第3話

 私はまず敵冥を射殺さんばかりに睨む。だがそんな脅しが通用するような相手ではないことはわかりきっていた。敵冥は唇を尖らして少し不満げにしただけで、部屋の主に説明を任せてワン子の部屋の床で横になる。

「敵冥とも話したんだけど、私を狙ってあやかしがやってくるでしょう? なら、私が敵冥の近くにいれば、悪いあやかしをおびき寄せれるんじゃないかって」

「それ、ワン子がどんだけ危険を背負うと思ってんの」

 私はワン子にではなく、敵冥に怒りをぶつける。

「敵冥がすぐ近くにいれば、あやかしの危険はそんなに大きくないんじゃないかって――」

「敵冥」

 私はワン子の言葉を一顧だにせず、敵冥にだけ言葉を向ける。

「あんた、どういうことかわかってんのよね」

「僕がそこまで耄碌したとは思っちゃいまい」

「――わかった」

 私はぶるりと身を震わせると、何事もなかったかのようにワン子の肩を掴んで部屋を出た。

「ちょ、ちょっと、ネ子姉ぇ」

「いいから、少し付き合って」

 有無を言わさずワン子を外に連れ出し、あちこちを二人で回る。近場のショッピングモールに始まり、地下鉄で名の知られた商店街に向かって古着屋を冷やかしてゴテゴテしたスイーツを食べたあと、単館上映ばかりやっている映画館でゲテモノを二人だけで観る。

「ワン子。敵冥は悪い奴じゃないけど、駄目な奴だから」

「それくらい知ってるよ」

 明るく笑いながら夕暮れのアーケードを歩くワン子に、ふと立ち止まって訊いてみる。

「ねえ、あたし、背が伸びた?」

「え?」

 なにかの冗談かと思ったのか、ワン子は笑みを浮かべたまま私の頭のてっぺんから爪の先までわざとらしく視線を落とす。

「うーん、言われてみるとそうかも。最初に会った時って、私と同じくらいの背丈だったと思うけど――」

 ぴょんと私の隣に跳んで、顔を突き合わす。お互いに全く同じ高さで、視線が交差した。

 真剣な面持ちのワン子と真正面から向き合ったのがおかしくて、私は思わず吹き出す。その息を浴びたワン子もつられて笑いだした。

「なに、もう」

 私は目に溜まった涙を気付かれないように拭い、まだ笑っているワン子の手を引っ張る。少しぎょっとしたワン子に笑いかけて、そろそろ帰ろうと地下鉄の駅の入口を指さす。

「ワン子、今夜泊めてくれない?」

「いいけど、どうしたの?」

「気分よ、気分」

 ワン子の家に帰るとすでに敵冥の姿は消えていた。両親がおらず祖父母に育てられたワン子だったが、今はその祖父母も他界し、この小さな一軒家に一人で暮らしている。財産の管理は律儀な親類がやってくれており、学生生活を送る分には不自由はないらしい。大学はちょっと厳しいかも――と力なく笑ったワン子のために、ありとあらゆる奨学金を調べて資料を送りつけてやったことも随分昔のことのように思える。

 一緒に入った風呂を上がると、帰りがけにデパートの地下で買ってきた小さなパックの惣菜をテーブルいっぱいに並べて二人で食べる。一日かけて二人でさんざん言葉を交わしていたのにまだまだ話はやまず、話しながら食べてしょっちゅう食べ物をこぼすワン子に世話を焼かされた。

 私が容器の後片付けをしていると、ワン子は大きくあくびをして目をこすり始めた。

「疲れたんでしょ。早く寝な」

「うん……ネ子姉ぇは……?」

「床でも椅子の上でも眠れるから気遣い無用。ほら、明日からまた学校なんでしょ」

 言いながらワン子を支えるように寝室へ連れていく。ベッドに倒れるとそのまま死んだように眠りに落ちたワン子を見下ろして、私は完全に硬直した。

 目からぼたぼたと涙が落ちていた。顎のあたりで冷たく溜まっていくそれに気付かされ、私はその場に崩れ落ちる。

 私は背が伸びた。

 それが答えだ。

 あやかしに成長はない。私があやかしとして己を定義した時からずっと、私の姿は同じままだった。

 だが、今日ワン子と背を比べてみてはっきりとわかった。最初に会った時――私と同じ背丈だったワン子は、先月の身体測定で身長が伸びたと嬉しそうに私にメッセージを送ってきている。

 背が伸びたワン子と同じ背丈になることなど、本来はありえない。いや、本来――私はもともと、人間だった。

 この身体が、あやかしへとなり果てたはずの肉体が、思い出したかのように成長を始めた。

 私はどんどん人間へと戻り始めている。この身に宿した呪いが消えていったせいか。

 単にヒトに近づきすぎたせいか。

「敵冥――」

「なんだい」

 私の背後に無言で立っている敵冥。私の考えも、私の身に起こっている異変も、私などよりよっぽどよく知っている魔王。

「私はもう、森には入れないの?」

「試したんだろう」

 自嘲で顔が引き裂けそうになる。そうだ。ワン子と一緒に遊んでいる間にも、何度も森へと帰ろうと試みた。だけど森への入口は私の意思には応じなかった。普段なら一本だけ立っている街路樹によりかかるだけで森へと帰ることができていたのにだ。

「ワン子を、つれていくの?」

 使い走りの私がもう使い物にならないとわかった以上、敵冥は次の使い走りを求めるのではないか。だからワン子に自分の手伝いをするように勧め、私の代わりに据えるつもりだった。

 敵冥の隣にいるのは、もう私ではない――そう思うと全てが闇の中に呑み込まれていくような虚脱感に落ちていく。

 私はもう森へ入れない。敵冥と同じ時を過ごすことも、一緒にいることもできない。

 だけど、ワン子は――。

「僕もそこまで時代錯誤じゃないさ。この子は現世でやっていけばいい。あやかしの側に来るというのなら拒みはしないが――お前のような子をまた見たくはないからね」

 ありがとう、と小さく呟く。

 そして安堵している自分の醜悪さに吐き気を覚えた。ワン子が私の代わりにならなくてよかったと、ワン子の身を案じたのではなく、単純な嫉妬から安心していた。

 だから――

「敵冥、最後にお願いくらい聞いてくれるわよね」

 無言で私の言葉を待つ敵冥。意外だったのか、私の決意を察したのか。

「私をどこか遠くへ、ワン子と決して出会うことのないところへ置き去りにして」

「――お前はもう、この子と同じ時間を生きることができるんだよ」

 笑ってしまう。なんと残酷な最後通告。それをわかっていながら、なぜ敵冥は私の前に現れたのだろう。

 私はずっと敵冥のそばにいた。だから私は自分があやかしだと信じることができていた。

 だけど突然、ワン子が私のそばにいてくれるようになった。だから私は自分があやかしだと信じる力を失ってしまった。

 それほどまでに、ワン子と一緒にいるのは楽しかったから。

 あまりに惨めじゃないか。

 ヒトの時にまつろわぬ者として生きているのかも死んでいるのかもわからないような状態でこの時代まで流れ着いた私が、たった一人の少女のせいで再び人間として根を張ってしまうなんて。

 なのにワン子が私の代わりに敵冥と一緒にいることができるようになったと理解した途端、私はおぞましいまでの嫉みに心を食い破られて泣き崩れた。

 どの面下げて生きていればいいのだ。

 ワン子は私にあまりに多くのものをくれて、私から全てを奪った。

 そんな相手と同じ時を生きることは、私にはとうてい耐えられない。

 だから最後は、せめて敵冥の手で終わりにしてほしい。私に全てをくれた、魔王の慈悲で。

 そんなことは絶対に言わない。言ってやらない。言わずとも敵冥にはお見通しでしかない。

「私は、いやだな」

 はたと顔を上げる。ベッドで横になっていたワン子が、半眼で私を見下ろしていた。

「ワン子には、わからない」

「うん。だと思う」

 でもさ――ワン子は布団をかき寄せながら震えるように笑う。

「私がネ子姉ぇと一緒にいたいって思っちゃ駄目?」

「駄目に決まってるでしょ」

「恥ずかしいから?」

 あまりの直截さに絶句する。眠そうに目を細めて笑っているこの子は――敵冥よりも私のことを見抜いているとでもいうのか。

「なんで――」

「わかるよ、そのくらい。でもいいじゃん。だってさ」

 ワン子は悪戯っ子のようにくすくすと笑った。

「私の前にいたら、ネ子姉ぇずっと恥ずかしいんでしょ? それ、すごく面白い」

 布団の中から這い出た腕が、私の頭を包み込む。

「ずっと、恥ずかしい姿、見せて?」

 耳まで真っ赤になった私の姿を見て、ワン子は愉悦に顔を歪める。

 あなたは――私が思っていたより、ずっといやな奴だった。

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犬は鳴くけど猫は吠えない 久佐馬野景 @nokagekusaba

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