凪②

 いつまで経ってもあの光景が忘れられなかった。高架下でなぜか空を見上げて微笑んでいる彼女の、その表情がいつまでも脳裏にこびりついて離れることがなかった。

 気を抜いてしまえば、いつもは仏頂面な彼女の微笑みを思い出して赤面していた。その感情が恋だということに気がつくのにも時間はかからなかったし、初めての恋という感情に戸惑うより安心感が大きかったのを覚えている。

 周りのみんな色恋沙汰に浮かれきって、自分だけが地面に取り残されたような焦燥感に駆られているのも感じていた。


 だがなんと恋とはめんどくさいものなのだろうか、毎日その人の表情を思い浮かべては赤面し、その人が異性と親しげに話しているのを見かけると炎に焼かれるような嫉妬に駆られる。

 彼女の仕草ひとつひとつに惑わされ、そして惑わされていることを嬉しく思う自分にだんだんと腹が立ってきた頃合いだった。もう嫌だ、早くこの感情にけりをつけよう。結局は逃げたのだろうか、恋というなんとも末恐ろしい感情から逃げたのだろうか。

 正直にいえば凪と彼女には接点がなかった。クラスで話すかどうかと言われれば話さないし、趣味も違った。

 人間、共通点を見出して好きになることを世間一般的に恋と呼ぶらしいが、生憎、凪と彼女には共通点を見いだすことはできなかった。ならばこの感情はなんと表現できるのだろうか。相違点を見出しても尚、好きであることは世間一般的に愛だと言われているらしいが、もしかすると凪のその感情は愛と表現できるものだったのだろうか。


 きっとこの感情の答えは凪も知らない。


***


 弾んだ息、大きく荒げた肩から熱が逃げるような、そんな錯覚を覚えている。久しぶりの過度な運動で喉を焼くような吐き気と霞みがかった視界をふり切るために水道水を飲んだ。もしかすると水道水を飲んだのはその気持ち悪い発作を抑える為だけではないのかもしれない。その証拠にいくら水道水を飲んでも体が渇きを訴えかけていた。

 体が、逃げているのだ。これから直面する事態と、それからのことを想像してしまい、怖気付いて尻尾巻いて逃げ出そうとしているのだ。なんと弱気な事だろう。しかし、逆にそう自覚してしまえばあとは楽だった。上向きに固定された蛇口から重力によって滴る滝の下に頭を差し込む。ジュワッ、と溜め込んでいた熱が逃げるような錯覚の後に開きっぱなしになっていた汗腺が収縮するのを感じていた。

 ちょっと冷静になろう。

 そう考えると不思議と胸の内に蔓延っていた恐怖は消えて、ぽっかりと空いたその隙間に冷涼な空気が入り込む。弾んだ息も、荒げた肩も、いつの間にか治っていた。ドクン、と大きく心臓を打ち付けるような拍動もいまでは心地いいほどに穏やかだ。

 大きく息を吐いて、濡れた髪を拭い、体育館へと向かった。




「それで、話って?」


 昼下がり、ごうごうと唸る自販機の駆動音が五月蝿かった。彼女はブレザーの下にセーターを着込んでかじかんだ手の中にコーンポタージュの缶を包み込んでいる。見ている対象の深層まで探ろうと覗いた、無機質的な目が印象的な彼女だ。


「ちょっと伝えたいことが」


 凪は少し上ずった声で言った。緊張している。そう自覚して、余計に頬が強張るのを実感していた。彼女が言葉の続きを促すようにこくりと頷いた。


 そうだ、もう逃げ道はないのだ。もう、正直に言えばいい。

 そう思って大きく息を吸い込んで。


「あの、えっと」


 絶望が滲んでくる。なんといじらしい、なんとも情けない男なのだろうか。結局のところ、彼女に真意を伝えることが恐ろしくて、逃げ道を塞いで臨んでいたはずなのに、それでもしどろもどろになりながら逃げ道を探そうとしている。

 声を大にして言いたい、はずなのに、喉は一向に声を出させてくれない。そんなジレンマに駆られながら、徐々に諦念が心を満たしていくのを感じていた。自然と顔が俯いていく、情けない。俺は情けない男だ。


「あのさ」


 彼女の声が聞こえた。その声はやはりなんら動じてないようにも感じられた。男子がこんな赤面しながら女子を呼び出すなど、そんなことしかないはずなのに、彼女は動じない。そんな彼女に羨望すら覚えた。


「その気持ちは本当なの?」

「え?」


 彼女の問いがあまりにも意外で、素っ頓狂な返答を返してしまう。凪が、彼女に抱いている感情が「本当」なのか、それはあまりに明白だと、当たり前だと返したかった。返せない自分がいた。

 本当に俺は彼女を好きなのだろうか。もしかすると、本当は違うのかもしれない。この感情は恋ではないのかもしれない。


「私は本当が欲しいよ。決して偽物なんかじゃなく、純粋な本当がさ」


 彼女が両手に包んでいたコーンポタージュを凪に向かって投げる。それは放物線を描いて、凪の手に収まる。まだ余熱を残した缶が生暖かかった、それは彼女の熱であるかもしれないし、ただの缶が帯びた熱だったのかもしれない。


「だからもうちょっと考えて、そして確信してきてよ。今のあなたは決意が足らない」

「もし、俺の気持ちが本当なら?」


 全く用意していなかった問い、口からポロリとこぼれ落ちるように漏れ出ていた。彼女の無機質的な瞳が、一瞬だけ人間味に揺れるのを視認できた。しかしその瞳に写った感情を読み解くにはあまりに僅かだった。彼女の真意を知りたかった凪は少し残念な気持ちになる。


 彼女は真一文字に結んでいた唇をふと緩める。少し白っぽくなっていた唇が、熱を取り戻したかのように色鮮やかな桃色に染まる。


 凪に背を向ける、その瞬間、とてつもない寂寥が心を埋めたが、しかしその寂寥も最もたやすく吹き飛ばされる。

 風が吹いたような気がした。


 そして彼女は笑いながらこう言った。高架下の、笑みだった。


「さぁね、教えてあげない」


風は吹く。穏やかに、猛々しく、疾風怒濤と風は吹く。

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疾風 ネギま馬 @negima6531

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