黒い靄

 バリバリ、くちゃくちゃ、ぽきぽき。

 生々しい音が確かに仁美の耳に届き、鼓膜を震わせた。妖怪達の声とは違う、物理的な音。だからそれは本当に、現実に起きているという証。

 食べているのだ。

 黒い靄のような何かが、彼等の中心に横たわる人間を。

「――――ひ」

「静かにっ」

 無意識に悲鳴を上げようとして開いた口は、蜘蛛子によって塞がれた。そのまま仁美は蜘蛛子に連れられ、近くの大木の影に身を隠す。

 蜘蛛子はゆっくりと顔を木から覗かせ、仁美も考えなしに同じ行動を取る。

 黒い靄達は、夢中で人を食べていた。

 黒い靄と呼んでいるが、その形は裸の人のようにも見える。数は五体。いずれもすらりとした手足をしていて、かなり華奢だ。人間なら頭のある場所に、同じく頭のような塊があるが、しかし目や鼻などのパーツはない。あるのは、ぐちゃぐちゃと人間の肉を噛み千切っている口だけ。

 何より不気味なのは、彼等の食事ぶりだ。四つん這いになって咀嚼する姿は、人らしい見た目と相まっておどろおどろしい。息を吐く間もなく噛んでは肉を吐き出す ― その肉に宿っている『魂』だけを食べているのだろうか ― 様は、テレビでやっていたアフリカの肉食獣のような、獰猛さと貪欲さを感じさせる。大きさからして人一人いれば五匹全員が十分腹を満たせそうなものだが、時折黒い靄同士で威嚇するような仕草を見せ、口の中を剥き出しにしていた。ずらりと並んだ鋭い靄は、歯なのか。べっとりと付けた血糊を目の当たりにし、仁美は背筋が凍る想いをした。

 そして食べられている人間だが、まだ生きているらしい。生々しい咀嚼音に混ざり、微かな呻きが聞こえてくるのだ。

 助けられるか? もう手遅れか?

 それを知るためにも、人間の姿をよく見なければならない。仁美はごくりと息を飲み、呼吸を整え……意を決して、食べられている人間を見る。

 だから気付いた。

 食べられている人間は、女性だった。細身で、手足が長い。山を登るのには不適切な薄手をしていて、靴もお洒落な女性もの。

 そして微かに見える横顔が、とても薄幸そうだった。

「……っ!」

 反射的に、或いは逃げるように、仁美は木陰に身を隠す。しかし網膜に焼き付いた付いた人の顔は、何時まで経っても消えてくれない。

 あの女性の名前なんか知らない。どんな仕事をしていて、何故こんな場所に来たのかだって訊けていない。それでも『知り合い』が遭遇した悲劇だと理解した途端、急に目の前の出来事が身近に感じられる。

 息が上手く出来ない。

 心臓が痛い。

 血の流れが鬱陶しい。

 逃げたいのに身体が動かない。

 嫌だ、あんな死に方は嫌だ、嫌だ、嫌だ――――

 感情だけが高まり、意識が遠退く。やがてふっと全身から力が抜け

「しっかりしろ。ここで気を失わないでくれ」

 蜘蛛子がすかさず支えてくれなければ、その場で失神していただろう。

 身体を掴まれる刺激と、耳をくすぐる囁き声で、仁美は我を取り戻す。首を横に振り、身体の中に残る気持ち悪さを追い払う。どうにか平静を取り戻した仁美は、蜘蛛子の言葉に小声で答えた。

「は、はい、大丈夫です……あの、アイツらは、一体……」

「分からん。恐らく妖怪の類だが、あのような外見のものは見た事も聞いた事もない。新種か、突然変異か、それとも何かの幼体か……こんな時でなければ、じっくり観察したいところだがね」

 推論を語る蜘蛛子は楽しそうな口調であるが、その顔は緊張感で引き攣っていた。さしもの蜘蛛子も、この状況を心から楽しむような歪んだ感性はないらしい。

 それだけ状況が危険だという事と、そんな蜘蛛子が頼もしいという想い。具体的になった危険性と頼れる人の存在は、仁美の気持ちを少しだけ落ち着かせた。乱れていた息も整う。

 今なら、ちゃんと逃げられそうだ。

「兎に角、此処から離れよう。出来るだけ物音は立てないように」

「……はい。分かっています」

「慌てる事はない。あんな大きな『獲物』を捕らえているんだ。他の獲物を見付けたところで、追っては来ないだろう……多分、な」

 蜘蛛子は推測を語りながら、ゆっくりと仁美の背を押す。

 蜘蛛子の言い分は至極尤もなものだ。犠牲になった名も知らない女性は可哀想だと思うが、今は自分達が助かるのを優先するしかない。

 助けられない事を悔しく思いながら、仁美は蜘蛛子の言い分に従ってこの場を後にする事にした。勿論慎重に、ゆっくりと。気付かれても大丈夫な筈だが、刺激しないに越した事はない。

 後退りするように、一歩、一歩と、仁美は黒い靄達から距離を取り――――

 バキッ、と仁美の足下から音が鳴った。

 仁美は恐る恐る、足下を見遣る。そこにあったのは、一つの眼鏡。

 見覚えがある。これは、今食べられているあの人が掛けていた……

「……っ!」

 込み上がる吐き気を、必死に抑える。蜘蛛子ですら正体を知らない、未知の妖怪。何がアレを刺激するか分からない。吐瀉物の臭いで興奮して……そんな事を、あり得ないとは言いきれないのだ。

 隣に立つ蜘蛛子も息を飲む中、仁美はどうにか吐き気を抑え込む。それから改めて人を食べている黒い靄達を見たところ、彼等は未だ自分の食事に夢中な様子。なんとか難を逃れた

「危ない!」

 と安堵した瞬間、蜘蛛子が大きな声で叫びながら、仁美の頭を押し下げた。

 突然の行為に仁美は反応すら出来ず、されるがまま頭を、その頭に引きずられて身体も地面へと押し倒される。ばふんっ、と顔を埋めた落ち葉は独特の臭いを漂わせ、都会人である仁美にはややしんどい刺激を脳に与えた。平時なら、何をするんだと文句の一つでも言うだろう。

 されど此度は違う。

 ガチンっ、と――――まるで顎を・・鳴らすような・・・・・・音が聞こえてきたのだから。

「はっ、あっ……!」

 反射的に空を見上げれば、自分の頭があった場所に『黒い靄』がいた……正確には、黒い靄の頭が。

 ガチン、ガチン、ガチン……ばっくり開いた顎を、物寂しそうに鳴らす黒い靄。その顔に血糊は一滴も付いていない。

 コイツは、女の人を食べていたのとは違う奴だ。

 仁美は説明されずとも、そいつがどういう立場なのかを理解した。弱くて仲間外れにされたのだ。ケダモノらしい、仲間意識の乏しさに反吐が出る……と言いたいところだが、調子に乗ってる場合ではない。

 コイツは腹ぺこだ。そして例え弱かろうが、人を食い殺す妖怪変化の一個体。

 自分人間は、餌に過ぎない。

【かきゃこここここっ】

 奇怪にして現実味のない、子供の笑い声にも似た声を上げながら、黒い靄は仁美へと顔を近付けてきた!

「させる、かぁっ!」

 呆然としている仁美には避けられなかったその『攻撃』は、しかし蜘蛛子の叫びと共に止められる。

 蜘蛛子が、黒い靄に体当たりをお見舞いしたのだ。黒い靄は顔を苦しげに歪め、蜘蛛子に突き飛ばされる。妖怪でありながら、まるで華奢な人間のような転がり方をした。

 一応人間よりは身体能力に優れているのか、黒い靄は軽やかに体勢を立て直す。まるで獣のような機敏さ故、ダメージは少なそうだが……どことなく驚いたような雰囲気を醸していた。まさか反撃してくるとは思わなかったのかも知れない。

「んお? おおっ!? まさか本当に突き飛ばせるとは!?」

 なお、蜘蛛子はもっと驚いている様子だったが。つまり通じると思ってやった攻撃ではないという事。二度目があるとは限らない。

「逃げるぞ!」

「は、はいっ!」

 蜘蛛子の言葉に一も二もなく賛同し、仁美もまた黒い靄から逃げ出した。

【こきゅあここここっ!】

 黒い靄は奇妙な声を上げるや、逃げる仁美達の後を追ってくる。

 外観は人型をしていた黒い靄だが、走り方は獣のそれであった。四つん這いになり、跳ねるような動きで加速してくる。山道など気にも留めず、どんどんスピードを上げてきた。

 犬と追い駆けっこをして勝てるか? 仁美にその自信はない。そして黒い靄は、犬のような速さに達しようとしている。

「せ、先輩っ!? 来てます! 来てます!」

「ぐっ……後ろを見ながら、攻撃を躱せ! 組み付かれたら、無事な方が助ける! それでやり過ごすぞ!」

「んな無茶な!?」

 頼みの蜘蛛子も、行き当たりばったりな作戦を提示するだけ。とはいえ他に案があるかと問われても、何も思い付かない。

 ましてや実際に飛び掛かられたとなれば、蜘蛛子の案を採用するしかなかった。

「きゃあっ!?」

 後ろを振り向いた仁美は、今正に跳んでいた黒い靄と目が合う。反射的にしゃがみ込んで避けると、頭上を通り越した黒い靄は空中でバク転。素早く体勢を立て直すや、仁美へ再突撃してくる。

「ふんっ!」

【かきゅっ!?】

 その顔面に、蜘蛛子は蹴りを放った!

 顔面に深々と靴がめり込み、黒い靄はボールのようにすっ飛ばされる。とはいえ致命傷ではないらしく、即座に立ち上がった。

「こっち、来んなっ!」

 ならばと今度は仁美が、近くに落ちていた石を投げ付ける! 石といっても、拳よりも一回り大きなサイズ。女子供の力であっても、十分凶器となる代物だ。

 立ち上がったばかりの黒い靄に、仁美達の連携を回避する準備はなかった。石は顔面にぶつかり、黒い靄は大きく怯む。余程痛かったのか、ひっくり返って石をぶつけられた顔面を両手で摩っていた。しばらくはそのまま悶えてくれそうな様子である。

「今のうちに逃げるぞ!」

 蜘蛛子の言葉に頷き、仁美は再び蜘蛛子の後を追った。

 どうにか黒い靄を怯ませる事には成功したが、血が出たり、怪我をした様子はない。痛め付けた事で諦めてくれれば良いのだが、もしかすると怒りを買っただけ、という事もあり得る。

 出来るだけ遠くへ、もっと遠くへ逃げなければ、安全になったとは言えない。無我夢中で、仁美は蜘蛛子と共に山の中を走る。下草でズボンが汚れる事も、蜘蛛の巣が頭に引っ掛かるのも、どうでも良い。兎に角今は距離を取るしか――――

 そう考えていた時、ふと感じる。

 森の木々が、密度を増している気がした。下草は少なくなり、足下にある腐葉土がふかふかしていて深みを増していると分かる。獣や鳥の声もよく聞こえてきた。

 まるで、森の奥へと向かっているような。

「せ、先輩! あの、なんか森の奥に、行ってませんか!?」

 そんな筈はない……そう思いながらも堪らず仁美は蜘蛛子を問い質し、

「ああ、向かっているぞ!」

 蜘蛛子は平然と、仁美の違和感を肯定した。

 予感が的中した仁美であるが、全く嬉しくない。逃げ道として、最悪の方向に思えたからだ。

「な、なんでですかぁ!? 早く村まで降りた方が……!」

「さっきの女性、私達が出会った自殺志願者だろう! 奴等は、あの女性の肉を食べていた!」

「そんなの、見れば分かります! だから早く村まで……」

「奴は肉食性の妖怪だが、自分より小さな妖怪ではなく、動物の魂を好んで食べるのかも知れない! それに妖怪だから一般人には姿も見えない……そんな奴等を村に引き連れてみろ!」

 蜘蛛子の言葉で、仁美はハッとする。

 妖怪は普通の人間には見えない。

 見えない危険生物を回避出来るか? 不可能だ。漫画に出てくるような出鱈目超人なら兎も角、ただの人間にそんな事出来る訳がない。

 いや、それだけでは終わらない。たくさんの村人を餌にして、あんな化け物が繁殖し、都市にまで出てきたら……

 人里まで引き連れる事が最低最悪の悪手なのは分かった。しかし、ではどうしたら良いのか。最悪を避けるために、自ら犠牲になれと言うつもりか。

「一つ作戦がある! 兎に角今は森の、山の奥へと向かうんだ!」

 そんな仁美の不安を打ち払うように、蜘蛛子は力強い言葉で励ましてきた。その作戦が何か問い詰めたい気持ちはあるが――――その暇はなさそうだ。

【か、きゃ、きゃ、きゃ、きゃあああああああああっ!】

 背後から、再び不気味な声が聞こえてきたのだから。

「~~~~っ! し、信じますからね!」

「任せろ!」

 仁美は蜘蛛子と共に、森の奥深くへと突き進む。

 振り返れば、黒い靄が猛然と迫っていた。奴が怯んだ隙に全力疾走したつもりだったのに、その努力を嘲笑うかの如くみるみるうちに距離を詰めてくる。

 もう一度迎撃するしかない。覚悟を決めた仁美は後ろを振り向いたまま、そう蜘蛛子に提案しようとした

 が、言えなかった。

 黒い靄が、二匹居る。

 見間違いかと思った。しかしどれだけ凝視しても、瞬きしても、黒い靄の数は減らない。いや、それどころかまた一匹増え、更にもう三匹増えた。一匹だけだった黒い靄が、あっという間に六体だ。新たに増えた黒い靄達はべっとりと赤い体液を纏い、つい先程まで獲物を貪っていた事を物語る。

 ここでようやく、仁美は思い出した。奴等が群れで女性を喰らっていた事を。

 群れが合流してきたのだ。女性を食い尽くし次の獲物を求めてきたのか、はたまた先の奇声は仲間を呼び集めるものか。理由はなんであれ、数的有利がひっくり返される。

 ここまで仁美達が無事だったのは、一匹の黒い靄に二人で対処していたからに他ならない。互いの隙を、数で補ってきた。しかし数で上回れたら、もうどうにもならない。

 どうしたら、どうしたら――――

「きゃっ!?」

 考え事をしていた所為か、後ろばかりを気にしていたからか。足下の根っこに気付かず、仁美は蹴躓いてしまう。気付いた蜘蛛子は立ち止まるや仁美の傍まで駆け寄るが、その間に黒い靄達は仁美達を包囲した。

「せ、先輩……!」

「……いや、すまないね。巻き込んでしまった手前、責任ぐらいは取らせてもらうとしよう。私が喰われている間に逃げるんだ。そしてオオカミを見付けろ。それは送り狼という妖怪で」

「何諦めてるんですか!? なんとか切り抜けてくださいよ!」

「いやいや、なんとかで切り抜けられたら生態系は成立しないよ。これもまた自然の営みというやつだ。そういう意味では、あまりあの妖怪達を嫌わないでやってほしいかな」

 あくまで悪いのは自分だと、蜘蛛子は責任の全てを被ろうとする。転んだのは自分なのに。襲い掛かっているのはあの妖怪なのに。

 人間達の悶着などお構いなしに、黒い靄達はじりじりと距離を詰める。仁美は手近にあった木の棒を掴み、蜘蛛子は警戒しながら仁美を隠すように両手を広げる。

 そして――――



















 森の奥から、ずしん、という足音が聞こえた。



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