【文フリ出展作品サンプル】ドクター・シークの鼠狩り

蒼城ルオ

第1章

 この街の真の支配者は、鼠だろう。ついそんな皮肉が思い浮かぶ冬の到来間近のロンドンは、まさしく霧雨と小動物と共にある。今日も今日とて真っ直ぐに撫で付けられる気などない自身の髪を物憂げに見やって、ウィリアムは差し向かいに座る友人へと謝った。


「悪いねハル、わざわざ出てきてもらったのに、目的地に着く前に一泊してもらうことになっちゃって」

「構わないよ。向こうでの仕事で突然の宿泊なんてよくあることだし」

「それもそうだ」


 大英帝国の首都の一部とは名ばかりの、地図上ならばまさに境界線が引かれているような場所に立つ宿の食堂。ハル、と呼びかけた薄藍の瞳の青年は、およそ不平不満をその口の端に載せたことなどなさそうな穏やかさを保ったまま、机の下でうろつく折れ耳の白猫へと落としていた視線を此方に戻して笑う。


「ウィルこそ、僕の分まで宿泊費出して、余計な出費だったんじゃないかい?」

「君もすっかり田舎で所帯じみたね。これくらい経費で落とすさ」

「上司殿の溜息が浮かぶよ」


 彼にとって、ウィリアムの上司は見た目通り生真面目一辺倒の男に見えているらしい。遭遇は一度きり、しかもお仕着せの挨拶をしただけともあればさもありなんだ。敢えてそこには言及せず、ざっと目を通しただけの新聞を渡す。一面に踊る銀行強盗騒ぎ――半月おきに起こる騒ぎで、二件目から新聞で報じられるようになった――の見出しを彼が追った後、広げられた紙面の上に猫が飛び乗って丸まった。


「こら」


 叱責の声は甘い。これは読み終わるまで相当時間がかかるだろうなと踏んだウィリアムは、当節めっきり人気がないらしい珈琲に口をつける。既に食事は済ませており客足は賑わっているが、チップを多めに払った人間に宿の人間は寛大だ。食後の飲み物を殊更にゆっくり飲み干しても苦情は起きない。市場からここまで出稼ぎよろしく各々の売り物を持ってきた少年少女の姿を眺めながら、のんびりと味わう。帽子を被った少年が幼子をからかい付きまとう姿でさえ愛嬌があるように見える。

 不意の怒声は、彼らからは少し離れた場所から起きた。警戒態勢をとった猫を落ち着かせ、その上で新聞が破れていないか確認していた友は、騒ぎの出所が分からなかったらしい。肩を叩き、指で示してやる。


「ハル、あれだ」


 二人の机から更に三つほど机を挟んだ先、子供が小銭を盗んだと男に難癖をつけられていた。男は身なりからして下級貴族、子供はこの宿に出入りしている下働きの者に見える。よくある小競り合いであり、余所者が介入しても拗れることがほとんどだ。少年たちが遠巻きに眺め、大人たちは耳をそばだてる。彼らが考えることはみな同じ、いかにして自分達が巻き込まれないように立ち回るかである。

 それら全てを見渡した後、ウィリアムは友へと視線を移す。そこには、唇をきっと引き結ぶ姿があった。助けたいと、顔にありありと書いてある。軽く息をついて席を立つ。


「時間稼ぎしてくるから、その間に君の『旅先での友人』に協力要請しなよ」


 はっと顔をこちらに向けた友人に、学生時代のハンドサインで万事請け負ったと示す。俗世をろくに知らなかった当時の面影が色濃く残った表情が、破顔のそれに変わった。


「ありがとう。任せたよ、ウィル」


 僅かに加わった憂いには気づかないふりをしてひらりと手を振る。そのまま、問題の卓へと近づいた。背後で友人の視線が宿屋全体を見渡す気配、この距離となっては何かを呟いているとしか分からない、聞きなれた囁き声。


「ちょっと失礼。何の騒ぎだい?」


 努めて友好的に声をかけると、返ってきたのは地方の訛りの残る怒声だった。これは北部のほうだっただろうか。即座に地方まで割り出しどこの家の者か絞りこめる者がいることは知っているが、ウィリアムにはそんな芸当は出来ない。まずは話を拝聴するだけだ。


「こいつが俺の釣り銭をかすめ取りやがったんだ」

「釣り銭ってことはシリング? ペンス?」

「こんな宿にシリング硬貨が釣りになるようなもんあってたまるか。3ペンスだよ」

「ふむ」


 そこまで目くじらを立てずとも、とも思うが、3ペンスあればウィスキーの1杯は買える。しかつめらしい顔を保ち、ウィリアムは男に提案してみせた。


「そのときの動作、申し訳ないけどもう一回やって見せてくれる? 昔似たような子とっ捕まえたことがあってさ、二回やらせるとボロが出るんだよねえ」


 声まで重々しくしては無駄に威圧がかかるとのんびりした口調を装ったが、それでも子供の肩が跳ねた。男もウィリアムも幼子からしてみれば見上げるような背の高さだ、二人がかりで疑われれば無罪でも恐怖が先にくるのだろう。ウィリアムは男の了解が取れると屈み込み、子供と視線を合わせて言い聞かせた。


「大丈夫。君がやってないなら何も起きないよ」


 だーいじょうぶ、と間延びさせながら繰り返せば、どうにか最低限の緊張と警戒が解ける。そのままぎこちなくも一幕の再演が始まった。食事を終え席を立った男に、雑貨の類は要らないかと声をかける子供。籠を覗き込み、マッチを見つけて財布を開く。この間、ウィリアムと男が別の角度から見ているため、第三者は入り込めない。

 人ならば。

 緊迫する空気の中、にゃあん、と白猫が鳴く。動物嫌いなのか弱者全てへの気性下か男が眉を寄せる。


「こいつ、どこから来て、……って、え?」


 ぱたぱたと尻尾を振り、その場でくるくると回る猫。中心にきらりと光る硬貨が3つ。1ペンス硬貨だ。


「どうやらこの猫が落ちた硬貨を持って行ってたみたいだね。とんだ悪戯っ子だ」


 喉をくすぐってやりながら告げれば、子供は控えめに歓声をあげ、男はきまり悪そうに視線を泳がせた。即座に非を認めるのは名ばかりの貴族の矜持に関わるのだろう。結局、ウィリアムにだけ謝罪するとひったくるように床から硬貨を拾い、大股で出ていく。入れ替わりに近づく足音に、白猫が甘い声をあげて駆け出した。振り向かないまま、その革靴の主に声をかける。


「流石だね、ハル」

「ウィルが彼の気を逸らしてくれていたからだよ、お疲れ様」


 まぁね、と謙遜せずに軽く伸びをして視線を投げる。ごろごろと喉を鳴らす音、動物というものは基本的に初対面の存在に触れられることをひどく嫌がるはずなのだが、すっかり友人に懐いている。先の子供が駆け寄り、彼らを見上げた。


「お兄ちゃん達が猫さんに返してって言ってくれたの?」

「うーん、そうなるかな」


 曖昧な返事に、周囲の誰もが子供向けの方便だと思うだろう。大方貴族様が自分の硬貨を足元に落としての一芝居、偶然猫が知らせる形になっただけで本来は後から近づいた男が知らせる算段だったのだろうと。




 

 誰が信じるだろうか。猫が人語を解して動いたなど。

 あまつさえ目の前の青年――ハルことハロルドが、猫を始めとしたあらゆる動物と会話ができる、など。





 正確には、自分と友が話しているときと全く同等の感覚ではないらしい。ウィリアムの尊敬すべき友人殿が語るところによると、例えば他国の人間と出会い、身振り手振りや共通する言語をもとに互いの母語の意味をとるような作業の、反復の賜物によるものだそうだ。そうは言っても、人間とそれ以外の動物ではまるで違うと思うのだが、ハロルドの中ではその区別はないらしい。そしてウィリアムは、過程がどうあれハロルドが汲み取ったものは決して的外れなものではないのだと、信頼するだけの付き合いがある。

 だからこそ、子供の無邪気で他愛無い賛美と感謝を丁寧に受け取るハロルドの視線を受けると、そっと彼らから離れ、この場で唯一同じように気配を殺して動いていた存在に近づく。


「良かったなあ、少年?」

「な、何だよ」


 目深に被った帽子が印象的な少年が、後ずさる。


「盗みやるならもうちょっとスマートにやりな。あの子も僕らもいなかったらぶん殴られるじゃ済まなかったよ」


 あの場は意表をつく形でどうにか乗り切ったが、そもそも白猫があの机から二人のもとに来たのはかなり前からだ。ハロルドの財布から硬貨を出して運ばせただけ。

 そして犯行は近くにいた者にしか出来ない。件の二人が売り買いのやりとりをしている際に近くにいたのは、この帽子を被った少年だ。ウィリアムはそれを最初から見ていた。見逃したのはハロルドが、騒ぎの最中の少年の表情だけで大体の事情を看破し、猫と話しながら彼の動向を逐一観察した上で、彼を沙汰の対象にしていなかったからだ。


「はっ、証拠はあんのか証拠は!」


 が、どれもウィリアムの胸中の話でしかなく、証拠になどなりはしない。だから。


「ないよ。でもね」


 ぐっと顔を近づけ、少しばかり脅してやる。


「あの猫は覚えてるよ。知ってる? 東の国、中国では猫は七代先まで恨みを忘れないんだって」


 仔猫や飼い主に災いをもたらした者を、どこまでも追いかけ追いつめて、同じだけの不幸を振りまく。少年が息をのんで白猫を見つめ、ウィリアムを見上げた。ここぞとばかりに張り付けたお仕着せの笑顔は、何より空恐ろしく見えるだろう。


「ま、気を付けて」


 圧を霧散させ、友人のもとに戻る。駆け出した足音を気にするつもりはない。件の子から猫が食べられるものを買いそのまま白猫に与えていたらしいハロルドは、申し訳なさそうな視線を向けてきた。


「悪役任せてごめん」

「いいっていいって、汚れ仕事は僕の役目だ、いつものことだろ。しかし君の動物たらしも相変わらずだなあ、行きずりの相手でもお構いなしか」

「語弊のある言い方はやめてくれないか」


 わざとらしく険を宿した表情を向けられるが、友人の顔つきは人を脅すのに向いていない。それこそ、そこまで踏まえた上での役割分担を始めて、もう久しく時間が過ぎ去っているのだから。溝浚いも同然の仕事でも、この霧の都で共に向き合ってくれると信用に足るほどに。だからウィリアムも大仰に肩をすくめて謝り、歩を進める。


「ごめんごめん。さ、急ごう。『鼠狩り』だよ、ハル」

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