正しい関係
三津凛
第1話
「深爪。切り詰める。あなたの愛と肉襞も一緒に」
最初の一行は声に出した。
皆まで読まずとも、それが女同士の性愛を歌ったものであることは分かった。
新学期の陽に晒されて、堂々としている。文化系サークル作品の展示スペースにその詩はあった。
タイトルはそのまま「深爪」だった。
あなたに会える時も、会えない時も爪を切り詰める。
利き手の人差し指と中指は念入りに。
露骨な詩なのに、不思議と惹かれた。何人かの新入生が脇を通り過ぎて行く。
どんな人がこういう詩を書いているんだろう、と思った。やっぱり同性愛者なのだろうか。私は少しだけ、そういう人たちに興味があった。
中学でも高校でも文芸部だった。休みの日は大抵何かを書いた。大学でも文化系のサークルか部活に入ろうとは思ったものの、あまりしっくりきていなかったところで「深爪」と出会った。
プレートを眺めると、「非公認サークル:ピエリア」とあった。私はふうん、とひときわ派手に会誌を配っている公認文芸サークルを眺めた。なんとなく、ああいうところに入るよりも「深爪」を臆面もなく貼りだせるサークルに入る方が面白そうな気がした。周りを見回してもそれらしい学生はいなかった。どうしようかと戸惑っていると、表面が傷だらけの机にサークルの所在を書いた手書きの地図が何枚か置かれていた。ひろはまかずとしの詩を書いた和紙を貼り付けた丸い御影石が重し代わりに乗っている。向かい側では大きな公認文芸サークルがこれ見よがしに詩集を売っていた。
まるで何かの皮肉みたいで私はますます変なサークルだな、と思った。
地図に書いてあった通りの空き教室へ行くと、確かに3人の学生がいた。外から覗いていると、そのうちの1人が気がついてドアを開けた。
「見学ですか?」
「はい」
「ごめんね、特に見せるものは用意してなくて。好き勝手に集まってやってるだけだから」
「……入部してみたいんです」
その人はちょっと驚いたように目を見開いて、振り返った。
「みちる!聞いた?」
みちる、と呼ばれた人は顔をあげて私を見た。痩せていて、あまり性別の香りのしない卵白みたいな人だった。
「聞こえた。……変わってるね、普通なら公認の方に行くのに」
「何かきっかけがあったの?」
応対してくれた女の人が嬉しそうに言う。私は半分以上、みちると呼ばれた人が「深爪」の作者なのではないかと思った。
「深爪……切り詰める」
それまで平坦な表情をしていたみちるが、そこで驚いたように私の方をちゃんと見た。私は初めて恥ずかしくなってきて、俯いた。
「ふうん、そういうこと」
応対した人が妙に納得して、私の肩に手を置いた。そこに、嫉妬の熱のようなものを感じて私は思わずその人を見た。
「私は麻衣子っていうの。みちると2年生。最初は2人でこのサークルを始めたの。半年してあっちにいる笹川が入ってきて、今は3人でやってるわ」
「はい」
笹川が名前を出されて軽く微笑む。女2人の中に男が独りきり。でもそこにはコンクリートを挟むような、無味で乾燥した雰囲気しかなかった。笹川の方も、ポストか電柱を前にしたような視線しか2人には向けていなくて、このサークルが変な男女の熱っぽさとは無縁であることが分かった。
詩の内容については、麻衣子も笹川も触れなかった。
分かるだろう?
とでもいうような暗黙の気配を感じて、私もそれ以上は言わなかった。
「ただ、独りになって好きなことをしてるだけなの。それがたまたま本を読んだり文章を書いたりすることだっただけ、私たちはね」
みちるはやっと柔らかな笑顔を見せながら言った。
「あなたはどうなの?」
「本は好きです……小説を書くことも」
「へぇ、どんなものを書くの?」
笹川が口を挟む。そういう彼は一体どんなものを書くのだろう。
「恋愛ものが多いです……」
「ふうん」
私はみちるの視線に、自分が次第に漉されて純化していくような錯覚を覚えた。彼女の瞳はまるで微細な網のようだ。私はそれに、もっと具体的に言わなければと背中を押された。
「もっと、男性視点で恋愛小説を書いてみたいんですけど」
「そうなんだ」
麻衣子が頷く。
「真面目だね。笹川、相談に乗ってやったら?」
「いやあ、僕は恋愛感情とか性欲がないから駄目だよ。みちるとか麻衣子の方が適任じゃないの?」
ちくりとやり返されて、麻衣子とみちるは顔を見合わせた。麻衣子は目を逸らして、逃げるように今までどんな活動をしてきたのか細かく私に話した。
みちるは知らん顔して、途中で投げ出していた文庫本を広げる。
私はなんとなく、麻衣子はみちるのことが好きなんだと思った。笹川はゲイというほどでもないのだろうけど、女とその体にはあまり興味のないタイプなのかもしれない。
そしてみちるは多分レズビアンなのだ。
爪と一緒に、あなたを捨てた。
深爪するたびに、あなたの愛と、あの肉襞も切り詰める。
そして私も捨てられた。
あなたの指も、深爪だった……。
私には書けやしない、思いつきもしない。嫉妬に似たような仄暗いものが胸に立ち昇る。
もっと、男性視点で恋愛小説を書いてみたい。
男性の視点で女を愛すると、どんな風になるのだろう。私は自分でも驚くほど、その考えに執着し始めた。
非公認ながら、サークルは楽しかった。月に一度は読書会をして課題本の感想を言い合って、その後は大抵飲み会をした。奇数月にはささやかな会誌を作って一人一人が原稿を寄せた。私は5月の会誌から原稿を載せてもらえた。拙いものでも、みんな快く手に取って読んでくれた。
たった4人のこじんまりしたサークルだったから、周りは上級生だけでも私はすぐに馴染めた。中でもみちるとは不思議と話が合って、半年も経つ頃には私は自作の詩や小説をまずはみちるに見せるようになった。
みちるの方も自分のセクシュアリティを隠そうともせず、オープンになった。
「中山可穂っていうレズビアンの作家がいるの。彼女の短編に『深爪』っていうのがあってね、その短編の冒頭に出てくる詩がすごくいいの」
「へぇ、どういうの?」
「切った爪がお前を恋しがる」
みちるは私の反応を探るように見る。
「なんか、ぞっとするような色気のある文ね」
「そう思う?」
「うん」
みちるは嬉しそうに笑う。
「みちるは……女の人が好きなの?」
「そうだよ」
私は少し考えて聞く。
「麻衣子とは付き合ってるの?」
「どうして、そんなこと聞くの?」
「気になったから……多分麻衣子はみちるのことが好きだと思うから」
みちるは黙って私を見た。
「付き合ってないわ、麻衣子とは」
「そう」
私は不思議と安心して頷いた。
「私はあなたのことが好きだから、麻衣子とは付き合ってない」
驚いてみちるを見上げた。みちるは目を逸らさなかった。
同性愛者は、異性愛者よりも恋愛が成就することはそうない。みちるの瞳の強さには、意外にもそうした悲愴さはなかった。
「私も、好き」
多分みちるの言う好きと私の好きは微妙に違う。私には興味があった。女はどんな風に女を抱くのか。それを通して何か新しいことが分かるのではないか。
ここ最近は小説に行き詰っていた。どうしても異性視点が掴めない。頭の中の言葉が、血の通った文章に翻訳されない。
女目線の恋愛から脱して、男目線の恋愛小説を書いてみたかった。その切符を握る女性として、私はみちるに興味があった。そして、好きだったのだ。
みちるが静かにこちらに手を伸ばす。触れられて嫌悪感はなかった。唇が静かに首に触れる。温かく優しい感触だった。身体の芯が甘くなる。
私もそっとみちるの髪に触れた。少し癖っ毛で、ふわふわとしていた。猫みたいだ、と私は思った。可愛いとさえ、思った。
私とみちるは静かに付き合った。サークルの時はこれまでと変わらない距離感を守った。麻衣子は気づいていないようだった。2人がくっついていても、私はまるで嫉妬を抱かなかった。
いつかは戻るものだから。
そんな思いがあったのかもしれない。私はレズビアンじゃない、同性愛者じゃない。
大学が休みの日はデートをした。でもそれは、よくある女友達との遊びとそう変わらない気がした。
やっぱりセックスがなければ、特別なものは感じられない。
誘ったのは私の方からだった。
「みちるとしたい」
みちるは少し驚いたようだった。それでも頷いて、私をホテルに連れて行ってくれた。
私の動機は不純だったと思う。みちるのことは好きだ。でもその好きは、みちるが私に言った好きとは違う。
純粋な興味、自分の糧となるだろう経験への愛情だった。
女と唇を重ねたり、肌を合わせることへの生理的な嫌悪はなかった。
みちるは女の私から見ても綺麗だった。身体の輪郭は細く繊細なのに、胸や尻にはしっとりと量感があった。みちるは私の肌も露わにしていった。始めに私たちは裸で抱き合った。重なるお互いの胸の柔らかさと、乳首の硬さ、絡まった脚と内腿のこもった熱が劣情をかきたてる。
みちるはその熱を確かめるように目を閉じたまま、しばらく動かなかった。
どちらかが男だったら、我慢できずにこの柔肌に乱暴に唇を這わせただろうか。みちるの指は静かに、それでも確信を持ってやってきた。
男となら、したことがある。でも女に抱かれたことも、抱いたこともない。この地平から、一体何が見えるのだろう。
みちるが濡れた身体の奥を探る。私は2つの熱情にかき回されて吐息を吐く。
みちるに導かれた後で、私はそっと彼女に折り重なった。これまでとは違う上からの景色に、それだけで心が震えた。
男はどんな風に女を目の当たりにするのだろう。不謹慎だとは分かっていた。それでも、やめられない。
戸惑いながらもみちるの唇を割って、口の中をくすぐった。以前男にされたことを思い出しながら、愛撫をしていく。目を閉じて乳首を吸うと、みちるは赤ん坊のように鳴いた。身体の奥で、一度冷えたはずの炎が再び盛り返してくるのを感じた。
女の喘ぎ声は媚薬みたいだ。私はためらうことなくみちるの脚を割った。指を挿れると、みちるは微かに呻いた。一番奥の、不可侵な存在を突いているような錯覚を覚える。
男って、こんな感じなのかな。
私は興奮しながらもそんなことを同時に思った。みちるはあくまでも、触媒みたいなものだった。
みちるが全身で締め付ける。
「すごい、すごい」
思わず私は叫ぶ。
あと何度この体験をすれば男目線を得られるだろう。言葉にできるだろう。
私は途中から、そのことばかりを考えてみちるを抱いた。
それから汗だくのまま、私たちは眠った。
「男ってこんな風な気持ちなのかな」
目覚めた後で、私は思わず言ってしまった。
「どういう意味?」
みちるは微かに笑って言う。
「女同士ですると、男目線のセックスとか恋愛が分かるんじゃないかと思ったの」
そこでみちるは固まった。絡ませた腕や脚を解いて、私を見る。
「そういえば前に男目線の恋愛小説を書きたいって、言ってたよね……だから、私としたの?付き合ったの?」
詰問する調子に、私は唾を飲む。
「……それも、あるかな」
嘘だった。改めて言葉にされて突きつけられると、「それしか」なかった。
私は男の気持ちを知りたい、男目線のセックスを知ってみたかった。みちるはそのための、空から降ってきた触媒のようなものだった。
みちるは全てを見抜いて、悟った。
「それはものすごく、傲慢ね」
みちるは嫌悪と怒りを隠さずに私を見る。
「……うん、不謹慎なのは……」
「いや、不謹慎とかそういうことじゃなくてさ」
厄介な蝮でも目の当たりにしたような瞳がそこにはあった。私は何が彼女の逆鱗に触れたのだろうと、焦った。
「同性愛者って、あんたたち異性愛者のためのエンターテイメントかなんかなの?経験のためのサンプルかなんかなの?ふざけんな」
「違う、私は」
「何が違うの。男目線で、セックスしたいから私としただけ。恋愛ごっこも全部そのため。馬鹿にしてるなんてレベルじゃない、傲慢だよ」
先ほどの甘い雰囲気なんか消し飛んで、みちるははりねずみが針を逆立てるように怒りをぶつけてくる。
そして彼女は裁くように私に言った。
「あんたはどこまで行っても、結局は安全パイにいる異性愛者だよ。同性愛者を嫌う異性愛者よりも、最も卑怯で傲慢な異性愛者。私はあんたのためのエンターテイメントじゃない!」
私は言葉を失って、みちるをただ見つめた。みちるはもう私のことは見ずに手早く服を着始めた。汗ばんだ肌が、まるで拒むように服に覆われていくのを私は茫然として見送った。
「……二度と、こんなことしないでね」
みちるは声を震わせることもなく、淡々と言った。それがかえって彼女の怒りと哀しさの深さを露わにしているようだった。
何がいけなかったのだろう。
私はみちるのことを理解していたのに。セックスまでしてあげたのに。
みちるは私を見ずに部屋を出ていった。男に見捨てられた時よりも、私は惨めさを感じた。
私の中に残るのは、どこまで行っても女としての戸惑いと哀しさだけだった。
空っぽになったシーツの皺が悲愴さを煽る。私は裸のまま膝を抱えた。
そのまま独りで、夜を明かした。
私はあの後、「ピエリア」に顔を見せなくなった。みちるは何も言って来なかった。初めから私なんていなかったみたいに、廊下ですれ違っても一瞥すらよこさなかった。
私は2年生に進級したのを機に、公認文芸サークルに入った。外見は会誌や詩集や短編集を売るほど華やかなのに、入ってみれば嫉妬や足の引っ張り合いばかりだった。部長の袴田は文章はうまいけれど、誰かの後追いを見せられているようでみちるのような惹かれるものはなかった。
そして新学期の陽が差す頃に、「ピエリア」はまた堂々と公認サークルの真ん前で詩集を展示し始めた。あのことがあってからもう1年近くが経っていた。久しぶりに、みちるをまじまじと見た。向こうは私に気がつかない。どれほど書いても、結局は部長とその周辺の太鼓持ちやお気に入りのものしか会誌には載せられない。どんなに拙いものでも、気前よく刷っていたみちると「ピエリア」の雰囲気を懐かしいとさえ思った。
でも私はもう、あそこには戻れないのだ。みちるは私に気がつかない。その他大勢になってしまった私の存在なんて初めから知らなかったのだ。
みちるは麻衣子や笹川と何か話したあと、ちょっと展示された詩集を読み返してからどこかへ消えていった。何も変わらない3人だった。麻衣子はまだみちるのことが好きなようだったし、笹川も女の子には興味がなさそうだった。
私たちのサークルにはひっきりなしに人が来る。SNSでの宣伝も一役買っているのか、去年よりも人が多いと先輩たちは嬉しそうだった。
私はなんとなく馴染めないものを感じて、そっと抜け出した。人波に乗って、「ピエリア」の詩集を眺める。
「正しい関係」
真っ先に飛び込んできたのは、みちるの書いた詩だった。
わたしたちはまるで、裁判官だ。
わたしを裁くな、でもお前は裁く。
国民を1人残らず処刑し尽くしたまま、議事堂に虚しく座る独裁者。
独りで眺める友人同士。
独りで眺める家族。
独りで眺める星。
正しい関係。
ダイヤの価値の分からない蛮族に、ダイヤの価値を説く。
愛をかえりみない芸術家に、愛を求める。
正しい関係。
わたしも裁いて、裁かれる。
正しい関係に。
一瞬だけ雑音が遠のいた。
それでも音はすぐに帰ってきた。私は自分を撫でる。
大丈夫、私のことじゃない。
振り返ってみた。ひときわ人波が膨らんだように見える。私の居場所はあそこにある。
そう思って眺めると、みちるの言葉は変な強がりにも捻くれにも見えてきた。
なんて、自意識過剰な人だったのだろう。
私は彼女を理解してあげた。セックスまでしてあげた。
それの何があんなに責められなければならなかったのだろう。
最初に裁いたのはみちるの方だ。
微かに理不尽な怒りではないかと、何かが私の奥で咎め立てた。
それでも私は無理やり振り向いて、公認サークルの渦の中に飛び込んで行く。
私は間違ってなんかない。
結局男目線を意識した恋愛小説は、中途半端なまま投げ出していた。男目線がなんなのか、まだ判然しなかった。
いつ書きあげられるかは、分からない。
正しい関係 三津凛 @mitsurin12
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