鬼
「……え……?」
仁美は、思わず足音の方へと振り返った。
足音と言ったが、ただ地面を踏み締めるようなものではない。小学生の頃両親に連れられていった演奏会で聞いた太鼓のような、身体にずしりと響く音だ。そしてその音は、段々と自分達の方へと近付いている。
そんな足音が聞こえてくる方角を注視していると、やがて『足』が見えた。
おぞましい足だった。死人のようにくすんだ肌色をしていて、生々しい傷痕が無数に見られる。指先には鋭い爪があり、蹴られれば人間なんて一撃で貫かれてしまいそうだ。
しかし何より恐ろしいのは、足の長さが五メートル近い事だろう。
本体はもっと上にある。それが分かっても、木々に遮られて見えない。正体が明らかになったのは、その足がへたり込んでいる仁美達のすぐ傍まで来てからだ。
身の丈十メートルに迫るそいつは、人に似た形をしていた。ややほっそりとした体躯だが、四肢や胴体は引き締まり、決して軟弱な身体付きではないと分かる。頭には二本の角を生やし、口許から牙がはみ出していた。瞳は黒く、白眼は殆ど見えなかったが……確実にこちらに視線を向けていると感じられる。
蜘蛛子の説明はなかった。なくても分かるぐらい、ハッキリとした存在感だった。
鬼。
自分達が探し、観察しようとしていた妖怪の頂点が、目の前に現れたのだ。
【か、かきゃああああっ!】
【きい! きぃぃああああああああっ!】
【かこかかかっ!】
【こかこおおおおおおああっ!】
黒い靄達は、鬼を見るや狂ったように叫ぶ。六対一と数では圧倒的有利な筈の彼等は、仁美達を捕らえるために敷いていた包囲を解き、鬼と対面するように展開した。
前門の虎後門の狼ということわざがあるが、今の自分達は正にその状況だと仁美は思う。どちらがマシな相手かも分からず、仁美は身動きが取れない。頼りの蜘蛛子も、唖然としたように立ち尽くす。
鬼と黒い靄はしばし睨み合いを続けたが……やがて鬼が動き出した。
その豪腕を、まるではたくような仕草で振るったのだ。叩き潰される――――反射的にそう思った仁美は、しかし鬼の放つ圧倒的存在感に気圧されて瞬き一つ出来ず。
故に彼の手が自分の頭上を通り越し、黒い靄の一匹を叩き潰すところを目の当たりに出来た。黒い靄は小さな悲鳴を上げたきり、ぴくりとも動かない。一撃で仕留められていた。
「……え、あれ……?」
てっきり自分が潰されると思っていた仁美は、呆けたような声を漏らす。
驚いたのは仁美だけでなく、黒い靄達も同様だった。仲間がやられて、困惑するように彼等は悲痛な鳴き声を上げる。
しかし鬼は容赦などしない。
鬼は一言も発さず、今度は別の黒い靄を叩き潰す。仲間を立て続けに二体やられ、黒い靄達もようやく我に返り、そして我慢の限界を迎えたのか。四体の黒い靄達は一斉に鬼へと飛び掛かった。
鬼は十メートルもの巨躯。対する黒い靄は二メートルにも満たない小柄さ。パワーでは敵わないと判断したのか、黒い靄達は持ち前の機動性を活かし、鬼の身体に纏わり付く。巨大故にやや動きの遅い鬼は、黒い靄達を追いきれない。
黒い靄達は鬼の背後へと回り込むや、鋭い牙を鬼に突き立てた。
人の肉をも喰らう強靱な顎だ。鬼の身体はズタズタに傷付けられてしまう……と思いきや、まるで効いていない。傷付くどころか、鬼は噛まれた事すら気付いていないかのように平然としていた。
あまりにも平然としているので、見ていた仁美のみならず、攻撃していた黒い靄も困惑した様子。即ちそれは明確な隙であり、鬼はこれを見逃さない。
鬼は声も発さず、素早く腕を背中側へと回す。バチンっ! と叩かれ、まるで虫けらのように黒い靄の一体がぽとりと落ちた。
一分と経たずにチームが半壊。あまりにも一方的な暴虐に、生き残った黒い靄達は勝ち目がないと悟ったのだろう。慌てふためきながら、彼等は鬼から逃げようとする……間際に、鬼は両手を伸ばして黒い靄二体を捕まえた。正確には、そのまま握り潰してしまった、と言うべきだが。
どうにか一匹だけは逃げる事が出来、そのまま森の奥へと姿を消す。逃げた一匹を追うのは流石に難しいのか、はたまた面倒臭いのか。鬼は黒い靄が逃げていった場所をしばし眺めた後、つまらなそうに鼻を鳴らす。
それからしかと、仁美達の方へ視線を向けてきた。
「ひっ……!」
「静かに。クマと一緒だ。大きな声を出さず、ゆっくりと後退りすれば良い」
思わず悲鳴を上げそうになる口を、蜘蛛子は素早く塞いだ。仁美はこくこくと何度も頷き、言われるがままゆっくりと、腰が抜けていたので這うように下がる。
鬼は奇怪な仁美の動きをじっと眺めていたが、しばらくすると目を逸らした。
次に彼が見るのは、自らが仕留めた黒い靄の亡骸。自分が掴んでいる二体、叩き潰した三体を一ヶ所に積み上げる。
そうして出来た黒い靄の山を見て、鬼は笑った。明白な表情がある訳ではないが、仁美の目には笑っているように見えた。まるでカブトムシをたくさん捕まえた子供のような、無邪気な笑みだ。
鬼は自分の成果を喜ぶと、積み上げた黒い靄の一体を掴み――――がぶりと、頭から丸かじりにする。頭を噛み砕かれた黒い靄は断面から煙のようなものを吹き上げ、鬼は慌てた様子でそれを吸い込んだ。コップに注いだビールが溢れそうになった時のお父さんみたいだと、仁美は漠然とそんなイメージを抱く。
鬼はもしゃもしゃと、楽しげに黒い靄を食べ続ける。その間に仁美は蜘蛛子の手を借りて立ち上がり、少し離れた木陰まで逃げ込んだ。鬼は仁美達がいなくなった事などどうでもいいようで、暢気に食事を楽しんでいる様子。
つまりは助かったという事であり。
「「はああああああ……」」
仁美と蜘蛛子は、同時にため息を吐いた。吐いた後の仁美は疲れたように項垂れたが、蜘蛛子は身体をそわそわと動かして興奮を露わにしていた。
「いやー、凄いなぁ! 鬼だよ鬼! やはり何時見てもカッコいい!」
「ま、マジで死ぬかと思いました……あの鬼が来なかったら、本当に喰われてたでしょうし……」
「うむ。賭けではあったが、作戦通りに進んで良かったよ」
「作戦?」
そういえば作戦があるって言ってたっけ……蜘蛛子の言葉を思い出しつつ、逃げ回っていただけのつもりである仁美が疑問を覚えると、蜘蛛子はすぐに作戦の中身を教えてくれた。
「奴等を森の奥へと誘導していたんだ。鬼の生息地である、この森の奥にね」
「成程、最初から鬼に退治してもらうつもりだったのですね……先輩、そこまで考えて」
「まぁ、もしかしたら毒があったり不味かったりで、鬼でも襲わない妖怪だったかも知れないがね! いやー、ラッキーだったなぁ」
尊敬しかけたところで、蜘蛛子は堂々と、それでいて致命的な問題があった事をバラした。称賛の言葉を出そうとした口はぽっかりと開き、仁美は口許を引き攣らせる。よくよく考えれば、鬼の縄張りに入っても鬼が絶対に来るとは言いきれない。無策ではなかったが、殆ど運任せであった。
とはいえ蜘蛛子がいなければ、その幸運を掴めなかったのも事実。
「……ありがとうございます」
「例なら鬼の方に言いたまえ」
「先輩にお礼が言いたいんです」
仁美からの感謝に、蜘蛛子は一瞬キョトンとすると、逃げるように顔を背けた。よくよく観察すれば、その顔は赤く染まっている。
どうやら照れているらしい。
「……意外と可愛いところありますね」
「んなっ!? か、可愛いとか言うんじゃない!」
「そーいうところがますます可愛い」
おちょくれば、蜘蛛子は更に顔を赤くする。頬を膨らませ、目も潤ませた。しかし反論してもまたおちょくられると思ったのか、ぷるぷる震えるだけで何も言い返してこない。
「ほ、ほら! もう帰るぞ! 走り回って疲れたし、そろそろ日が暮れるからな! 急がないと置いていくぞ!」
代わりに、露骨な照れ隠しをしながら強がりを言うだけ。置いていくと言いながら、一歩も動かない辺りが蜘蛛子の性格をよく表している。
「はいはい、りょーかいです。置いてかないでくださーい」
仁美は明るい声で降参を示し、蜘蛛子の後ろに付く。
そして蜘蛛子の背中側で、表情を曇らせた。
……自分達が生きているのは、先の自殺志願者のお陰だ。彼女が先に犠牲となり、黒い靄の群れが分断されたから、こうして自分達は生きている。
自殺しようとしていた人なのだから気にするな、という意見もあるだろう。けれども仁美には、忘れる事など出来ないし、忘れてはならないと思っている。
そのためにも、自分に出来る事は――――
生き延びた喜びと、胸にくすぶる使命感。二つの感情の板挟みに遭いながら、仁美は蜘蛛子と共に山を下りるのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます