煙草屋の小学生

白田エマ

 学校を休みがちな女の子だった。


 僕が通っていた小学校は2年ごとにクラス替えをしていた。その、初めてのクラス替えで同じクラスになったのが、その女の子だった。よく笑う子で、肩口まで伸びた栗色の癖っ毛を低めの位置で結わえて、前髪はピンで留めていたのを憶えている。僕の周りでは珍しく、ふわりとした淡い色のワンピースをよく着ていたように思う。なのに、僕は昔からそうなのだが、名前を思い出せない。その小学校の卒業アルバムを持っていないのだから、もう名前を知る術は同窓生に聞くことぐらいだが、生憎、僕の親は転勤族だったので小学校時代の友人と連絡を取る手段が無い。だから、彼女は彼女としか呼べない。


 3年生になったはじめの頃は、彼女も幾分調子が良かったのだろうか、毎日学校に来ていたような気がする。その頃は確か席が近く、班活動も共にしていた。


 僕の小学校は班ごとに掃除割り当てがされていて、その中でも1番に不人気だったのは教室掃除だった。教室の後ろに机を運び、床を掃き、濡れ雑巾で床を拭き、また乾拭きをする。そしてまた机を前に運び、同じことを繰り返す。また、そんな教室掃除の中でも珍しく人気職だったのは黒板掃除だった。うわんうわんと唸る黒板消しクリーナーを好きにできる、というだけで小学生男児が奪い合うのには十分な理由だ。そして、教室掃除にはたまに臨時イベントがある。黒板消しクリーナー自体の掃除であったり、折れた鉛筆の芯を誰かや机の脚が踏むことによる床汚れを消しゴムで消す作業だったりするうち、僕が彼女との思い出として憶えているのは窓掃除だった。とは言っても、彼女と一緒に窓掃除をしたわけではなかったのだが。



 1ヶ月に1回あるかないかの窓掃除。担当も少人数で、僕を含め男子4人だけだった。やってみたかったのだろう、1人の男子が、下段の窓だけでは物足りなくなり、椅子を足場に上段の窓を掃除し始めた。それ自体は別にいいことだと思ったので、特に誰も咎めず任せていた。彼は黙々と濡れ雑巾と乾いた雑巾を駆使して掃除をしていた。しかし、その下では男子が2人、教室に1つしかない、窓拭き専用のワイパーの様なものを取り合っていた。その時点で嫌な予感がして、僕は教室内で椅子の上に立って掃除していた彼の正面、ベランダから立ち去って、彼らの横で掃除を続けたのだが、案の定、取り合っていた片割れが椅子の上の彼にぶつかり、彼は体を支えるために肘をついた。けれどそこはガラスだった。


「うわぁ」


 そんな間抜けな声とともにガッシャーンという嫌なガラスの割れる音がした。すぐに先生が駆けつけて、ガラスに肘を突っ込んだ彼の容態を確認した。教室にいた誰もが大怪我を想像したが、彼は意外にも浅く切っただけの様で、血は出ていたが、大きな出血には至ってないようだった。それでも、気弱そうな女の子は怖かったのだろう、泣いているし、僕らも総じて神妙な面持ちだった。先生は怪我をした彼を保健室に連れて行き、この事件の主犯副犯2人を廊下に出るように言い、他の児童は散らばったガラスの破片が危ないので掃除を中断して早く帰る様に言った。


 そうして帰る準備を始めようとした頃、ようやく僕は鋭い痛みを感じた。ガラスの破片が掠めたのだろう、浅い切り傷が左腕に見えた。やってしまったな、と思った矢先に近くにいた彼女がそれに気づいたのだ。


「大丈夫?」


 そう彼女は言って、僕に絆創膏を渡してくれた。その絆創膏はプリキュアがプリントされた、いかにも女児っぽいもので、僕は嫌だったのだが、彼女の親切を無下にすることも出来ずに受け取って固まっていると、彼女は僕が自分でつけられないほどに痛がっているのだと思ったらしく、


「つけてあげよっか」


 そう言って僕の左腕を取り、手際は良くなかったが、キャラのプリントがなされたピンク色の絆創膏を貼り付けた。すると彼女は得意満面といった顔で僕を見てくるので、気恥ずかしい思いを押さえ付けて、ありがとう、と言った。けれど、その日1日は左腕がそわそわして仕方がなかった。



──────────────────────────────────────



 彼女に関する記憶を遡ると、次に来るのは恐らく、その半年後、秋頃だろうか。

 その頃になると、彼女はあまり学校に来なくなっていた。うちの親が聞いた話によると酷い喘息のようなものだということだった。


 彼女の家は僕の通学路の途中にあった。けれど、普通であれば、休んだ人のプリントの配達は仲の良い同性に任せるところではあったが、僕と彼女はあまり同級生が住んでいない、繁華街の方に家があったから、必然と僕が配達を担うことになった。


 初めての配達のことをよく憶えている。繁華街の一角にある彼女の家は煙草屋だった。一階が売り場と、その奥に居間で二階が寝間らしく、彼女は二階の通りに面した窓からシャボン玉を吹いていたのだ。


「おーい、学校のプリント、持ってきたけど」


 僕がそう大声で呼ぶと彼女はシャボン玉を吹いていたのを見られて恥ずかしかったのか、慌てて片付け、今行くから待ってて、と言い、見当たらない玄関から出て来るのかと思えば、商いをする方から顔を出してきた。だから、そこは煙草を買いに来たランドセルの小学生男児と、煙草を売りつけるパジャマ姿の小学生女児という奇怪な様相をしていたことだろう。


「ごめんね、ありがとう」


 彼女は病人といった出で立ちで、ただでさえ白い肌はさらに白んで、髪も下ろしてぼさっとしていたけれど、今付けたのだろうか、ピンは付いていた。


「ううん、いいよ」


「そう? これからも持って来てもらうことになるかもしれないけど、本当ごめんね」


 と申し訳なさそうに言うので、僕はそういう空気が嫌で、


「大丈夫だよ、それより、僕もシャボン玉やりたいな」


 下手くそな話題転換だったろうが、当たりだったらしく、彼女は拗ねた様子で、


「別にシャボン玉するために休んだんじゃないからね」


「うん」


「でも、いいよ。入ってよ。最近学校行けてなくてつまんないんだ」


 彼女はそういうが、ここは煙草屋のスタンドだ。そう思って僕がまごついていると、


「横に玄関あるから」


 横に玄関があるのか、と僕は変に納得したのを憶えている。



「遊ぶもの、なにもないけど」


 その通りだった。彼女の部屋は喘息の関係で埃が溜まるとまずいのだろうか、清潔そうな布団と、畳と整った机だけだった。小学生女児っぽいものといえば布団に隠したのだろうか、顔が半分だけ覗いているしまじろうのぬいぐるみだけだった。


 あと、シャボン玉。


「ほら、君の好きなシャボン玉だよ」


「どうもどうも」


 さっきの仕返しだろうか、からかう様に言うと、僕はこれが間接キスになることに今更ながら気づいた。小学3年ともなると少しずつ色めき立つ年頃だが、僕もその例外ではなかった。けれどそこで変に振舞って勘付かれるのも嫌だったので何の気なしにという様に振舞った。


 彼女の部屋に窓は大きなものが1つだけだったのだが、ちょうど開け放たれたそこには茜色の西日が差し込んで眩しかった。子供心に綺麗だと感じた。


 そしてその窓から顔を出してシャボン玉を一息に思い切り吹いてみる。すると、ぬるりとした無数の透明の球体が、ぷかり、ぷかりと茜色を反射してまるで小さな太陽の様に見えた。


「おー」


 思わず、声が出た。


「これ、めっちゃ綺麗だね」


 僕がそう言って振り向くと、彼女は何やら水鉄砲に似たものを構えて


「くらえ」


 そう言ってそれころ無数のシャボン玉を僕に向けて撃ってきた。その玉は僕の顔で弾け、手で弾け、畳で弾け、天井で弾けた。あっという間に殺風景だった部屋は小さな茜色の恒星が渦巻く不恰好な銀河系となった。


 きっと僕もやり返したのだろう、ドタドタと騒いだことを憶えている。彼女の喘息のことを僕はすっかり忘れていたが、楽しかった。


 その後、彼女のお母さんが帰ってきて、お菓子などを食べさせて貰った。お母さんの顔は憶えてないけれど、彼女に似て色白で良く笑う人だった。



 その後も何度か彼女の家にはプリントを届けた。その度に、僕は煙草を買いに来た小学生よろしくといった見た目で彼女と、シャボン玉はもうすることはなかったけれど、くだらない会話をした。けれど、それも僕が転校してしまったので無くなってしまったし、彼女の行く末なども僕は知らない。


 あれは初恋だったのだろうか。けれど、今住んでいる街の煙草屋の前を通る度に僕は懐かしさとか甘酸っぱさとかそういった忘れかけのものが入り混じったものに駆られる。きっとそれは、そういうことなのだろう。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

煙草屋の小学生 白田エマ @xoixoi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ