渚②


 走っていた。


 風が耳を通り抜けていく、ふぉんふぉんと間抜けな音が鼓膜を震わせていてとても不快だった。地面を叩く足がいつからか痛みを訴え始めて、走るのがとても億劫に感じてしまう。振る腕も、張り付くような倦怠感がなかなか剥がれてくれずにただぶらぶらさせるだけになってしまいそうなところをすんで堪えて、我儘な自分の中の怠惰を叱咤するように大きく振り上げていた。


 いつからか走ることを止めること自体、頭の中になかった。

 否、やめられないのだ。


 やめられない理由を述べるのならば「ただただ愚かな闘争心とただただ馬鹿らしい自尊心」が原因なのだろう。そう思いながら渚は隣をただ走る少年を横目に見ていた。


 残り1kmを切っていた。しかし、渚が勝手にけしかけた勝負の行方は平行線。互角の勝負を繰り広げていた。この体力馬鹿め、と罵声を飛ばしたくなる気持ちを堪えて走ることに全精力を注いだ。

 そうしなければ俺の体力がゴールする前に底を尽きてしまうのは明確な事実で、もう尽きているのではないかと疑うほどに渚のふくらはぎと太ももは乳酸による破壊活動の行く先、鈍く重くなるような鈍痛を訴えていた。


 永遠と続くかと思えた上り坂も、いつしか頂上まで登り切り、あとは下るだけとなった一直線。視界に残り300mを告げるガソリンスタンドの看板が入った。


 まずい、酸欠で鈍く回らなくなった頭でそう考えた時にはもう遅かった。


 渚の隣で猛然と猛々しく、強風が吹き荒れた。隣の奴は荒々しく筋肉を酷使し、そのペースを強制的にあげて、瞬く間に渚を追い抜いていく。


 負けるのか。


 そう考えてしまう。もう、体力の限界だった。


 体力の限界を超えて、やけに悲観的になった精神をやや強引に引き摺ってくれた闘争心も、負けたくなかった自尊心も折れかけていた。

 折れかけて、ボロボロになった体を引き摺る理由も、こんな苦痛しかない授業を真面目に受ける意味も、今となっては消え去って、ただ漠然と何をしていたのだろうかと虚しくなる虚無だけが頬を撫でていた。


 なぜ俺は、俺はこんなにも頑張っていたのだろうか。


 空を見上げる。先ほどと変わらぬ雲が、先ほどと変わらぬ青空が渚を見下ろすようにただ君臨している。自分を俯瞰的に見られていることを意識するのが嫌で、正面を向いた。正面を向いたらそこにはあいつがいる。手を伸ばせば届くのだろうか。


 一つの答えに達した。何が何でもあいつを越してやる。


 嫌でも振り向かせて、すぐ後ろにいる俺の存在を思い知らせてやって、瞠目させてやるのだ。


 一度落ちたペースを上げるのは困難を極めた。さらにギアをあげなければいかず、膝が軋むような感覚にとらわれる。

 もう、前を見る余裕すらなかった。ただ電柱にぶつからないことだけを願いながら、素早くスクロールしていく地面を見下ろしながら今の自分が出せる最速で走っていた。


 いつの間にかガソリンスタンドを通り過ぎて、皆がペースを上げ始めるところ。渚はそのスピードをさらに上げた。上げなければ彼に追いつくことはできないのだと理解していた。


 記録員が急かすようにカウントを叫んでいる声が聞こえてきた。もうすぐ、もうすぐなのだ。走れ、追いつけ、そして。


 追い抜け!!









「41分56秒」


 それが俺の残した記録だった。立ち止まって息をすることも叶わず、ただただ重力に任せて倒れ込んだ。肩を大きく荒げながら息をする。新鮮な空気が体を循環し、それを補助するように心臓がドクンと大きく震えている。心なしかそのペースも普段の3倍ほど早く感じていた。

 倒れこんだまま反転し、渚を俯瞰していた青空を改めて見上げて見た。青空は抜けるように底なしで、体力馬鹿のあいつに似ている。底なしの体力と、底なしの青空。彼は屈託のない笑顔で皆を笑わせるクラスの中心だった。


 そんな彼に俺は。


 風がさわさわと揺れている。風は冬の冷たさを運んでくる。冬の熱を運んでくる。


「次は、次は負けないから」


 通り過ぎた彼の言葉が冷たく鼓膜を震わせた。その声の裏に、荒くなった息が重なっていて少し聞き取りづらかった。彼自身も余裕がないようだった。


「俺に勝てるわけないだろ」


 嬉しくてそう言った後に激しく後悔した。そういえば喧嘩をしている途中だったのだ。彼はこんなことを言われて不快に思わないだろうか。

 そう考えていたことは、振り向きざまの彼の表情とその言葉によって杞憂に終わる。


「はぁ? たった鼻差で勝ったくせに。調子乗るなよ」


 彼は屈託のない笑顔で、そう言っていた。


***


 風は冬の熱を運んでくる。冷たくて、焼けるように暑い熱だった。


 風は止まない。止むことを知らない。


 風は、凪ぐことを知らぬままに、二人の間を抜けて、足首に絡みついてくる。


 その風を鬱陶しいと思いながらも、ただありのままにその鬱陶しさを享受しようと考えている。

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