第三話 定年退職した私が河童ハンターになった理由 (美馬康一郎 六十歳 無職)
河童と目が合った。
岐阜県恵那市内を流れる阿木川。その河川敷公園にあるベンチで、春の日差しを浴びながら私が読書をしていた時のことである。視線を感じてふと顔を上げた時、その視線のちょうど先に河童がいたのだ。
そして、その瞬間、私は「しまった」と考えた。
私は昔から、見ず知らずの人に良く声をかけられる。特に道に迷っている人の場合、私と目が合った途端に「ああ」という感じの表情になって、むこうから近づいてくる。十中八九そうなる。
しかも先日所用で東京まで出かけた際、東京メトロ日比谷線の車内でインド人らしきビジネスマンに道を訊ねられた。それで「私への声のかけやすさは、どうやらグローバルスタンダードらしい」と気がついた。
「あの……」
河童は申し訳なさそうに声をかけてくる。
「……ここは一体どこでしょうか」
私は溜息をついた。私の「声のかけやすさ」は、とうとう人間という枠組みすら超えてしまったらしい。
まあ、いつものことなので慣れたし、さすがに困っている人を見過ごすことはできない。それだから人に声をかけられてしまうのかもしれないが、私は顔に笑みを浮かべながら質問に答えた。
「ここは恵那市というところだけれど、君はどこから来たのかな」
「はあ、その、『河童ランド』なのですが……」
そう言いながら、河童は項垂れてしまった。
私もちょっと困る。
さすがに『河童ランド』というのは、直球過ぎて逆に返答に困る。上高地の河童橋付近とか、浅草の河童橋とか、それなりのところが一杯あるのに、よりにもよって『河童ランド』である。
私に理解出来たのは「少なくても浦安ではない」ことぐらいだ。
「そうですか。『河童ランド』ですか――」
私は慎重に話を進めることにした。まずは情報収集だろう。
「――そこは、その、やはり河童だけが住んでいるところなのかな?」
「……はい。それはもう大勢」
「大勢、か。で、川とか沼とか、そんなところの近くで?」
「……はあ、水の中ですが」
「水の中、ですか。ふうん。水は綺麗ですか?」
「……いえ、以前は澄んでいましたが、最近は淀んでいます」
「そうですか、そうですか、それは大変ですね」
そこで私の頭の中に何も浮かばなくなる。
最近淀み始めた水の中で大勢の河童が暮らしている『河童ランド』――「情報が増えた」ように一瞬思ったが、むしろ「最初よりも混迷の度合いが甚だしくなった」というのが正しいと思い直す。
私が考え込んでいると、河童は申し訳なさそうに言った。
「あの、お隣に座らせて頂いても宜しいでしょうか」
「あ、ああ、もちろん。こちらこそ気が利きませんでした」
「いえ、そんなことないです。有り難うございます」
河童は丁寧にお辞儀をすると、私の隣に座った。小さく息を吐くのが聞こえた。疲れているのだろう。
それにしても――私は河童をここで改めて見つめ直す。
――本当に河童だろうか。
少し離れていた時には、濡れて乱雑に顔にかかった髪や、緑色の肌、黄色い口元から「河童だろう」と判断した。それに服を着ていなかった。
隣に座ってみると、意外に小柄であることに気づいた。小学生、しかも低学年ぐらいではないか。丁寧な言葉遣いから、勉強が出来るほうなのだろうと推測する。
ただ、間近に見ると肌の緑色は部分的にまだらで、なんとなく後から塗ったのではないかと思わないでもない。
それよりも何よりも、てっきり
「――その、河童だよね?」
私の問いかけに河童の子供は恥ずかしそうに答える。
「ああ、頭に皿がないから不審に思われたのですね。よく聞かれます。実はあれは大人にならないと生えてこないんです」
「生える――ですか?」
「はい。生えます」
正直、皿のあるなしには気がついてもいなかったのだが、大人にならないと生えないものだとは知らなかった。「河童あるある」としてどこかで使えるかもしれないので、記憶しておくことにする。
皿の事を聞いたからか、外見上の差異に敏感になったらしく、私は別なことに気がついた。
「その、手の指の間に水かきが出来るのも、大人になってからなのですか?」
すると河童の子供は意外そうな顔をした。
「えっ、そんなの生えないです。それに生えたら、パソコンのキーボードを叩く時に邪魔になるじゃありませんか」
「え、あ、そうなの、ないの?」
「ないです」
「ふうん。ごめんなさいね、変な質問しちゃって」
「いえ、大丈夫です。気にしていませんから」
そこで少しだけ間が空いた。私が先ほどの彼の発言を頭の中で再生していたからである。
私はまた質問した。
「あの、また変な質問で申し訳ないのだけれど、パソコン持っているの?」
「はい、持っています。あれは一人に一台あるものではないのですか?」
「ああ、まあ、一人一台はあるかなあ。ところで、それを水の中で使っているのですか?」
「えっ、そんなことないですよ。感電しちゃうじゃないですか。普通に陸の上に置いてありますよ。おかしな方ですねえ」
そう言って、河童の子供は楽しそうに笑った。その笑顔が実に子供らしい無邪気なものだったので、私の顔も
お互いに顔を見合わせて笑っていると、どこか向こうのほうから微かな声がした。
「……タァ、カァ、ヒィ、ロゥ……」
それを聞いた途端、河童の子供――以下、タカヒロ君と呼称する――の顔色が変わった。
「父さんだ!」
彼は立ち上がると、耳に手を当てながら、こう叫んだ。
「るるるるるるるるる――」
するとどこからともなく声がする。
「るるるるるるるるる――」
タカヒロ君は真剣な表情で音のする方向を探している。
「るるるるるるるるる――」
「るるるるるるるるる――」
「るるるるるるるるる――」
「るるるるるるるるる――」
タカヒロ君の声は少しずつ元気になってゆき、それに答える父親の声も次第に大きくなってゆく。
そして――阿木川の川面に男の首が浮かんだ。
「タカヒロ! 無事だったのか!!」
「父さん!」
タカヒロ君は岸辺に駆け寄ってゆく。同時に川の中からは筋骨隆々の、どことなく武田真治を思わせる男性が姿を現した。
タカヒロ君と同じく、緑色がまだらになった肌に、黄色い防塵マスク。違うのは頭に備前焼らしき皿が載っているところと、股間にぶら下がった大和芋状の物体であろう。
感動的な父と子の再会のはずだったが、部分的につっこみどころが満載過ぎて、私はどうしたらよいのか分からなくなる。
さらには抱き合った二人の後方から、
「タカヒロ……」
という声と共に、女性の顔が水面に浮かび上がった。
「母さん!!」
タカヒロ君の顔が喜びに輝く。それと同時に川の中から、長澤まさみに良く似た、全身がまだらにピンク色で、黄色い防塵マスクをつけ、頭の上に九谷焼と思われる絵皿を載せた女性が姿を現した。
さらに感動的な母と子の再会のはずだったが――その、具体的に表現しずらいので「WXY」としておくが、要するに感動するどころか官能してしまったわけである。
「おじさん、有り難う!」
そう叫びながらタカヒロ君が手を振り、その両親が頭を下げる。
私は小さく手を振りながら、三人の姿が小さくなってしまうまで見送っていた。
そして、その姿が見えなくなった時点で二つのことに気がつく。
一つ目は、阿木川の水深がそんなに深くはないことである。
どう考えても大人の膝下ぐらいしかない。彼らはどうやって泳いで帰ったのだろうか。しかも、方向が上流であるから、その先にはダムしかない。
そして二つ目は、肝心の『河童ランド』の場所を聞き損ねたことである。
これでは彼らに会いにいけない。
いやいや、もっと正確に言えばあの眼福なお母さんに再びお会いすることが出来ない。
そこで私は「定年退職後のこれからを河童ハンターとして生きていこう」と、心に誓ったのであった。
――美馬康一郎著『定年退職した私が河童ハンターになった理由』より抜粋
( 終わり )
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