犬は鳴くけど猫は吠えない

久佐馬野景

第1話

 敵冥てきめいは私の顔をしげしげと見てひとこと、

「そういえば、ネ子は随分と背が伸びたなァ」

「はあ? あんたあたしといったい何年一緒にいるのよ。五十年は昔からこの背格好よ」

「はーん、そうか。いや悪いね。ネ子と最初に会ったころは、お前もまだこんなちっさなガキんちょだったものだから、まだその感覚が抜けていないらしい」

 ははは、と乾いた笑い声を上げて、敵冥は藁の上に寝転がった。

 魔界を統べる魔王の一人である敵冥は、特に人間と関わりを持つことの多い立場にあった。

 敵冥は昔に人間から恩を受けたらしく、そのことを決して忘れずに、人間があやかしと接触することによって起こる諸問題を解決するために働いている。

 あやかしの中には敵冥のことを「正義の味方気取り」や「人間の肩を持つあやかしのクズ」なんて呼ぶ連中もいるが、敵冥には全くの馬耳東風。彼はただ、彼の確固たる倫理観の中で人間とあやかしの無用な諍いを収めるために動く。

 私も、そんな敵冥の仕事の中で助けられた一人だ。

「敵冥、ワン子がまたあやかし絡みに引っかかったみたい」

 私はスマートフォンの画面を寝転がった敵冥の眼前に突き出す。敵冥は明るい液晶に少し顔を顰め、そこに表示された私とワン子のメッセージのやりとりを読み取る。

「またあいつか。どうしてもこうもあやかしに狙われるのかね」

 よっこらせ、と身体を起こした敵冥の背格好は小学生の男児程度のもの。顔立ちも顔つきも完全に子供のそれで、ただその所作のいちいちが爺くさい。

「行くぞ、ネ子」

 敵冥と私の寝床は、現世と幽世のはざまの「森」と呼ばれる空間だった。どこまでも無数の木が立ち並ぶ一見現世にもありそうなロケーションだが、その実態は果てのない異界だ。

 敵冥はその中心に立つ巨木の洞の中で寝起きしている。私はその上のツインのベッドほどの広さのある枝の上で寝ているが、敵冥は放っておくといつまでも寝ているので、こうして時々様子を見にきてやらなければならない。

 木々がざわめく。いや、木々そのものがぴょこぴょこと動き出し、「森」の様相を変えていく。敵冥の魔王としての権限により、この森を自在に現世と幽世をつなぐ道とすることができる。だが「森」の形そのものを変えてしまうこの行為のさなかに森に足を踏み入れてしまった人間がいれば、彼らは二度と帰ることはできなくなるだろう。

 森を抜けた先は、どこかの神社の境内だった。すぐさまスマートフォンのGPSを入れて現在地を確認。ワン子からのSOSが送られてきた場所まで――私なら一分で行ける。

「先行くよ、敵冥」

「ああ、気をつけてな」

 四足になって身体をばねのようにしならせ、私は矢のように家々の屋根を駆け抜けていく。

 ワン子――犬飼いぬかいこころは少し前にあやかし絡みで敵冥に助けられた人間の少女だ。その後もどういうわけかよくあやかしと接触し、こうして私と敵冥で救出に向かうことが多い。

 そういう人間はいる。なぜかはわからないが、あやかしを引きつけてしまうタイプ。ワン子は特別霊感が強いわけでも呪いの系譜にいるわけでもないのに、こうしてあやかしと出くわしてしまっている。

「ネ子姉ぇ!」

 私がワン子に掴みかかろうとした巨体のあやかしに飛び膝蹴りを食らわせると、ワン子が歓声を上げる。

「大丈夫?」

 仰け反った相手の様子を慎重に窺いつつ、ワン子を背中の陰に入れて守る態勢をとる。

「う、うん。ありがとう。その、いつも――」

「そういうのはもういいから! 敵冥がくるまであたしから離れないでよ」

 ワン子は無言で私の着ているプルオーバーのワイドリブ部分の端っこを握った。

 あやかしは出会い頭の一撃が相当こたえたのか、いまだに身体を押さえて悶え打っている。

 敵冥がくる前に仕留められるか――いや、早計はいけない。私がやるべきなのはワン子を守ることで、敵冥と比較すれば私の力など足元にも及ばない。

 今はこの距離を保つ。敵冥は私と違って足が遅い。ここにくるまであとのどのくらいかかるか目算しつつ、私はワン子をかばいながらあやかしの様子を注意深く警戒する。

 大きな身体を押さえているあやかしだったが、いくらなんでもその時間が長すぎる。私がそのことに気付いた途端、あやかしは唸り声を上げて自分の身体に突っ込んでいた腕を引き抜いた。

 無数の触手のようなものがあやかしの身体からあふれ出す。私はワン子を抱えて一気に離脱を試みる。だが触手の一本に足を絡め取られ、宙へと飛び上がる途中だった身体をしたたかにアスファルトへとぶつけた。

「ネ子姉ぇ!」

 黙っていろと私はワン子の身体に覆いかぶさる。私の身体でワン子の身体を隠し、あやかしの攻撃の一切がワン子に届かないように守る。

 ヒョー、と背筋の凍るような物悲しい笛の音が響く。

「よくないなあ。ネ子はこれでもあやかしだ。それを同じあやかしがこうもいたぶっては、甘い処罰にはならないぞ」

 口に魔笛をくわえたまま、敵冥はそう呟く。話す度、魔笛は周囲の温度を奪い去るかのような冷たい音を鳴らした。

「遅いっての」

「すまないな。現世ではいろいろと制限がかかるが、歩く速度はその一番大きいところだよ」

 ――ヒョー

 ひと吹き。魔笛の指穴から黒い霧があふれ出て、あやかしの周囲に漂っていく。

「さて、僕は敵冥。川部かわべ敵冥。末の魔王の名において、あやかしに沙汰を言い渡す」

 ふた吹き。魔笛から供給され続ける黒い霧は、あやかしの身体をがんじがらめに縛りあげていく。

「無辜のヒトを襲い」

 あやかしが悲鳴を上げ始める。だが、すでに始まった敵冥の審判に中断はない。

「我らが同胞を襲い」

 最後のひと吹き。

「未だ省みる様子もない。よって、すだまへと還す。魑魅魍魎へ、帰命せよ」

 あやかしはいつの間にか、黒い霧と完全に混じり合って消えていた。

 私はほっと息を吐いて、そのまま倒れ込んだ。あやかしの攻撃は思っていたよりも苛烈で、せっかくワン子と買いにいったこの服もあちこちが破れてしまっていた。

「ネ子姉ぇ! ネ子姉ぇ!」

 私の身体の下でワン子が必死に私を揺さぶる。

 大丈夫だっての。少し、瞼が重いだけ。

 ワン子の身体の上で、私は意識を失った。

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