名もなき妖怪

「はぁー、今回の遠征は大変有意義なものだった! 満足だ!」

 電車の座席に座っている蜘蛛子は、大きな声で喜びを表現した。頭の上に乗ってるスネコスリが、揺れ動く蜘蛛子の身体に合わせ、落ちないよう必死にバランスを取っていた。

 もしも此処が一般的な電車であるなら、他の乗客の迷惑だと仁美は窘めねばならないだろう。しかし今自分達が乗っている電車は、村から出ているド田舎電車。車両内に自分達以外の姿はなかった。外は夕日が沈み始めた頃で、この路線の終点である『ちょっと都会寄りの町』にある駅まで、人は乗ってきそうにない。

 だから大声を出しても良い、という訳ではないが、喜びを表現するのを抑えようとも思えない。仁美は忠告をする事なく、蜘蛛子の喜びに返事をする。

「良かったですね。私はへとへとですよもう……」

「あの程度の山で随分と軟弱だな。今度は雪女に会いたいから、雪山登山をするつもりなのだが」

「勘弁してくださいよぉ。私達、死にかけたんですから」

「む。それを言われると……」

 仁美が拒絶すると、蜘蛛子は先程までの嬉しさは何処へやら。すっかり萎縮してしまう。

 しまった、と思った時にはもう遅い。仁美と蜘蛛子の間には沈黙と、重々しい空気が流れてしまう。逃げるように仁美は顔を逸らし、『昨日』の事を振り返った。

 ……仁美達が出会い、黒い靄に食べられた女性は、今頃警察の何処かの病院だろうか。

 行方不明のままでは遺族が辛いだろうと、仁美達は下山後警察に通報した。その日はもう夜遅くという事で捜索は保留し、翌朝蜘蛛子が遺体のあった場所まで警察官達を案内。もしかするとまた黒い靄のような妖怪が……不安を抱く仁美だったが、探索は難なく終了し、遺体は麓まで下ろされた。

 遺体にはブルーシートが掛けられ、仁美には見えなかったが……蜘蛛子曰く「タヌキやネズミに喰われたのか、昨日より酷かった」との事だった。その後身元を特定するため、遺体は村の外へと運ばれている。

 彼女は何者だったのか。本当に自殺志願者なのか。それともただの軽率な登山者なのか……今となっては、きっと誰にも分からない。

 そして、一番分からないのは……

「君は、あの黒い靄のような妖怪についてどう思う?」

 考え込んでいた最中、ふと、蜘蛛子が質問を投げ掛けてきた。

「……どう、とは?」

「あの妖怪の事を好きか嫌いか、みたいな話だよ」

 尋ね返すと、蜘蛛子はそう言ったきり口を閉ざす。

 ちらりと横目で見た蜘蛛子の顔は、仁美の方を見ていない。答えたくなければ答えなくても良い……そう言っているような気がした。

 仁美はすぐには答えない。しばし口を閉ざし、自分の考えを纏めてから、ゆっくりと声を発する。

「……私は、もう二度とあの女性のような悲劇が起きてほしくはありません。だから、正直あの妖怪は嫌いですし、怖いです」

「……そうか」

 仁美が正直な意見を伝えると、蜘蛛子は目を閉じる。諦めるような、悲しむような、そんな顔だった。

 仁美は正直な感想を述べただけだ。けれどもそんな顔をされると……自分の答えが間違っているような、そんな気がしてくる。勿論自分の意見に正解も間違いもないだろうが、蜘蛛子がどんな答えを求めていたのかは知りたい。

「先輩は、なんで妖怪が好きなんですか? あんな怖い目に遭ったのに、どうしてそんなに、妖怪の事を知りたがるんです?」

 だから仁美は尋ねる。

 蜘蛛子もすぐには答えない。じっくりと考え込んで……ぽつりと、呟くように答える。

「私はね、好きであるのと同じぐらい怖いんだ」

 そのたった一言で、仁美の心は揺れ動かされた。

「怖い?」

「君、都会で妖怪を見た事はあるかね?」

「……ありません」

「だろうな。私もこのスネ以外見た事がない」

 蜘蛛子は頭の上に居るスネコスリを指差す。仁美は、そのスネコスリすら蜘蛛子の頭の上以外で見付けた事がない。

「妖怪は、もっといた筈なんだ。大昔は、それこそ町でも頻繁に見かけるぐらいには。だけど今、彼等は姿を消した。現代社会に適応出来なかったのだろう。多分、絶滅した種も少なくはない」

「……妖怪も、絶滅するのですか?」

「さてね。私がそう思うだけだ。何しろ我々人類は、妖怪についてなーんにも知らないのだから」

 蜘蛛子は肩を竦める。降参だ、と言わんばかりに。

「そうとも、人類は妖怪について何も分かっちゃいない。あの黒い靄のような妖怪はなんだ? 元々あの山に暮らしていたのか、そうじゃないなら何処から来たのか。普段は何を食べているのか、どんな妖怪が天敵なのか、どういう暮らしをしているのか、何故人間の肉を食べたのか、繁殖力はどのぐらいあるのか、個体数は如何ほどか、夜行性なのか昼行性なのか、群れの最大規模は、群れの統率はどうやっているのか、そもそも群れるのが正常な状態なのか……私は、何も知らない」

 つらつらと語られる、蜘蛛子の『知らない事』の数々。仁美にも勿論分からないそれは、とても怖いようで……怖いからこそ、興味を惹かれる。

「君の気持ちもよく分かる。あんなにも怖い思いをしたのだから当然だ。だけど、もしもあの妖怪が絶滅したら、この世界はどうなると思う?」

「……分かりません」

「そう、誰にも分からない。誰も知らないから当然だ……私はね、それが怖いんだ。妖怪の姿は殆どの人には見えていない。見えていないから、彼等の生活が壊れている事に気付かない」

 蜘蛛子の言葉から、仁美の脳裏に農村での思い出が過ぎる。

 くねくねが生きるには、自身の姿を見せるための広大な平野と、たくさんの鳥が必要である。

 天井舐めが生きるためには、カビが生えているたくさんの古木か、或いは古びた木造住宅が必要だ。

 か弱い小豆洗いが生きるためには、個体数の維持が不可欠だ。だから綺麗な小川と、そこに暮らす小動物達がたくさんいなければならない。逆に小豆洗いが増え過ぎて川の生き物を食い尽くすのを防ぐには、小豆洗いを獲物にしている河童が必要である。

 そして鬼が命を繋ぐには、獲物となるそれら妖怪達がたくさん暮らす、豊かな森林が欠かせない。

 大都市に開けた土地など殆どないし、カビ臭い材木なんてすぐ片付けられてしまう。川は舗装されて小さな虫や魚が棲める場所ではなく、ましてや豊かな森林など何処にもない。妖怪達が棲める場所は、今や殆ど残っていないのだ。

 妖怪達が消えて、何かが変わったのだろうか? それとも変わっていないのか。これから変わろうとしているのか、辛うじて踏み留まっているのか。

 誰にも、分からない。

「誰もが、妖怪なんていないという。いないと思っているから、妖怪達の住処を平気で奪い、壊していく。その先に何があるかも分からないのに」

「……………」

「誰かが調べて、世間に伝えなければならない。例え世の中が馬鹿にしたとしても、訴え続ければ……何時か起きる『大変な事』を避けられるかも知れない」

「先輩……あなたは……」

「まぁ、もしかしたら大した影響なんてないかも知れないがね。かつて五十億羽いたというリョコウバトが絶滅しても、アメリカ大陸は人が暮らすのにこれといって支障がない訳だし」

 けらけらと笑いながら、蜘蛛子は自分の言い出した事をひっくり返す。ふざけたような笑い方だったが、その瞳に宿る決意は確かなもの。

 蜘蛛子は、勿論妖怪が好きなのだろう。けれども好きなだけではなく、人のために尽くそうとしている。誰もやらない事を、誰にも出来ない事を為そうとしているのだ。

 けれどもその努力は傍目には奇行に映るだろうし、誹謗中傷も受けるに違いない。どれだけ発表しても、きっと拒まれる。無駄に終わる事もあり得るし、評価されたとしてもそれは自分の死後かも知れない。

 それすらも、蜘蛛子は受け入れているのなら。

 ――――せめて、同じく見える自分だけでも、支えてあげたい。

「……全く、先輩ったら最後まで真面目に答えてくださいよ」

「いやいや、私は何時でも真面目だよ? 今のだって本心さ」

「本心なら、尚更支えてあげないといけない気がしますね」

「ははっ! そんなに頼りないかな……んぇ?」

 間の抜けた、珍妙な声を漏らしながら蜘蛛子は仁美の方へと振り返る。

 その仕草がなんともおかしくて、仁美はついつい笑いが漏れ出した。この人何時も余裕ぶってるけど、割と簡単に動揺するなぁ……そんなところが少し可愛いと思えるぐらいには、この二泊三日の旅行で仲良くなれた。

 なら、きっとこれから一緒に過ごしても、それなりには楽しめるだろう。

「次の妖怪調査があったら、また一緒に行きますよ」

「ほ、本当か!? 本当に、一緒に来てくれるのか!?」

「こんな嘘吐いても仕方ないじゃないですか。それに先輩、一人にしたら危ないものにどんどん突っ込んでいきそうですし」

「そ、そっかー……えへへへへ」

 まるで子供のようにだらしなく微笑みながら、蜘蛛子は嬉しさを露わにした。そこまで喜んでもらえると、仁美としても嬉しくなる。

 にこにこと笑みが零れ、車両内に小さな笑い声が満ちた。

「よぉーし、それなら早速次の予定を決めてしまおうか! 実は前から行きたかったんだが、一人だと危な過ぎる場所でね!」

「へ? いやいやいや!? 危ない場所は止めましょうよ! 今日みたいな目に遭うのは勘弁したいんですけど!」

「大丈夫! 多分!」

「後ろの一言で全部台なしになってますからね!?」

「はははっ! しかしそれだけの価値はあるぞ! ちょっと待っててくれ、今スマホで地図を出すから」

 引き留めようとする仁美の意見もなんのその。すっかり舞い上がった蜘蛛子は、その危険な場所に行く気満々だ。またしても早まったかと思ったが、されど今度は後悔などしない。

 世界には知らない事、分からない事がたくさんある。この世界の本当の姿を見るための冒険を、嫌いになれる筈がないのだ。

 だから仁美はその顔に満面の笑みを浮かべながら、蜘蛛子に寄り添うように近付き――――

「……は?」

 至近距離で、蜘蛛子が漏らした声を聞いた。

「……先輩? どうしましたか?」

 不意に漏れ出た声を怪訝に思い、仁美は声を掛ける。されど蜘蛛子は仁美に答えてはくれない。

 それどころか無視するように指を動かし、スマホを操作。やがて指を止め、じっと画面を見つめ……カタカタと、震え始める。

 震えは段々大きくなり、その顔色は一気に青くなった。何かがおかしいと思いもっと大きな声で呼び掛け、肩を揺すってもみたが、蜘蛛子はやはり仁美の方を見てはくれない。

 その視線が向いているのは、まるで肉親の形見が如く、両手で大事に掴んだスマホの画面。

 仁美は息を飲んだ。スマホの画面は、斜めから覗き込んでもハッキリとは見えない。

 あまり褒められた行為でないのは重々承知しているが……直感的に、知らないままでいるのが良いとは思えなかった。意を決し、一言「スマホ見ますよ」と伝えてから仁美は蜘蛛子のスマホを覗き込んだ。

 画面には、動画が映し出されていた。

 何処かの街並を映した映像だった。日本の都心部だろうか、日本語で書かれた看板が掲げられたビルがずらりと並んでいる。空は明るく、昼時に撮られた映像だと分かった。

 画面は激しく揺れており、カメラを持つ者が走っている事が分かる。それも相当必死に。

 されど画面の揺れは唐突に治まった。撮影者が転んだらしい。転がったカメラに映るのは、撮影者らしき男。

 その男の身体から、突然内臓が跳び出した。

 なんの比喩でもない。文字通り彼の身体から、中身が出てきたのだ。彼の中身は暴れ回る彼の動きと関係なく、重力を無視した動きを披露し、千切れた部分が宙に浮いている。

 そうして宙に浮いた内臓が、グチャグチャと潰され、千切られ、捨てられていく。

 潰された内臓は、真っ赤な体液を撒き散らす。内臓を喪失した男性は痙攣し、やがて動かなくなった。

 映像は、そこで終わった。続きはあるようだが、カットされたらしい。

「こ、これ……!?」

「……今日の昼間、関西の方で起きた出来事らしい。犠牲者は推定二十人。今も惨殺体は散発的に発生している。原因は未だ不明だそうだ」

 思わず仁美が声を漏らすと、蜘蛛子はぼそぼそと答える。

 原因不明? それはそうだろう。分かる訳がない。誰もが『彼等』を否定したのだから。

 カメラには、男性を襲う者の姿は映っていない。それでも、物質に干渉可能であれば姿が浮かび上がる事はある。

 血糊だ。べったりと血を纏えばそれだけで姿の輪郭を形作ってくれる。男性の抵抗は、自らを攻撃するものにたっぷりの血をお見舞いしていた。だから『そいつ』の輪郭ぐらいはハッキリと見えるのだ。

 その上で、仁美は思った。

 なんだ・・・この妖怪は・・・・・

 見た事がない。背ビレのようなものを生やした、トカゲとも人とも付かない形をした妖怪なんて。長く伸びた爪、人に似た顔付き、短い尾っぽ……どれも見覚えがない。

「せ、先輩……あの、この妖怪は……?」

「分からない。こんな外見の妖怪は実物を見た事もないし、文献で見掛けた事もない。だが……」

「だが?」

 息を飲む仁美。蜘蛛子は青くした顔を上げ、仁美と向き合いながら告げる。

「都市部は『餌』が豊富だ。もしもこの妖怪の繁殖力が優れていたなら、増殖に歯止めが掛かるとは思えない。肉食性の妖怪がいれば、互いに牽制し、活動範囲が制限される可能性もあるが……」

 今そこで人が死ぬよりも、恐ろしい話を。

 都市に鬼はいない。餌となる妖怪がいないから。

 都市に河童はいない。餌となる小さな妖怪も、大きな魚もいないから。

 都市にくねくねはいない。餌となる鳥が少なく、捕まえる術も奪われたから。

 都市に妖怪はいない。

 なら、誰が退治する?

 殆どの人には見えなくて、

 見えている人間だって食べてしまうほど強くて、

 どんな生態をしているかも分からなくて、

 何を守っているか分からず、

 何故現れたかも分からない、

 そして、



























 殺したら何が起きるか予想も付かない、この名もなき妖怪を。



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見えない秩序 彼岸花 @Star_SIX_778

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