灰白

そしてなぜこうなっているのか、わからない。

白に薄い青をいた氷色の着物を着た男の人は、私の目の前に座りこんで、なぜか熱心にお経を読んでいる。

徐々に落ちついてくると、これはもしや私のことをおかしな人間と思ったのかもしれないと不安になる。

まあ周りから見れば、正真正銘おかしな人間なのだけれど。

氷色の人の背後では一緒にいた数人の男の人たちが、私の顔を心配そうに見つめている。この人たちは皆オレンジ色の着物を着ていて、なんだか暑苦しい。

そのまた後ろでは、しげちゃんとダルマのお父さんと、もう1人ひょろりとしたおじさんが座ってる。

さっきしげちゃんが「おじさん」と呼んでいたから、この家の主に間違いないと思う。

もしかしてこれは大騒動になっているのかもしれない。

ど、どうしよう。

とりあえず読経どき ょうはやめてもらいたい。

私もう正気に戻ったから!と、なんとか目の前にいる氷色の着物を着ている人に伝えようとするけれど、彼は目を閉じてお経を読んでくれているから全く気づかない。

目を開けて!と念じながらじっと彼を見つめていると、月明かりが降るように差しこんでいるのに気づいた。

冷たい光が、さらにその肌を青く染めるのを見て、思わずごくりと生唾なま つばを飲む。

取り乱していたから全く気づかなかったけれど、この人美形だ。弁慶べん けいかぶるような頭巾ず きんを被っているから全体の姿は不明だけれど、眉目秀麗びもくしゅうれいって言葉がぴったりだと思う。

「皆様。もう夜も遅いことですし、寝具をご用意しましたが……」

小さい声でひょろりのおじさんが、オレンジ色の服を着ている人たちに声をかけると、読経の声がぴたりと止まった。

「休ませてもらいなさい。あとは私1人でよい」

「はっ。ではお言葉に甘えて下がらせていただきます」

オレンジ色の中で、体の一番大きな40代くらいのおじさんがそう言ったのを合図に、男の人たちはひょろりのおじさんに連れられて、さっさと部屋を出ていく。

それと一緒にしげちゃんやダルマのお父さんが出ていってしまって、文字どおり部屋に私とそのお坊さんの2人が取り残された。

どうしようと一瞬取り乱しかけたけれど、これはある意味チャンスだと気づく。

声をかけようと思った時に、彼の唇が形よく歪んでいるのに気づいて、目が離れなくなる。

「そなたのおかげだ。礼を言う」

不敵に笑ったまま、彼はその目をゆっくり開けた。

月の光が反射して瞳が灰色に映る。

その姿が、綺麗き れいおおかみに見えて時が止まる。

「もう、きつねいていないだろう。人間に戻っているはずだ。この私自ら祈祷き とうしたのだからな」

彼が大真面目まじめに言ったのを聞いて、思いきり脱力する。

き、狐?!! このご時世に狐?!!

狐が憑いているだなんてあまりに非科学的だとこの人に訴えても、私の時代の常識がここでは通用しないのは目に見えていたから口をつぐむ。

「……あの、私何もしてないけど」

「そんなことはない。今日の宿が確保できた。外で眠るにはいささか寒くなってきてしまったからな」

外って、さっきの人たちと野宿しているのかしら。

お坊さんだから、修行中なのかもしれない。

それよりもさっき『この私自ら』って言ったけど、もしかしてこの人、お坊さんの中でもだいぶ偉い人なのかしら?

私を元の時代へ帰すすべを知っているかもしれないと思って、勢いよく顔を上げる。

期待を込めて口を開こうとしたら、彼はすでに床に横たわっていた。

「……あの?」

フローリングって、昔の言葉でなんて言うんだろう。

横文字を吐いたところで、絶対に伝わらない気がする。

「どうした」

一向に次の言葉を落とさない私に、彼は苛立いら だったように体を起こした。

「こ、こんな固いところで寝たら、体痛くなるだろうし、風邪をひくわ。オレンジ色の服を着た人たちと寝たら?」

「おれんじ?」

しまった、通じない。

オレンジ色って、古い日本語でなんて言うのかしら。

「あ、あれ……かきの色……」

咄嗟とっ さに柿の色って言ってしまったけれど、食い意地が張っていると思われたら嫌だ。

彼はああ、と軽く頷いて、着ていた袈裟け さを脱ぐ。

氷色をした頭巾も、きぬれの音を立てて冷たい床に落ちた。

やっぱり、狼。

長い髪が、無造作に散る。

月の光に反射して、瞳の色と同じ灰色に見えた。

「柿色。よい、別に。早く来い」

「は?」

「早く」

何を言っているのかわからなくて躊躇ちゅう ちょしたけれど、その瞳の強さに抗えずに彼の傍に座る。

その冷たい手が私の腕を掴んだのを感じて、思わず目を見張る。

「この手!!!!」

頭の中が一気に飽和状態になって、言葉が落ちない。

ただ、手と彼の顔を交互に見ながら、口をぱくぱくさせた。

「手がどうした。間抜けな顔になっておるぞ。それよりそなたの名はなんだ」

間抜けと言われたせいで一気に頭の奥が覚めて、恥ずかしさが込み上げてきた。

「ち、千鶴子。桜井、千鶴子」

「ちづこ?」

「そう。千の鶴の子供って書いて、『千鶴子』」

突然彼ははじかれるように笑った。

やけに大笑いするからムッとする。

「貴方の名前は?」

名乗ったんだから、そっちも名乗りなさいよ、と思って尋ねる。

彼は私をじっと見つめて、声を出さずに微笑んだ。

その笑顔が、単純に綺麗だと思う。

やっぱりこの人、眉目秀麗。

「……尊雲そん うん

「そんうん、さん?」

おかしな名前ね、と言おうと思ったけれど口をつぐむ。

お坊さんなのだから、大抵そんな変な名前なのだろう。

「そうだ。それより大層な名を貰ったものだな」

「何それ。どういう意味?」

「『鶴』を名乗るには早すぎる。まだせいぜい雛鳥ひな どりだな」

絶対馬鹿ば かにされていると思って、彼の意地悪な笑顔に思わず叫んだ。

「早いって貴方ねえ!!」

「ヒナはおかしな着物を着ているな。どう脱がすのだ」

『ヒナ』と言ったその声に、息を呑む。

頭の奥に残る、あの声を思い出す。

心拍数が急上昇して、ガタガタと指先まで震えだす。

「も、もう一度……」

声を上げた私を、彼は訝しげに見つめるけれど、そんなことに構ってはいられない。

「『ヒナ』って、もう一度、呼んで」

生まれた疑惑を確固たるものにするために、もう一度呼んでほしい。

私の腕を掴んでいた手が静かに離れて、私の頬に触れる。

その指先の冷たさに、背筋が急にぞくりと震える。

「何度でも呼んでやるぞ」

この手はまさに、あの時私を連れていった手だと確信する。

その指先が頬から滑って、髪に回る。

彼の瞳に月が映っていて、その真円しん えんに呑まれてしまいそう。

「……ヒナ」

やっぱりこの声だと思った途端に、胸の奥が苦しくなる。

その灰色の髪が、砂をサラサラとこぼすような美しい音色を奏で、彼の肩から零れ落ちるのを見た。

切なさが、理由わけもなく込み上げてくる。

「ヒナ」

ここに私を呼んだのがこの人ならば、きっと私を元の場所に戻す術も知っているはず。

帰れると思ったら、押しこめていた感情が溢れて涙が散る。

「なぜ泣く」

問われて我に返った時、一体何が起こっているのか全くわからなかった。

彼の顔が近い。

近いどころか、もう、唇が触れそうになっていた。

悲鳴を上げそうになって慌てて後ろにのけぞったら、そのままひっくり返って頭を強く打った。

「なぜ避ける」

彼が呆れたように声を上げた。

軽く脳震盪のう しん とうを起こしたのを感じて、絶対今の衝撃で元々少ない私の脳細胞の大半が死滅したと思って悲しくなる。

「それは私のセリフよ! なんでキスしようとするの!!」

痛みとやるせなさを堪えながら叫ぶと、案の定彼は眉をひそめた。

「きす?」

無邪気に尋ねられて、がっくりと肩を落として落胆する。

込み上げてきた怒りは冷却されるけれど、それとは逆に沸々ふつ ふつと恥ずかしさがき上がってくる。

「く、く、口づけよ!!!」

どうして私がこんなことを叫んでいるのか全くわからない。

本気でお嫁に行けなくなってしまう。

「ヒナはおかしな言葉を使うな。もう師走だ。寒い」

しまった、と思った時には、すでにその手が私の足を掴んでいる。

「触れ合っていれば、温かくなる」

固まった私を見て、彼はにやりと笑った。

彼は狼、で、私は羊?

このままでは私、食べられてしまう!!!!

そう気づいたら、彼の腕を思いきり振り払って逃げだしていた。


上がる息が、真冬の冷気にさらされて真っ白く染まって見える。

あの鳥居と同じ色だ、と少し考えたけれど、思考回路が熱で溶けて何もかも考えられなくなる。

「もうやだ疲れた!!! お願いだからもうやめてよ!」

「何を言う。まだこれからが本番だ」

「本番って、動いたからもう体も温まったじゃないの!!」

「そう言われるとそうだな」

彼は素直に頷いて、私から離れる。

私は振り上げていた拳を下ろして、その場に倒れこむ。

投げ飛ばした座布団やらが、バラバラと部屋に散らばっているのを見つめながら、大きくため息を吐く。

「寝る」

短く言って、彼はその場に横になった。

「貴方ねえっ!」

「ヒナはなぜそんなに抗うのだ」

荒げた私の声によく通る声が覆い被さって、反射的に口をつぐんだ。

「私はヒナを抱きたかっただけだ。別によいだろう、一夜いち やくらい」

さっきまで私は身の危険を感じて、逃げ回っていた。

物を投げ飛ばし、殴るるの追いかけっこ。

彼もなんだか途中から、この状況を楽しんでいたように思えたけれど。

「……何箇所引っかいたと思っているのだ」

確かに結構引っかいてしまったから、痛いところを突かれたと思って口を開く。

「貴方、女の子だったら誰でもよかったんでしょ?」

「……そうだな。でも男などそのようなものだろう」

認められても少し複雑だったけれど、そのほうが話が早い。

「私はね、本当に好きな人とじゃないと嫌なの」

彼は驚いたように目を見張った。

「おかしな考え方だな。ヒナがそのような考え方をしていて、家は大丈夫か?」

その返答を聞いて、呆気あっ けにとられる。

どうして、私の家が関わってくるのかしら。

彼は起き上がって、私の前にあぐらをかいて座った。じっと見つめてくるその瞳は、本気で心配そうに歪んでいる。

「もしやヒナのせいで家に被害があったのか。それで行き倒れか?」

「なんでそうなるのよ!!!」

怒鳴った弾みで、止まらなくなる。

「家に被害なんてないわよ! 貴方が連れてきたんじゃない!! 帰してよ!! お願いだから元の時代に帰して!!!」

貴方が変な術でも使って、偶然あの場所にいた私を連れてきたんだ。

なんだかこの時代は非科学的で、おかしなことばかり言っているから、きっとできるはず。

「帰して! 私、帰りたいの!!! 帰りたい……」

叫んでようやく、自分は帰りたいと切実に望んでいることに気づく。

お父さんも、太一兄ちゃんも、月子も、大和も、頼人も、夕もいる温かい場所に帰りたい。

「だから帰して……。貴方が私を呼んだでしょう……?」

「私はヒナを呼んだ覚えはない」

はっきりと言った彼に、目の前が真っ暗になる。

「よ、んだじゃないの! 私のことを呼んだでしょう?! この手! その声! 間違えるはずなんてない!!」

「呼んでなどいない」

「呼んだ!! 呼んだんだから、元の時代に帰す術も知ってるでしょ?! 教えなさいよ!!」

一歩も引こうとしない私に、彼は困ったように頭を掻く。

「……強情な女だな。私は呼んでなどいない。それに『元の時代に』とはどういうことだ」

「元の時代よ!! 少なくとも私は、ここよりももっと未来から来たのよ! 貴方に強引に連れてこられたの!!」

思いきり彼の顔が歪んで、私を露骨に疑っているとわかる。

「未来? ここよりも?」

「そうよ! ずっと先! 100年、200年、1000年先!!!」

ここが何時代かなんて全くわからなかったからそう叫ぶと、彼はさらに首を傾げた。

「……信じられぬ」

「私だって信じられない」

やるせなさと怒りばかり胸の内に広がっていく。

「お父さんにも兄弟にも、もう二度と会えなかったらどうしてくれるのよ……」

不安が染み出して、八つ当たりするなんていけないと思うのに止まらない。

「泣くな」

その指先がそっと私の頬を滑ると、彼の指を伝って私の涙が散った。

「貴方が呼んだのよ……誰も私のことを『ヒナ』って呼ぶ人はいないのに……貴方が……」

「……言っていることは、真実なのか?」

もちろんと、大きく頷く。

「私が今着ている服の形が普段着。貴方の着ている着物と全然違うでしょう? 私が住んでいたのは『東京』。西暦2010年。平成22年」

突拍子のないことを言ったとわかっているけれど、お願いだから私のことを信じてほしい。

「せいれき2010年? へいせい? なんだそれは。とうきょう? そのような地名聞いたことがない。それに……」

彼は私の制服をじろじろと見つめる。

「ヒナの国の女は、皆こうやって足を出しているのか?」

どこを見ているのよ!と突っこみそうになったけれどぐっと堪える。

「そうよ。さっき貴方がおかしなことを言っていたけれど、私がそういう考えをしていても、家に被害はないわ」

「……そうか。私がヒナを呼んだことは断じてないと言えるが、確かにヒナは妙だ。おかしい」

「呼んだかどうかはどうでもいいの。帰る方法を教えて」

「そんなこと、私がわかるわけがないだろう。呼んでもいないのに帰す方法を知っているなど、おかしな話だ」

彼ははっきり言った。

その目は真剣で、嘘なんて吐いていないのはすぐにわかる。

絶望が、涙へと形を変える。

「すまぬな。泣くな、ヒナ」

私をこの時代に連れてきたのは彼で間違いないと思うのに、唯一の希望ももう闇の中だ。

強引に抱き寄せられて、抗うことなくその腕の中に沈む。

「抱かないと約束する。きっと疲れているのだ。寝よう」

悪い夢であってほしいと願いながら瞼を閉じる。

目が覚めたら、きっといつもどおりの1日が始まるはずだから。


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