だから、ぼくは
彩芭つづり
だから、ぼくは
どんなに見慣れた顔だとしても、不意を突かれればうろたえる。誰にも会いたくないと思っていたなら、なおさらだ。
……そう。
ぼくは誰とも会いたくなかった。話をしたくなかった。あいにく今は機嫌が悪い。一人そっとしておいてほしかった。
それでも、その人は突然やってくる。こっちの気も知らないで、なんの前触れもなく、唐突に。
いつもそうだけど、今日も変わらずそうだった。
学校から帰宅したぼくが溜め息まじりにリビングのドアを開くと、
「あ、おかえり」
――お隣に住む、幼なじみのお姉さんがそこにいた。
わけがわからなかった。
ここはぼくの家なのに、あたかも自分がこの場所にいるのは当前みたいな顔をして、ぼくの特等席であるソファの真ん中でゆったりとくつろいでいた。……さらに言えば、ぼくのマグカップでホットミルクを飲みつつ、ぼくのおやつのチョコレートをつまみながら、ぼくの漫画も読んでいる。しかも部屋着ときた。さすがにそれはぼくの服ではないようだけど、その格好は、なんていうか、完全に油断していると思う。ここを自宅と勘違いしているのだろうか。一応年頃の女性なのだから、もう少し気を遣うべきだ。見ているこっちが心配になってくる。
……いや、待てよ。ていうか、よく見ればその漫画、ぼくが昨日買ったばかりの新刊じゃないか。まだ読んでなかったんだぞ。フィルムだって剥がしてなかったし。なに勝手なことをしてくれているんだこの人は。
「ん、なに? 人の顔じっと見ちゃって。なにかついてる?」
「………………いや、」
たっぷり間を置いてから、小さくかぶりを振る。
本当ならば、ぼくの漫画を勝手に読むなとか部屋着で来るなとかせめて上着を羽織れとか、他にも言いたいことは山ほどあって心の中ではいろいろと本当にいろいろと思ったのだけれども。
……それでも結局、ぼくはなにも言わなかった。彼女にはどんなことを言っても無意味なのだ。どうせいつものように、もっともらしい言い訳を並べられて話を強制終了させられるのが目に見えている。言うだけむだだと諦めるほかない。
だからぼくはせめて眉をしかめつつ、低い声で一言だけ問う。
「……なんでいるの」
「えー? なんでって、わたしお隣さんだし。気が向けばすぐに来られちゃう距離だからね。それに、さっき外でおばさんに会って夕飯食べて行かないかって誘われたの。せっかくだし、ごちそうになりに来ちゃった。えへへ」
えへへ、じゃないだろ。
思わず頭を抱えたくなった。なぜいつもこうして急にやってくるのだろう。毎度のことで頭が痛い。来るときは連絡をしろとあれほど言っているのに、どうしてそれがわからないのだろうか。簡単なことだろう。一言、たった一言メッセージを送ればいいだけなんだぞ。今そこに置いてあるスマホで。いきなり来られるこっちの身にもなってくれ。ぼくにだって心の準備というものがある。
あとは、それに。
……今日はあまり人と話をしたくなかった。そういう気分だった。
「今夜は煮込みハンバーグだって」
「あ、そ」
「あれ、うれしくないの?」
「どうでもいい」
「うそお。好きじゃなかったっけ、煮込みハンバーグ。昔は飛び跳ねて喜んでたじゃない。……あ、そうか、煮込んじゃ嫌なんだっけ。煮るより焼く派だったかな。ま、わたしはどっちも好きだけど」
なにを言うか、ぼくだってどっちも好きだ。でも飛び跳ねるほどじゃない。どちらかというとハンバーグよりエビフライのほうが、
……いや、そんなことはどうでもいい。
「座らないの?」
「座るよ」
ぼくは大きな溜め息をひとつ吐き出した。肩から下げていた鞄を投げるようにして床に置く。
彼女とのあいだに人が一人座れるほどの距離を設けて、ソファにドカッと腰を下ろした。そのまま背もたれに寄りかかり、眉間にしわを寄せ憂鬱そうに天井を仰ぐ。……もう一度だけ、溜め息をついた。
すぐに驚いたような視線がぼくに向けられるのを感じた。鬱陶しげに隣を見やると、彼女は大きな目をぱちぱちとまたたかせていた。それから、テーブルの上に読みかけの漫画を置くと、小さく首をかしげてみせる。
「どうしたの。機嫌悪そうだね」
「べつに」
「ああ、違うか。いつも機嫌が悪そうだけど今日は特別悪そうだね、か」
眉をしかめた。どっちでもいいだろ、そんなこと。
というか、ぼくが年がら年中不機嫌みたいな言い方をするのはやめてほしい。確かに今は機嫌が悪いけれど、常にそうかと言われれば違う。もともと不機嫌そうな顔立ちだから、そんなふうに見えてしまうだけだ。今に始まったことじゃない。そもそも幼い頃からの付き合いであるこの人なら、そんなことはとうにわかっているはずだ。それなのにわざわざ口に出して言ってくるあたり、ぼくをからかっているとしか思えない。相変わらず意地の悪い人だと思う。機嫌が悪そうだと言われて眉をしかめるぼくの姿にクスクスと笑うところもなかなか腹立たしい。人の嫌がることを言って楽しむなんて、本当にいい趣味をしている。きっとこういう女が世の純朴な男性を陥れるのだ。そうに違いない。
ふん、と鼻を鳴らしてそっぽ向くと、手を合わせる音が聞こえた。
「わかった。当ててあげようか、機嫌悪い理由」
「いいよ、当ててくれなくても」
「ううん、当てちゃう」
人の話を聞け。
「そうだなあ。わたしが思うに、またクラスの子たちにからかわれたんじゃないかな。……もちろん、その外見のことで」
眉間に寄せたしわが一層深くなる。最後の一言がひどく嫌味たらしくて、ぼくはたまらず横目で彼女をねめつけた。……それでも彼女はそんな視線など気にもせず、肘を膝につき意地悪そうに目を細めながら口の端を吊り上げる。
「あ、当たった? やっぱりねえ。どうせそんなことだろうと思った。うん、でもしょうがないよ。だって誰が見ても思うことだもん。自分でも気づいてるんでしょう?
――今時、黒髪に眼鏡なんていうのは、陰気臭くて地味だって」
この人は「気遣い」という言葉を知らないのだろうか。知らないのならぜひ教えてあげたい。そう思ってしまうくらい、今のはあまりにひどい言い方だった。少しくらいはオブラートに包んでくれてもいいじゃないか。そこまではっきりと言われたら、普通の人なら結構深い傷を負うレベルだ。果物ナイフで一突き、くらいには。
「傷ついた?」
言いながら、彼女が優しく微笑む。ぼくはそれをじっと見つめ、少しの間を置いてから、
「ちっとも」
ゆるゆるとかぶりを振った。
普通は傷つく言葉の羅列。けれど、ぼくは違う。ぼくは全然傷つかない。
だって、自分でも、そう思うから。
「やっぱり地味だよな」
「地味だね」
「やっぱり陰気臭いよな」
「陰気臭いね」
自分でわかっていても、他人からはっきりと告げられるとむっとする。今回の場合、相手が相手だから余計に。やっぱり気遣いを憶えたほうがいいのだ、この人は。
「もっと笑えばいいのに。そうすれば明るい雰囲気も出ると思うんだけど。大体、見た目がそんなふうなのに、つんと取り澄ましてるから悪いのよ。だからさらにいろいろと言われちゃうんだって」
「こういう性格なだけだ。取り澄ましてるつもりはない」
「つもりがなくても周りからはそう見えちゃうの。昔からそうだけど、愛想がないのよ。
「しょ、」
言葉を飲む。ぐ、と喉の奥が鳴る。思わず眉間を押さえた。
外見や性格のことならば、基本的にはなにを言われてもかまわない。「地味」も「暗い」も「陰気臭い」も、全部そのとおりだと受け止められる。納得もできる。
……だけど、そればかりはやめないか。
「……その、」
「え?」
「『翔ちゃん』っていうの、……いい加減やめてくれないかな」
すでに今までに何回かそう言っているはずなのだけど。
呆れたようにそう呟くと、彼女は丸い瞳を何度かまたたかせ、肘を膝から離して腰を伸ばした。そして小さく首をかたむける。
「呼び名の話? どうして?」
「……恥ずかしい。ぼく、もう高校生だし」
百歩譲って中学までなら許す。実際に、今までずっと我慢してきたのだ。だけどこんな年にもなって、近所のお姉さんにいまだに「翔ちゃん」なんて呼ばれているのは、ぼくくらいのものだろう。子どもじゃないのだから、もうそんなふうに呼んでほしくなかった。これが周りにばれたとしたら、なおさらからかわれてしまう。それだけは絶対に嫌だった。
「なに大人ぶっちゃってんの。高校生っていってもまだ一年生でしょ」
「一年生でも高校生は高校生だろ。それに、べつに大人ぶってるわけじゃないよ、ぼくは。ただその呼び方は少し子どもっぽいから嫌だって、」
「それが大人ぶってるっていうのよ。だって前はそんなこと一度も言わなかったじゃない」
だから、それは単にぼくが我慢していただけだ。本当はずっと嫌だった。すぐにやめてほしかった。言えなかったんだ、……あまりにもうれしそうにぼくの名を呼ぶから。
「どうしていきなり嫌だなんて言い出すかなあ。翔ちゃんは翔ちゃんじゃない。ぴったりだよ、名前も見た目もかわいいし」
溜め息をつきたくなった。どうしてわからないのだろう。
その呼び名は“かわいい”からこそ嫌なのだ。
知っていると思うけど、男という生き物は「かわいい」と言われることを極端に嫌う。ぼくも例外ではなく、そう思う中の一人だ。そんなふうに褒められたとしても、なにもうれしくなんかない。「かわいい」は褒め言葉ではないのだ。女子はなににでもかわいいと言う。そうやって言えば誰でも喜ぶと思わないでほしい。大体、ぼくのどこがかわいいっていうんだ。……そりゃあ、まあ、かっこよくもないけれど。
とにかく。
そんなふうに「ちゃん」をつけて呼んだりして子ども扱いしないでほしかった。それなら、せめて「くん」にしてほしい。そのほうが何百倍もましだ。
「わたしはこの呼び方が好きなのに」
「ぼくは嫌いだ」
「ひどいなあ」
ひどいのはどっちだ。ぼくはもう何度もやめろと言っているんだぞ。それでもやめてくれないのはいじめか。ぼくをいじめているのか。泣くぞ。
「でも、それを言うなら翔ちゃんだって人のことを言えないと思う」
……ぼくが、なんだって?
突然言われた言葉に訝しげに眉根を寄せると、彼女は頬をふくらませた。
「だって、翔ちゃんもわたしのことをいまだに『ちい
確かにぼくは彼女のことを『ちい姉』と呼んでいる。幼い頃からそうだったから、大きくなった今でもその癖が抜けないのだ。今さら違う呼び名で呼ぶのは、なんだか気恥ずかしい。嫌だと言うならもちろんやめるけれど、ちい姉もちい姉でその呼び名が気に入っているようだったから変える必要がないと思っていた。
翔ちゃんと、ちい姉。
呼ばれることに抵抗のある名前とない名前じゃ話にならない。
「どこが一緒なんだ。違うよ、全然」
「違わないって。同じだよ。まったく同じ!」
ずいっと近寄られる。あまりにも近い距離に思わず身を反らした。逃げようとするも、腕を絡められ身動きがとれなくなってしまう。
ちい姉はリスのように頬をふくらませたまま、ぼくをじっと睨んできた。というか、本当に離れてくれ。近い。
「翔ちゃんが高校生なら、わたしだってもう大学生だよ。大人の女性だよ。そろそろ『
「残念だけど『千歳さん』なんてキャラじゃないよ、ちい姉は」
「そうかな。昔と比べたら、わたしもだいぶ大人っぽくなったと思うけど」
はあ?
ずれた眼鏡を押し上げる。
「どこが」
「どこって、見てわかんない? ……ほら」
ぎし、とソファが音をあげ軋む。
肩を軽く押された次の瞬間には――ぼくは彼女に組み敷かれていた。
「……ね?」
目をみはる。彼女はぼくの胸に手を置いて、まるで猫のように体をすり寄せてきた。悩ましげにくちびるをとがらせて、長いまつげを揺らしながら、なまめかしく潤んだ瞳でぼくを射貫く。心臓の音が聞こえそうな至近距離。めまいがするほどの甘い香り。このままずっとこうしていたら、
……思考も、呼吸も、止まってしまいそうだった。
「……ふふ。どう? 少しは大人っぽくなったでしょ」
悪戯をする子どものような目で笑う。
はっと我に返ったぼくは、慌ててちい姉の体を押し返した。
「く、くっつくなっ」
「えー、なんで? いいじゃんべつに。減るもんじゃないし」
「ちい姉が言うせりふじゃないだろそれは! ていうか離れろって! 母さんが来たらどうするつもりだっ」
「ちぇー」
ちぇー、じゃない。すねるな。いじけるな。残念そうな顔をするな。いったいぼくにどうしてほしいんだ。
ちい姉がぼくの上をどく。それからすぐに起き上がり、乱れた制服を急いで直した。ついでに彼女との間隔も少しだけ置く。あまり近くにいたら、いつまたどんなふうにからかわれるかわからない。
……それに、この高鳴る心臓の音を聞かれたくなかった。これだけのことで動揺しているなんて知られたら恥ずかしい。
まったく、大学生だかなんだか知らないけれど、こうして誘惑じみたことをするのは切実にやめてほしい。ぼくだってこれでも健全な高校生男子なのだ。そりゃあ、それなりに、いろいろと……考えたりもする。こんなことをされればなおさらだ。それなのに、ちい姉はいつもこうしてからかってくる。ぼくの苦労も知らないで。
気持ちを落ち着かせるために、気づかれないように小さな深呼吸を数回繰り返した。
隣に座る彼女がゆるゆると息を吐く。
「あだ名で呼ぶなって言ったり、近づくなって言ったり、翔ちゃんってば冷たいの。前はもっと優しかったのになあ」
「なんのことだかわからないな。ぼくは前からこうだ」
「そんなことないよ。絶対に冷たくなった」
言い切る彼女を横目で見やる。冷たくしているつもりは本当にないのだ。……まあ、昔と比べれば多少はそっけなくなったかもしれないけれど。
幼なじみと言っても異性だから、やっぱりどこか意識してしまう。成長するにつれて、だんだんとそういう目で見るようになった。たぶん、お互いに。
「ちい姉がぼくのことを子ども扱いするのが悪い」
「そんなつもりはないんだけどなあ。……そんなに『翔ちゃん』って呼ばれるのが嫌?」
「嫌」
即答だった。ちい姉は小さく溜め息をつく。
「仕方ないなあ、わかったよ。じゃあ、他にどう呼んでほしいの?」
言われて気づく。
そういえば考えたことがなかった。子どもみたいなあだ名で呼ばれたくないとは常日頃思っていたけれど、なんと呼ばれたいかなんていうのは、今までに一度も。
腕を組んで考える。
「……そうだな。まあ普通に、」
「――『
心臓がドキリと跳ねる。目をみはり息を飲んだ。
ぼくはなにをうろたえているのだろう。ただ名前を呼ばれただけなのに、ちょっと意識しすぎだと自分でも思う。それでもそんなふうに呼ばれたのは初めてだったから、どういう顔をしたらいいのかわからなかった。
……というか、想像以上に恥ずかしいな、これは。名前を呼び捨てされるのは、こんなにも恥ずかしいことだっただろうか。もしかしたら、ちゃん付けよりもつらいかもしれない。胸の奥のほうが、こう、そわそわして……なんだか落ち着いていられなかった。
「ん、どした?」
栗色の巻き髪をふわりと揺らし、ちい姉がぼくの顔を覗き込む。鼻腔をくすぐるシャンプーの甘い匂いに、さらに鼓動が加速する。長いまつげとか、蜜色の瞳とか、雪のように白い肌とか。彼女はきっとなんの意識もしていないのだろうけど、少しあざとすぎやしないだろうか。これじゃあ理性を保てない。
弱々しく彼女を睨みつける。
「……い、いきなり呼び捨てするな……っ」
「え、なんで? ……あ、そっか。ドキッとしちゃったんだ、翔ちゃん」
「ちっ、違う!」
「違うの? じゃあこれからは呼び捨てにしてもいい?」
「それはだめ!」
「んふふ、照れちゃって。かわいいやつめ」
そう言ってぼくの髪をくしゃくしゃと撫でる。そういうのが嫌だと言っているのに。ぼくだっていつまでも子どもじゃないのだから。……まあ、ちい姉がこうしてぼくを子ども扱いしてくるのは十中八九わざとだろうけど。
ソファの背もたれに寄りかかったちい姉が、「話、戻していい?」と訊ねてきた。最初に話をそらしたのはそっちだろと心の中でぼやきつつ、ぼくは小さくうなずく。
「さっきのコンタクトの話。翔ちゃん、本当に変えてみる気はないの?」
「なに、いきなり」
「だって眼鏡って不便でしょ。気温の変化で曇っちゃうし、激しい運動はできないし。でもコンタクトならそんなことはないじゃない。わたしも着けてるけど意外と便利だよ。手入れも簡単だしね」
「…………」
黙り込む。
ぼくだってそりゃあ、今までに一度もコンタクトにしようかと考えたことがないわけじゃない。何度か眼科に足を運んだこともあるし、ネットで調べたりもした。いとこがコンタクトをつけているというので相談したことだってある。
……だけど、最終的にはいつも「眼鏡のままでいい」と思い直すのだ。だからぼくは今でもこうして眼鏡をかけ続けている。
小さく溜め息をついた。
「いいんだよ、眼鏡で」
「なんで? 学校でからかわれちゃうんでしょ?」
「からかわれてもいいんだよ、眼鏡で」
ふん、とそっぽ向くぼくに、ちい姉は訝しげに顔を覗き込んでくる。そのまま知らんぷりをしていると、
「あ、わかった」
と彼女が声をあげた。心の中でやれやれとかぶりを振る。どうせまたおちょくるようなことを言ってくるのだろうと思いつつ、じろりと横目で見やった。
すると、ちい姉は口もとに手を当てて、ぷくくと笑いながら言う。
「翔ちゃん、コンタクト入れるの怖いんだ」
はあ!?
「こっ、怖くなんか!」
「ないの?」
問われて、少し間を置いてから、
「……ない、よ。べつに」
目をそらす。嘘じゃない。ぼくはただ、そんなものを目に入れるなんていうのは、なんていうかちょっとリスクがありすぎると思うだけだ。だからべつに怖いからとか痛そうだからとか、そういう理由じゃない。断じて。
ちい姉は少し考えたあとに小さくうなった。
「いいと思うんだけどな、コンタクト」
「ぼくはコンタクトが嫌だって言ってるわけじゃないよ」
「じゃあ、なにが嫌なの?」
「変だから」
「え?」
「眼鏡がないと変だから」
はっきりと言う。ちい姉は不思議そうに首をかしげた。
「そんなことないよ」
「嘘つけ」
「ほんとほんと。眼鏡かけてない翔ちゃんも、わたしはきっと素敵だと思うよ」
それが嘘だと言っているのだ。
いまだに根に持っていることがある。ちい姉はとっくに忘れてしまっただろうけど、ぼくはずっと憶えている。器が小さいと言われてもいい。それでもぼくは忘れもしない。
「小学生の頃、笑っただろ」
「え?」
「ぼくが眼鏡を外したとき、笑っただろ。ちい姉」
だからぼくは眼鏡を外せなくなったのだ。ささやかなトラウマを植えつけられた。
確かに、ただ笑われたというだけだけど、あのときのぼくはかなり大きなショックを受けた。もう絶対に外すもんかと思った。幼くたってプライドはしっかり持っていた。
それを聞いたちい姉は、少し気まずそうな顔をしてから笑った。ごまかすような笑いだ。最初はなんのことだかわからなかったようだけど、途中でなんとなく思い出したらしい。その様子をじっと睨みつけるように見ていると、彼女は両手を左右に振った。
「あー……いやいや、笑ってないよ」
「笑ったよ」
「絶対笑ってないよ」
「絶対笑ったよ」
それだけはずっと憶えているのだ。
呆れて溜め息をつくと、ちい姉は真剣な表情でぼくを見つめた。それから、真摯な目つきで言う。
「じゃあ一回外してみて」
……ぼくの話をちゃんと聞いていなかったのか。
「なんでそうなるんだよ」
「だって笑ってないもん。そこまで言うなら外して見せてよ」
「笑ったんだよ、絶対に。あのときも、ちい姉がそうやって言うから外したんだ、嫌々。それで後悔した。憶えてないなら言っておくけど、涙を流しながらの大爆笑だったぞ。息だってできてなかった」
「そんな昔のこと。何年前の話? 十年以上も前のことなんて時効だよ時効。それに、今なら違って見えるかもしれないじゃない。だから、ね。騙されたと思って外してみて」
そんな手に乗るもんか。今までこの人に「騙されたと思ってやってみろ」と言われて騙されなかったためしが一度もない。しょうゆをかけたプリンも食べたし、はちみつをかけたきゅうりも食べたけど、どっちも完全に騙された。もうなにも信じない。
眼鏡を外すことを期待して見つめてくるちい姉から、ふい、と視線をそらす。
「嫌だ」
「ええー、なんでよお。ほら、こっち向いて。顔見せて」
「やだって言って……、ってこら! 触るなっ」
無理やり外されそうになる眼鏡を押さえる。ちい姉は獲物を狙う肉食獣みたいに、ちろりと舌なめずりをして、ぼくの眼鏡を目がけて手を伸ばしてきた。片手で眼鏡を死守しつつ、もう片方の手でちい姉を押さえる。絶対外すもんか。
「んもう。どうして見せてくれないのよ、眼鏡外した姿」
諦めたのか、ちい姉がおとなしくソファに座りながら言う。
何度も言うようだけど、一回だけなら見せているんだって。小学生のときに。
「そんなの、わたしは憶えてないからノーカン。翔ちゃんの眼鏡なしバージョン見たことない」
都合がよすぎる。誰のせいでこうなったと思っているのだ。呆れてものも言えなかった。
「本当に、もう笑ったりしないんだけどな。……それでもだめなの?」
「だめだ」
「どうして見せてくれないの?」
「それは……」
少し口ごもる。どうしてその姿を見せたくないかなんて決まっている。単純な理由だ。
ぼくはちい姉の視線から逃げるように目をそらして言った。
「……恥ずかしいからに、決まってるだろ」
眼鏡をくいと持ち上げる。ちい姉は目をまたたいたあと、呟くように「それだけ?」と言った。それだけだ、悪いか。
だって眼鏡芸人がよく言っているじゃないか。眼鏡をかける者にとって眼鏡を外した姿を見せることは全裸を晒すのと同じだ、と。言い得て妙だと思う。確かにそれくらいの恥ずかしさがある。ぼくは人前で裸になんてなりたくない。
「それとこれとは話が別だよ」
「同じだよ」
「あ、じゃあ代わりにわたしが眼鏡かけてあげよっか!」
「ふん、騙されないぞ。そうしたら結局ぼくが眼鏡を外すことになる」
顔も見ないできっぱりと返す。ちらりと横目で見やると、ちい姉は「むー」と言いながら子どもみたいにくちびるをとがらせていた。年上とは思えない幼さだ。本当にこの人は年上なのか? 体ばっかり成長して、性格や行動は昔と全然変わっていないじゃないか。……本当に、体ばっかり。
「つれないなあ、翔ちゃんは」
がっくりと肩を落としながら、ちい姉が言う。つれなくて結構。ぼくは本気で嫌がっているのだ。
互いに黙り込む。秒針の音が数十回ほど聞こえたあとだった。
「……わたし、」
少しだけ、声が途切れた。
「翔ちゃんがみんなにからかわれるっていうから、そうならないように協力しようと思ったんだよ」
ぼそりと呟かれる言葉。
わかっている。ちい姉がいつもぼくを気にかけてくれていることくらい、ずっと前から気づいていた。
視線を感じて隣を見る。目が合うと、ちい姉は困ったような小さな笑みを浮かべた。
「なんでからかわれちゃうのかな、翔ちゃん」
その視線がくすぐったくて、ぼくはふい、と顔をそらした。
「知らないよ、そんなの」
からかうほうがなにを考えているかなんて、ぼくにはいっさいわからない。クラスに必ずいるようなうるさい連中が、なにかとちょっかいを出してくるのだ。ぼくが無視をすると、おもしろがって余計に。本当にくだらないことをするなと思う。いい加減、放っておいてほしい。
「でもまあ、わかる気もするけどね。からかっちゃうほうの気持ち」
「……は?」
眉をしかめてねめつける。ちい姉はクスクスと笑った。
「だってからかうとおもしろいもん、翔ちゃん」
むっとした。ぼくは全然おもしろくない。
「なんて、そんな冗談は置いといて」
「冗談じゃないくせに」
「まあまあ。それでね、わたし考えたの。翔ちゃんがからかわれなくなる方法」
どうせたいした内容じゃないのだろうけど、一応聞く。
「……どんな?」
「うん。からかわれる理由としては、さっきも言ったと思うけど、見た目がちょっと地味だからだと思うの。そのせいでクラスでも浮いちゃってるでしょ、翔ちゃん」
「いや、そんなことは」
「ないの?」
「……なくは、ないけど」
否定できなかった。確かに、ちょっと浮いている気がする。
「でしょ。たぶんそれが原因だよ。翔ちゃんって誰よりも平凡で特徴ないもんね。黒髪だし眼鏡だし顔も普通。中肉中背で目立つような部分はとくになし。勉強も運動も平均的。趣味も特技も持ってない。こんなに『並』って言葉の似合う人は翔ちゃんくらいのものだよ。青春真っ盛りの時期である高校生なら、そういうほうが逆に浮いちゃうんだって」
散々な言いようだ。これだけ「普通」と言われたら、傷つくに傷つけないし怒るに怒れない。悪く言われたほうがまだましだ。
「クラスの子たちを思い浮かべてみて。みんなそれぞれ特徴があるでしょ」
言われてみれば確かにそうだ。それぞれ個性がある。見た目だけでも、髪を染めたり制服を着崩したりピアスをあけたり化粧をしたりカラーコンタクトを入れたり。みんなこだわりがあるらしい。ぼくから見たら、ただのばかに見えるけど。
「いいんだよ、特徴なんてなくて」
学校は勉強をする場所だ。そんなに着飾って、いったいなにがしたいのだろう。わけがわからない。
「じゃあさ、髪染めてみれば? 金髪とかに」
「だからなんでぼくが、……は? 金!?」
「金が嫌なら赤でもいいけど。そうすればちょっとは目立つんじゃない? キャラも立つし」
それは、目立ったとしても悪目立ちなのでは。いくらキャラが立つとしても、ぼくはそんなの嫌だ。
……大体。
「ぼくはべつに目立ちたいわけじゃない」
目立ったところで、からかってくる連中がすんなりやめてくれるとは思えない。髪を染めたら染めたで、奴らはきっとさらにからかってくるぞ。目に見えている。
「ふうん。でもこのままじゃずっとからかわれっぱなしだよ。いいの?」
「いいよ」
「地味とか暗いとか陰気臭いとか言われちゃうけど、それでもいいの?」
「……いいよ」
そこまで露骨に言ってくるのは、ちい姉だけだ。からかってくる連中よりもたちが悪い。
ぼくは眼鏡を押し上げた。
「なにを言われても、ぼくはぼくだし。このままでいたって見てくれる人は見てくれる」
「あーあー、カッコイイこと言ってくれちゃって」
このこのー、と言いながら、ちい姉が肘でぼくをつついてくる。この人も大概からかうほうの人間だと思う。たぶん、ぼくがからかわれることに慣れたのはちい姉のおかげだ。あんまりうれしくないけれど。
「でもホント、翔ちゃんはいつまでも翔ちゃんだなあ。昔からそうだったよね。自分は自分、人は人、みたいな」
ちい姉がクスリと笑う。それは、からかうときの笑みではなく、……うれしさを隠しきれないときのような笑みで。
「翔ちゃんらしいね」
そう言って、ぼくの腕に抱きついてくる。
「そういうところが好き」
恥ずかしげもなくそんなことを言うちい姉に、ぼくは照れ隠しのために鼻を鳴らしてそっぽ向く。顔が少しだけ熱かった。
「金髪で眼鏡をかけてない翔ちゃんは翔ちゃんらしくないしね。よく考えたら嫌だもん、わたし」
「だから言っただろ」
「うん、ごめんね」
甘えて喉を鳴らす猫みたいに、ちい姉はぼくの腕に頬をすり寄せる。あまりにも恥ずかしいので振り払いたくなったけど、ぐっと堪えた。あんまり冷たく接するのもかわいそうだと思ったのだ。たまには優しくしないといけない。そっけない態度ばかりとっていると、あとで親に言いつけられるのも嫌だ。最後はいつもぼくが怒られる。
ちい姉が不思議そうに言った。
「あれ、離れろって言わないの?」
「言わないよ」
「じゃあ抱きつき放題?」
「そういうんじゃないけど……。あんまりべたべたしてこなければ、それなりに」
目を輝かせるちい姉に、ぼくは諦めの溜め息をゆるゆると吐き出した。どうせ泊まっていくんだろうから、今晩は抱き枕にされる覚悟をしておかなくては。
「……でも、さ」
少し間を置いてから、ちい姉が言う。
「ずっと思ってたことがあるの。わたし、眼鏡をかけてる翔ちゃんのことがとっても好きだけど」
すり寄る腕から顔を上げ、まっすぐな瞳を向けられた。
「キスするときだけは眼鏡があると邪魔だよね」
その目を見下ろす。レンズ越しに見るピンク色のくちびるには、優しい微笑みが浮かんでいた。
「外していい?」
コクリと息を飲む。甘えるように問われれば、もう拒否はできなかった。
……実を言えば、それはぼくも思っていたことなのだ。
くちびるを合わせるそのときだけは、レンズ越しではなくそのままの瞳できみが見たい。幸せそうに頬を赤く染めるきみを、遮るものなく感じたい。愛しいきみとキスをするたびに、この眼鏡が邪魔をしていた。本当はずっと、裸の瞳で見つめたかった。
「……好きにすれば」
それでも素直になれない。高鳴る鼓動を隠しつつ不愛想に呟けば、彼女は嬉々としてぼくの眼鏡に手をかけた。それをそっと外されて、「目、閉じて」と掠れた声で短くささめかれる。言われるとおりにそうすると、それからすぐ、甘やかでやわらかいマシュマロのような感触がくちびるに優しく触れた。
まぶたをゆっくりと開ける。すぐ目の前には幸せそうな彼女がいた。とくり、と鼓動が鳴る。互いをじっと見つめあう。
ふいに、ちい姉が小さく笑った。
「やっぱり似合わないよ、眼鏡がないのは」
「……うるさいな。だから言ったんだよ」
急に恥ずかしくなり、慌ててちい姉から顔をそらす。それでも彼女はそれを許さないとでもいうように、小さくあたたかな両手でぼくの頬を包み込んだ。そして、そっと瞳を合わさせる。
「うん。翔ちゃんは眼鏡をかけてるほうがいい。そのほうがかわいい」
頬に触れる手のひらから、じんわりと体温が伝わる。こんなに近い距離から、まっすぐな視線で射貫かれる。優しげな蜜色の瞳には、ぼくの姿がはっきりと映し出されていた。
そんなふうに見つめられたら、目をそらすにそらせない。どうしようもなくなったぼくは、ゴクリと唾を飲んだあと、
「……かわいいは、余計だ」
と小さく文句を言うだけでせいいっぱいだった。
ちい姉はふわりと笑う。それから、ぼくに眼鏡をかけて返した。
彼女の細い指先が愛おしげにぼくの黒髪を梳く。そしてまぶたを閉じながら、そっと額を合わせてきた。ぼくも静かに目を閉じる。ちい姉は、鈴を転がすような声でささめいた。
「好きよ、翔ちゃん。黒髪も、眼鏡も、そっけないところも全部含めて」
幼い頃から、きみはぼくにそう言い続けてくれていた。
だからぼくは髪を染めない。眼鏡をやめない。
地味でも暗くてもかまわない。
きみだけが、こうしてずっとぼくを見ていてくれるのなら。
(「だから、ぼくは」 終わり)
だから、ぼくは 彩芭つづり @irohanet67
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