第四話 秋風の足跡 (鈴木康之 三十九歳 製造業)

 妻の加奈と結婚してから十三年経つが、長野県の山奥(だいたい長野県はどこでも山の中だが、そのさらに奥)にある妻の実家に秋に行ったのは、去年が初めてだった。

 普段は、お盆の時期に東京都八王子市から帰省渋滞の最中に中央道経由で長野に行き、四日間滞在して息子に僅かばかりの夏休みの思い出を作ってから、また渋滞している中央道を帰るようにしていた。

 ところが去年は、妻の祖母が十一月に急に亡くなったため、慌てて駆けつけて、慌てて帰らなければならなかった。滞在中も葬式の手伝いで、ゆっくりする暇すらなかった。

 そこで、今年の一周忌に際しては前もって会社に有給休暇を申請し、一週間落ち着いて滞在できるようにしてみた。前々からじっくり腰を落ち着けてみたいと思っていたので、一周忌とはいえ良い機会である。

 それにしても私は幸運だった。

 普通の夫であれば、妻の実家なんか行っても気をつかうだけで、さほどゆっくりとは過ごせないものだと思う。

 ところが、妻の祖父母と両親はなんとも穏やかな人たちで、ご近所さんも似たような穏やかな人たちばかりである。そういう気質が育まれるお土地柄なのだろうか。

 妻にもそんな穏やかな気質は確実に受け継がれている。静岡にある私の実家には年末に帰ることにしているのだが、うちの両親から、

「お前の奥さんが来ると、なんだか正月が正月らしくなるので非常に良い」

 と言われて、大歓迎されている。これも有り難かった。

 ところで、私の息子の和貴は今年小学六年生で、来年には中学生になる。今は携帯ゲーム機に夢中な年頃で、家の中ではその姿しか見かけない。

 まあ、今の時代の子供はだいたいそんなものだろうと思っていたので、「ゲームばかりやっていないで勉強しろよ」とは言うが、禁止はしなかった。

 息子も「大丈夫、普通にやってるから」と言っており、言葉通り成績は至って普通である。

 ただ、妻の実家に行っても最近はあまり向こうの両親とは話をせずに、画面を見つめていることが多いので困った。

 その姿について、さすがに何か言われるかなと思っていたところ、妻の祖父や両親はその姿をにこにこしながら眺めているだけで、特に何も言おうとはしなかった。

 無理に話しかけることもなく好きなようにさせてはいるが、決して無視しているわけではない。時折、息子のほうを眺めては眼を細めている。

 その距離感がなんだかほんのり温かかった。


 *


 さて、一周忌の法要は我々が到着した日の午後には終わった。

 お寺でやったので、妻の実家に戻って若干の事後処理をした後は、何もすることがない。翌日には通常運転となり、田舎であるから何もすることがなかった。

 それで三日目の昼過ぎになった時、加奈が、 

「ねえ、裏山に行ってみない?」

 と言い出したのである。

 妻の実家は、さほど大きくはないものの山を一つ所有している。秋になると猿が出ると前々から聞いていたので、私はこう言った。

「裏山? 熊は出ないの?」

「出ない、出ない」

 妻は盛大に両手を振る。

 そして、かたわらで相変わらずゲーム機の画面を見つめていた和貴に言った。

「カズ君も行きましょうよ」

 息子はゲーム機から眼を離さずに言った。

「面倒だなあ。裏山で何をするのさ」

「へへへ――」

 加奈がとても楽しそうな声で笑ったので、おもわず息子が顔を上げる。

 彼女は自慢げに言った。

「――秋風さんの足跡を見に行くのよ」 


 *


 裏山は見事に紅葉していた。

 これほど見事なものは今まで見たことがない、と私が思うぐらい紅葉していた。

 空気は既に秋まっさかりで、冬の鋭さを含んではいないものの、それでも確実に冷たかった。

 その中を三人でのんびりと歩く。

 加奈はいつものように楽しそうだったが、和貴は不満そうな顔をしていた。

『秋風の足跡』という言葉に思わず興味を引かれて出てきたものの、ここまでの二十分ぐらいはただの散歩である。「騙された」と思っているのかもしれない。

 妻の実家から緩やかな登り道を、結局三十分近くかけて歩く。

 登り切ったところからは平らになっており、先は雑木林になっていた。木々の間には落ち葉が積もっており、他のところより僅かにくぼんでいるところがあるので、そこを歩いた。いわゆる「けものみち」だろう。

 三分ほど林の中を歩いたところで、加奈は立ち止まって背筋を伸ばした。

「ねえ、かあさん――」

 和貴が不満そうな声を上げると、加奈は右手の人差し指を唇にあてた。

「静かに」という合図である。

 続いて目を閉じて、右の耳に左手をあてる。

「耳をすまして」の合図である。

 私と息子は何のことかまったく分からなかったが、右の耳に手を当てて周囲の音を聞いてみた。

 ここまでくると車の音はまったく聞こえない。

 音楽も聞こえない。

 生活音自体、まったくない。

 ただ、時折、枯葉が木々の間を落ちてくるカサカサという乾いた音だけが、鳥の声と一緒に聞こえてくるだけだった。

 ――これを一体どうしろというのか、他に何かあるのか。

 という思いが私の頭をかすめたその時――


 遠くから幽かに「それ」が響いてきた。


 私の左斜め後方、山のふもとのほうから乾いた音が聞こえてきて、次第に音量を増してゆく。

 そして、私のすぐ横を通り過ぎて、さらに右前方へ「カサカサカサ」と遠ざかっていく。

 すると、その音のした方向で、周囲の木々から先ほどよりも多くの枯葉が地上に降り注いだ。

 日の光を反射しながら落ちてくる秋の色。

 妻のほうを振り向くと、彼女は微笑んでいた。

「なるほど、これが秋風の足跡か!」

「すげぇ!」

 息子も眼を丸くしている。

 そこで妻がこんなことを言った。

「じゃあ、秋風さんと競争してみたら?」

「できるの? そんなこと!?」

「できるよ。私も子供の頃によくやったから」

「よーし」

 和貴はそう言って周囲を見回した。

 すると先程と同じように、左後方から風が迫ってくる気配がする。

「よーい!」

 加奈が右手を大きく上げる。

 和貴が上半身を低くする。

 風が迫ってくる。

「スタート!!」

 加奈が右手を振り降ろすと同時に、和貴は普段の姿からは想像もできない勢いで走り出した。

 しかし、さすがに風の速さには及ばない。

 秋風は和貴を残して雑木林の向こうに消えてゆく。

 残された落ち葉の雨――秋風の足跡の中で立ちすくみながら、和貴は歓声をあげた。

「秋風さん、すげぇ! 速えぇ!」


 秋の山の中は、実に良い遊び場だった。

 転んでも落ち葉が厚く積もっているから、怪我をすることはない。

 走りにくいが、落ち葉を巻き上げながら走るのは、それはそれで実に気分が良い。

 しばらく和貴は秋風との競争を楽しんでいた。

 その姿があまりにも楽しそうだったので、途中から私も参戦することにする。

「うおりゃああああっ」

 普段の生活では絶対に出さないような大声を張り上げて、私は息子と全力で走った。

 加奈は、私たちの姿を見つめて眼を細めている。

 そんなことを一時間近くも続けて、とうとう疲れ果てた息子は落ち葉の中に寝転んだ。

 顔が全力で笑っている。

「秋風さん、すげぇ! 全然追いつけないよ!」

「本当だな。秋風さんは偉いな」

「ねえ、父さん。頑張ったらいつかは秋風さんに勝てるかな」

 和貴が真剣な顔でそう言ったので、私は加奈のほうを見た。

 加奈はにっこりと笑いながら、大きく頷く。

「大丈夫、いつかは勝てるよって、かあさんが言ってるよ」

「そっかぁ、よし、頑張るぞ!」

 そう言って、和貴が上体を起こす。


 その時、山の奥のほうから「ごおっ」という音がした。


 ――何かが来る!

 そんな気配を私は感じた。

 感じられることが不思議だったが、それに気がついたのは随分後である。その時は理屈抜きで分かった。

 危険ではないもの。

 しかし圧倒的な何か。

 私と息子が眼を凝らして森の奥を見つめていると――


 「彼」が現れた。


 雑木林のはるか先のほうの木々の間を、相当な速度で擦り抜けてくる影。

 しかも空中に浮かんでいる。

 頭以外は茶色い布で覆われており、長い黒髪が後方に激しくなびいていた。

 みるみる私と息子のほうに近づいてくる。

 黒い髪の間から覗く黒い瞳。

 眼が合った。

「にやり」と笑う少年の顔。

 彼は私と息子の間を通り抜けると、そのまま木々の間を擦り抜けて行ってしまった。


「……見たか?」

「見た。秋風さんだった!!」

「……そうか、そうだったな。秋風さんだったな」

「秋風さん、すげぇカッコいい!」

 呆然としながらそんな会話をしていると、妻が言った。

「よほど楽しかったんだろうね。こんなにすんなりとは姿を見せてくれないんだけどね、秋風さん」

 その声はなんだか誇らしげだった。


 *


 息子は妻の実家に戻ると、それから風呂に入って食事を終えるまでの間、ずっと秋風さんの話をしていた。

 それでも足りず、布団に入ってからもまだ何か言っていたが、すぐにすとんと眠りに落ちてしまった。

 携帯ゲーム機が、部屋の片隅にぽつんと置き去りにされている。そういえばここに帰ってきてから一度もそれに触れていなかった。 

「疲れたんだね」

 布団をかけ直しながら、加奈がぽつんと言う。

 私はその様子を見ながら、とあることに気がついた。

「なあ、どうして秋風さんのことを今まで教えてくれなかったのさ」

「ああ――」

 彼女は振り向くと、にっこり笑った。

「――誰かに聞いた後だと見えないし、話した人も見えなくなるんだよね。だから、この子にもそれを教えておかないと。それに気分がせかせかしていると見えないから、この辺の人はみんな、いつものんびりしてる」

 そう言って、妻は息子の前髪を顔からはらった。

「ふうん、なるほどね。じゃあ次の質問」

「どうぞ」

「秋風さんがいるということは、春風さんや夏風さんもいるの?」

「それはそう。いるよ」

 妻は「当然だ」といわんばかりの口調で言った。

「春風さんは秋風さんと同じくらいの年の女の子。桜の花びらが舞う頃だと、足跡が見やすいから割と簡単に見られる。冬風さんも雪の動きを見ていれば分かるから、比較的簡単かな。ただ、厳しい顔をした叔父さんだから、見てもそんなにうれしくはないけどね」

「ふうん。じゃあ、夏風さんは?」

「夏風さんはすごく綺麗なお姉さん――だって聞いたことがある」

「聞いたことがある? 見たことはないの?」

「ないよ。だって、夏風さんはすごく速いから、よっぽど走るのが速くないと見られないんだよ。坂道を使って加速しても難しいぐらい」

「ふうん――あれ、でもなんでお姉さんだって分かるの?」

「それはまあ、頑張って彼女の姿を見た人から聞いたからなんだけど……」

 そこで彼女は、珍しく不満そうな顔をした。

「……それが、全裸のプロポーション抜群なお姉さんなんだってよ」

「ふ、ふうん」

「あ、今、『来年の夏はまた長めに休みを取ろうかな』って、考えたでしょう?」

「まさか。それに僕の足の速さじゃ、どだい無理な話じゃないか」

「まあ、そうなんだけどね」

 妻が更に不満そうな顔をしたので、私は言った。

「それに、そんな無理をして御尊顔を拝したとしても、君より素敵なわけがないしね」

 妻は一瞬「えっ」という顔をする。

 そして、言葉の意味が脳まで到達した途端、顔が紅葉もみじのように赤く染まった。


 たまにはこういう紅葉こうようを見るのも悪くない、と私は考えた。


( 終わり )

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「志村後ろ後ろ」日記 阿井上夫 @Aiueo

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