?この水はどこから来たのか?他の部屋も同じような事になっているのだろうか?一つ確実な事は目の前の光景が夢というにはあまりにも現実的であるということ。

手に触れるカーペットの古いゴワゴワとした繊維の感触、頬に微かに残る濡れた感触、口に残る食べカスの感触も全てが鮮明で紛れもない現実であることを男に突きつける。


 男はふとあることを思いついた。それは好奇心とも言える。

この水に物を投げ込んだらどうなるのだろうか?男はズボンのポケットにレシートを入れていたことを思い出した。身を捩るようにして小さなポケットから皺だらけになったレシートを取り出し、クシャクシャに丸め天井へと投げてみたが勢いが足らなかったのか水面にはわずかに届かず、レシートは男の顔にめがけ戻ってきた。男は拾い上げ、先ほどの鬱憤を晴らすように力を込め再び投げた。

 ポチャリ……レシートで作られたボールは床に落ちることなく小さな音を立て水面に浮かんだ。

小さな波紋が広がって行く様子が見える。あまりにも奇妙な光景だ。

男は重い体を起き上がらせ立ち上がった。好奇心がそうさせるのか、男は触れてみようと考えたのだ。かといって触れるには天井は高く、直接触れるほどの勇気は持ち合わせてはいない。傘を使おう、そう思いつき玄関に向かおうとした時だった。

 突然、首に冷たい何かが触れ男は情けない声をあげて驚き、その拍子にそばにあったゴミ箱を蹴飛ばし中身を盛大にぶちまけた。さきほどの水滴とは違い不快な感触が首に触れたのだ。

 首をさする指が濡れる、天井を見上げると先ほどまで浮いていたはずのレシートが見当たらない。足元へと視線を落とすと散らばった紙切れや押し込んだプラ容器に混ざりクシャクシャに丸められたレシートが落ちているのが見えた。拾い上げると水が滲みこみ冷たくふやけた感触、そして僅かに生臭い。

間違いなく天井に投げ入れたレシートだ。先ほど首に落ちてきた物の正体は間違いなくこれだったのだ。


 男の中にある考えが浮上してきていた。この水の中に何かいるのではないか?そしてその何かがレシートを弾き返したのではないか?風も無く、大きな波があるわけでも無く、何もなしに物が落ちてくるのだろうか?天井に突如として水が現れるという物理法則を超越した現象が起こっているのだ。この水の中に何かがいてもおかしくない。

 何かが跳ねるような音が静かな部屋に響いた。天井には大きな波紋が生まれ四方へと広がり、壁に当たっては反射を繰り返し、しだいに小さくなっていく。飛び散った飛沫は水面へは帰らず床に落ち、小さな水溜りを作った。

 男の眼球は僅かに捉えていた。

何かが跳ねた一瞬、視界の隅にヒレのようなものが見えたのだ。この頭上に広がる水面の下に確実に何かがいるのだ。男の背後で何かが跳ねた。

こんどは窓の方だ、先ほどよりも音は大きく、振り返り見るとカーテンに濡れたあとがはっきりと残されている。その大きさからもどれだけの水が跳ねたかが容易に想像できた。

 男の呼吸は早くなり目は大きく見開かれる。好奇心は飲み込まれ、かき消され恐怖心が膨らむ。心臓の鼓動は太鼓のように大きく打ち鳴らされている。男の頭上には魚影が現れていたのだ。大きな尾ヒレだ。全体の半分ほどしか見えないが、それでも人と変わらぬ大きさであることは一目瞭然であった。非常にゆっくりと泳いでいるそれはまるで自慢のヒレを見せ付けているかのように堂々と、悠然とした動きだ。

 しばらく男に見せ付けた後、魚影は男の真上までゆったりと近づきそして静止した。

尾ヒレが水面から浮上しはじめる。ヒレだけが完全に水中から上がり、その先から水滴がボタボタと垂れ、床で弾け男の足を濡らす。突然、ヒレは勢いよく水面を叩きつけその衝撃で水が巻き上げられ男に浴びせられる。だが男は水をかけられた事に対してはさして驚きもせず狼狽えもしなかった。それ以上の驚きが目の前に現れたていたからだ。

 笑い声が聞こえる。男の見上げる先には女がいた。

暗い天井の沼に浮かび、クスクスと笑いながら男を真っすぐに見つめている。

薄く緑がかった瞳、整った鼻そして輪郭、栗色の長い髪はユラユラと四方へと広がり濡れ、艶やかな光沢を放っている。

肌は透き通るように白く仄暗い沼がより一層それを際立たせる。

沼の水に揺られる裸体は輝く水滴をまとい、柔らかな乳房の膨らみと曲線が織りなす美が濁った暗い沼をキャンパスとして描かれているようだ。


 しかし一つだけ決定的に違うことがあった。

彼女の下半身は人間のものではない。腰から下に脚は無く、イルカの様な滑らかな曲線が続きその先にはヒレがあったのだ。

彼女は人魚だったのだ。水を男にかけたのも、カーテンを濡らしたのも、レシートを投げ返したのも全ては彼女の仕業だったのだ。

男がそのことに気づいた事が伝わったのか人魚は悪戯な笑みを浮かべ、柔らかな唇の間から白い歯を僅かに覗かせた。


 男は動けずにいた。今、目の前にいる人魚がはたして友好的な者なのか、それともこちらに害をなそうとする邪悪な存在なのか。男の不安をよそに人魚は男の周りをクルクルと泳ぎ始めた。じっくりと観察するように男の後ろに回り込み、男が視線を合わせると追いつかれまいとまた悪戯な笑みを浮かべながらスルリと後ろに回り込む。

 恐怖心、得体のしれない物を前に沸くごく自然な感情、男の頬を冷汗が滑り落ちていく。

しかし男の中には別の感情もうまれていた。それは安心感だった。

異質な存在を前にとうてい感じるはずのない真逆の感情が浮上してきていたのだ。恐怖心を無理やりにねじ伏せ、上書きするように沸いてくる感情が男の不安を掻き立てた。

 男は壁に寄りかかり部屋の隅へと移動し、不安な目で人魚を睨みつけた。こうすれば少なくとも後ろに回り込まれることなく自分の視界に捉えることが出来る。部屋の隅でおびえた様子が面白いのか人魚は首を傾げ、見つめ、静かに微笑む。

 不意に視界がぼやけ始めた。眠気けが襲ってきたのだ。男の膝が震え始める、立っているのもやっとだ。眠ってしまっては不味い、この異常な状態で眠るなどあり得ない。

「止めてくれ」その声は震えている。

そんなもの抵抗の内にも入らない無駄な足掻きにすぎない。男の焦りとは裏腹に体の睡眠に対してあまりにも従順だった。足の力が抜け引き摺られるように、沼にはまったかのように床へ体が落ちていく。思考は纏まらずあやふやになっていく。体は重く床に沈んでしまうかのようだ。

 瞼は重く閉じられようとしている。最後の気力を振り絞り起き上がろうとするもやはり無駄なことだった。震える瞼をなんとかこじ開け人魚を見た。人魚の口は何か動いているようだった、ちょうど何かを歌っているようなそんな動きだった。瞼はもう開いていない、男の頬に水滴が落ちる。そして冷たい指先が頬に触れた。


 男は目を覚ました。カーテンの隙間から日が差し込み光の線が出来ているのが見えた。雨は止んでいた。これほど快眠できたのはいつ振りだろう、男は久々の清々しい気分を味わっていた。連日の疲れが嘘のように解消され、頭の中は晴れ渡り、将来に対する不安も仕事の悩みも何もかもが無くなっていた。

 男は自分の部屋を見下ろしていた。倒されたゴミ箱と散らばった中身が昨日のまま残されている。折り畳み式のテーブル、奥にテレビとその隣の本棚もそのままだ。紛れもなくここは男の部屋だった。


 全身は水に濡れ、そして浮かんでいる。隣を見るとあの人魚がいる。男をじっと見つめ、薄く緑がかった美しい瞳に映り込む自分の姿を男は見た。濡れた両の手で男の頬を、髪を優しく撫でる。ゆっくりとした動きが何とも心地よく染み入るような安らぎを与えてくれた。

「すごく……幸せだ」男は無意識に呟いた。

それを聞き人魚はまた悪戯な笑みを浮かべた。人魚がどうしてこの部屋に現れたのかそんなことは判らない。何故、自分が天井に浮かんでいるかも理解しようがない。だが男にとってはもうどうでも良いことだった。男は静かに目を閉じ、人魚は子守歌を歌い、共に深い沼に沈んでいった。

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