第2話
鼠を食った。
便所の臭いに常に包まれている長屋で、鼠を見ることは珍しいことではない。住民は誰もが鼠の害には半ば諦めを決め込み、笑って受け流している。
だからこそ、私の奇行はことさら異常なものとして映った。
長屋の前のどぶ板の上を走っていった鼠を目にも止まらぬ速さで捕まえ、貪り食い始めた私を、長屋の住民の多くが目撃していた。
母親が悲鳴を上げ、やめるように私を羽交い絞めにしようとする。私はそれを小さな身体からは想像もできない力で振りほどき、ごくんと鼠を骨ごと呑み込んだ。
臭くてたまらなかった。顔は血だか腹の中身だかで真っ黒に汚れ、噛む度に体毛がちくちくと唇を刺す。何度も何度も戻しそうになったのに、鼠を平らげることを止めることはできなかった。
その日から、私の名前はネ子になった。
医者に診せられたこともあった。旅の行者に預けられそうになったこともあった。だが、誰もが私が鼠を食うさまを見ると匙を投げた。
ほんの少しの月日とともに、私は人間の言葉すら忘れていった。会話はもっぱら鼠の奪い合いになった時に、近所の猫を威嚇することだけになった。
ある朝気付くと山の中で寝ていた。身体は荒縄で縛られ、ご丁寧に猿轡まではめてあった。そうしなければ私は自分の身体に触れる人間に牙を剥くのだから、眠っている間に慎重に縛り上げて――捨てたのだろう。
「さても哀れな娘よな」
私の細くなった眼の前に、いつも長屋で鼠の取り合いになる猫がちょこんと座っていた。私は喉だけを懸命に使って唸りを上げ、その猫を威嚇する。
「お前はまだヒトの範疇であるから、私のほうに連れていってやるわけにはいかん。だがヒトの考えた処遇がこれであるから、ヒトの側に帰しても無為であろうよ。さてさてどうしたものか」
生暖かい風が吹き、猫はふむと私の額に前足を置いた。
「運任せになるが、仕方あるまい。ほれ、木が来るでな」
木々の騒めきがやけにうるさく聞こえる。猫の姿はすでにない。縄のせいで横たわる以外の姿勢を取れないので、顔だけを上に向けて騒めく葉を見ようとする。
それだけで私は嘔吐しそうになるほど目を回した。
木々の葉は上下左右も関係なく、めちゃくちゃにかき回されていた。木自体が動き、高さまで次々に変わるように。
どのくらい続いただろうか。私は平衡感覚が全く機能しなくなっているというのに、馬鹿みたいに木々の変遷を視界に収め続けていた。
その視界に、突然現れたのが敵冥だった。
「人間か。どうかな」
敵冥は私の身体を縛る縄をまずほどく。自由になればこちらのものだと、私はいつも通りの四足になって即座に飛びかかれるように身を翻そうとして、無様にその場に転がった。
あまりに長く続きすぎていて、目を回していることすら忘れていた。まともに立つどころか、起き上がることすらできそうもない。
「暴れるんじゃないよ。口のやつも外してやるから」
敵冥は手足をじたばたとさせている私の頭の後ろに回ると、難儀しながら猿轡を外した。
ギャッ――私の第一声は尻尾を踏まれた猫のような悲鳴だった。浅く唸りを上げ、目の前の子供を威嚇する。
「なるほど。来るべくしてここに来たようだな。まあ落ち着きなさい。僕は敵冥。お前は?」
唸る。すると敵冥は少し思案するように額をこつこつと叩き、急に私にもわかる言葉で話し始めた。
「お前は猫なのかな?」
「あたし――あたしは、ネ子」
私の口から漏れるのは猫の呻き声のようなものだったが、敵冥は満足げに頷いた。
「そうか、ネ子か。じゃあネ子、これまでのことをすっかり話してはくれまいか。なあに、時間はいくらでもある。ゆっくりでいいし、どれだけ長くてもいい」
私は時間をかけて、己の身に起こったことを話していった。敵冥はつっかえつっかえで、何度もうまく説明できない私を急かそうとも助けようともせず、ただじっくりと話を聞いてくれた。
それだけだ。敵冥が私にしてくれたのは。
話しているうちに、私はだんだん人間の言葉を使えるようになっていた。敵冥が時折猫の言葉と人間の言葉を織り交ぜるので、私も自然と人間の言葉を思い出していった。考えてみればネ子と呼ばれるようになってから、私にまとも言葉を投げかけてくれる人は誰もいなかった。
それだけで、敵冥は私に全てをくれた。
「ううむ、どうにも、そういう人間はいる――としか言えないがね。僕はお前を助けられないし、お前の話からすると、どうにもお前が森に迷い込んでから百年は経っているようだ。今さら森の外に出て人間の暮らしをしようにも、外はすっかり変わっちまったからなあ」
敵冥は私を森の中心の巨木へと案内すると、寝るなら上を使ってくれ――とだけ言って自分は洞の中でいびきをかき始めた。
長い時が過ぎた。私は敵冥からさまざまなことを学び、あやかしと人間の調停という仕事を少しずつ手伝っていくうちに、私は結局半端者なのだと痛感した。
もとが人間であったはずが、己の身に降りかかった呪いか災いかもわからないものに翻弄され、結果的に敵冥と一緒にいることであやかしの側にすっかり浸ってしまった。
半端者ならば半端者なりに、と、私は時代時代で人間社会への順応をできるようにしてきた。敵冥は人間に恩を受けたという割に人間社会にはてんで疎く、森の外に出るとその背格好と言動から補導や保護されて面倒事を起こしてしまうことが結構な頻度であった。
敵冥の仕事を潤滑に進め、なにより敵冥と関わってしまう不幸な人間を減らすために、私は敵冥の保護者を装えるように時代に合わせて着飾ってきた。
「やっぱり、ネ子は背が伸びたなあ」
敵冥の淡々としたひとりごとで私は目を覚ます。
「ネ子姉ぇ、大丈夫? どこか痛む? お医者さんに連れていこうかとも思ったんだけど、敵冥が駄目だって言って――」
私の顔を覗き込んでくるワン子の鼻を指で小突き、するりと起き上がる。身体の節々が痛むが、この程度の痛みでどうこうなるほどやわな身体はしていない。
「痛ぁ! ちょっとネ子姉ぇ!」
「ごめんごめん。私より自分の心配。怪我してないでしょうね?」
「う、うん。ネ子姉ぇが守ってくれたから――ごめんなさい」
もう一発、ぴしりと鼻を打つ。
「謝るとこでもことでもないでしょ。敵冥がワン子を守るって言うなら、あたしはその通りにするだけだから。自分の身の心配だけしてなさい」
「でも――ネ子姉ぇは、友達だから」
言葉に詰まるのを、わざとらしく溜め息を吐くことでごまかす。
私とワン子は友達だ――きっと、間違いなく。
間違った関係になってしまったことはわかっている。あやかしの私が人間のワン子に干渉しすぎるのは褒められたことではない。その一線は自分の中で引きつつ、私に懐いて引っ付いてくるワン子を無理矢理引き剥がすことができず――友達になった。
顔見知りになった人間は昔からその時々で何人かいた。しかし森は現世のあらゆる場所に通じ、敵冥が動くことになる土地も日々移り変わるので、必然私も同じ場所には長くとどまらない。逆に長く――そう、とても長く――とどまれば、私の変わることのない姿に人間は驚き――なにが起こるかわかったものではない。だから私が人間と関わる際には、いつも流れ者の人間のふりをして、当然あやかしであることを隠して付き合ってきた。
そうした意味で、ワン子はおそらく、私に初めてできた友達だと言えた。
私が私であることを隠さず、あやかしとして線を引きながら、連絡先を交換して頻繁にメッセージのやりとりをして、時々一緒に遊びにいくような間柄。
長くは続かないことはわかっている。敵冥がワン子にもはや危険はないと判断すれば、私たちはワン子の前から姿を消す。その時には私も携帯電話を新規購入して過去の連絡先とはきっぱり縁を切るつもりでいた。
「それでね、ネ子姉ぇ」
「なに。まだなんかあんの?」
少しおちょくった調子でワン子を睨むが、とうのワン子はやけに神妙な面持ちで居住まいを正していた。
「私も、敵冥の手伝いをしたいと思ってるの」
ワン子のほうから、一線を超えた。
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