ラストエデン

@Lady_Scarlet

デウスエクスマキナに祈りを

「うーん、ここは...?」


 暖かな陽射しが窓から射し込み、優しいそよ風がカーテンを揺らしていました。


 遠くに小鳥の囀りが聞こえていました。


 部屋の中には私が横たわるベッド以外には何もありません。


 そよ風を届けてくれる窓が一つと、木でできた扉が一つあるだけでした。


 私はかなり深く眠っていたようで、眠る前のことを俄(にわか)には思い出せずにいました。


 やがてコツコツと硬質な音が聞こえてきました。


 そしてその音が扉の前で止まると、コンコンと扉を叩く音が聞こえました。


「どうぞお入りください」


 私は訪問者に返事をしました。すると扉がゆっくりと開かれました。


 入ってくるのは私の家族でしょうかと考えていると、現れたのは残念ながら人ではありませんでした。


 扉を潜って入ってきたのは、武骨な見た目のロボットでした。 その手には可愛らしい花がいけられた花瓶を持っていました。


「ああっ、ついに目覚めたのですね」


 構造上表情を表すこともできないはずのロボットですが、とても喜んでいるように感じられました。


 彼は花瓶を窓際に置くとベッドに歩み寄ってきました。


「あなたは?」


 私の記憶にはそのロボットは存在しませんでした。


 そして、そもそも私の記憶自体がほとんど存在しないかのようでした。


 言葉などは問題ないようでしたが、自分の名前すら憶えていないことに、その時やっと気付いたのです。


「私は外宇宙開発補助ユニット、RBN7485Σです」


「ここはどこ?」


「ここはx487銀河、jb678星域の第三惑星です」


「分かりません」


 私にはロボットの言うことがよく理解できませんでした。


「問題ありません。我々は天の河銀河太陽星系地球から外宇宙へと移民してきたのです」


「外宇宙? どうして?」


「太陽の異常活動と崩壊予兆のためです」


「なぜ違う銀河まで?」


「それは移民船のトラブルによるものです。十分な防御を行っていたはずが、強力な太陽風による電磁波でシステムに不具合が出たのです。

 結果、ワープ航法が制御不能に陥り、移民船団からはぐれて、無理な超長距離ワープに入ったことで時空震が発生。外宇宙へと放り出されました。

 この時にデブリ群に接触、さらにシステムに致命的なダメージを受け、航行持続不能になりました」


「それでこの星に不時着したのですか?」


「イエス。重力や恒星との距離、惑星組成が比較的良好なこの星に着陸しました」


「もう飛べないのですか?」


「イエス。パーツを生産することができず、修理不能です」


 私はそれを聞いてもショックを受けることはありませんでした。その部屋の環境が良好だったからかもしれません。


「分かりました。あなた以外の人達はどうしていますか?」


「残念ながら現在活動中なのは、私とあなただけです」


「全滅したのですか?」


「ノー。男性が一人コールドスリープ状態です。しかし、深刻な遺伝子損傷の治療中で目覚めさせることはできません」


「分かりました。では、この星で我々は三人のみということですね」


「ノー。二人と一体です」


「ところでRBN7485Σ、ここは地球と同じような環境なのですか? それは奇跡のように思われます」


「イエス。現在のこの星は地球に準拠した環境になっています。

 イエス。奇跡といって差し支えないでしょう」


 小鳥がさえずり朝日が射し込むこの環境が、奇跡の一言で了承できるものではありませんでした。


「鳥や植物も自生していたのですか?」


「ノー。一切の生命は存在しませんでした」


「宇宙船で運んできたのですね」


「この星の生命は地球由来の物です」


 私は彼の返答に少し引っかかるものを感じましたが、何が気になるのか分かりませんでした。


 質問を重ねようとしたとき、私のお腹がぐぅと音を立てました。


「イヴは空腹のようですね。すぐに食事を用意します」


「イヴというのは、私の名前?」


「イエス。あなたの名前はイヴです」


「あなたが食事を用意してくれるの?」


「イエス。調理ロボットは壊れてしまいました。幸いライブラリーの一部が破壊を免れていたため、多少のレシピは残されています」


「あなたは調理向きには見えないわ」


「イエス。宇宙空間、極温空間での作業用ロボットです」


「それなら、私が作る方が合理的です」


「同意します。あなたが料理を作る方が合理的です」


 彼の同意が得られたため、ベッドから降りると少し立ち眩みを覚えました。


「大丈夫ですか、イヴ? 起立性低血圧のようです。自律神経の働きが十分ではありません」


 彼は心配そうに私を支えてくれました。


「ありがとうございます。大丈夫です。あなたは診断機能までついているのですか?」


「いいえ、あなたが目覚めた際に生じる可能性のある病状をインストールしているだけです」


「そうですか。お気遣いありがとうございます」


 私は彼の案内で調理場へと向かいました。


 やはり全自動調理器は無く、電熱プレート、電磁波調理器など古臭い設備が置かれていました。


「どのように調理すれば良いのでしょう?」


「食材を準備しますので、お待ちください」


 彼は一旦調理室を出て行くと、しばらくして土の付いた野菜を持って戻ってきました。


「この野菜を使ってください。肉は生体調査のため解体冷凍したものがあります」


「これらは私の記憶にはない野菜のようです」


「人は調理済みの食材しか見ることがありませんから、当然です」


「調理方法が分かりません」


「では今回は私が調理しましょう。まず野菜は水洗いします。そしてナイフでカットします。そしてスライスした肉と一緒に炒めるだけです。味付けはこのミックススパイスを使ってください」


 食材のカットは勿論、洗浄から手動であることに私は驚きました。


 食材加工は専用機械が行うと思っていたのです。


「さあ、できましたよ。お召し上がりください」


「ありがとうございます。いただきます」


 香ばしい匂いが鼻腔をくすぐりました。


 彼が作ってくれた肉野菜炒めを口へと運びました。


 いつ以来かも分からない味覚という刺激は、私の脳髄を強く刺激しました。


「ああ、美味しいです」


「それは良かった。私には味覚センサーがありませんから、味見ができません。レシピとは野菜や肉の種類が些か異なるため、味付けに懸念があったのです」


「問題ありません。大変美味しいです。あなたは料理がお上手ですね」


「ノー。私にはレシピを創作することもアレンジすることもできません」


「それでもあなたの作ってくれた料理は美味しいのです。ありがとうございます」


「ああ、ありがとうございます。

 私には情動システムがありませんが、それでもこれはきっと歓喜と幸福感というものなのでしょう。

 私は長い間、単独行動を強いられてきました。奉仕する人間も存在せず、ただただプログラムにそって行動するのみでした。

 あなたという人に奉仕できること、それだけで私の存在が満たされるのです。

 それなのに、あなたは私にお礼まで言ってくれる。

 ありがとうございます。私にロボットとしての本懐を遂げさせていただき、感謝いたします」


 情動システムが無いというのに、私には彼が歓喜に打ち震え、泣いているように見えました。


 そして本懐を遂げるという言い方に少しの不安を感じました。


「あなたは、これからも私と一緒にいてくれるのでしょう?」


「イエス。勿論です。私の活動限界まで、あなたと共にあるでしょう」


「それを聞いて安心しました。私一人を置いて行くのかと思いました」


「ノー。私はきっと最後の時をこの場所で迎えることでしょう」


 それから私と彼の生活が始まりました。


 彼は私のために花壇に色とりどりの花を植え、色々な野菜の畑を作っていました。


 そして鶏のように飛べない鳥や、牛のように乳や肉の美味しい動物も数頭飼育していました。


 農業用の機械もありませんでしたから、そんな作業に向かない体で、いつ目覚めるとも知れない私のために、日々畑を耕し、家畜の世話をしてくれていたのです。


 私は彼にそれらの作業を教えてもらい、畑や家畜の世話をするようになりました。


 私が眠りについた後、彼はもう一人の男性の世話をします。


 もう一人の男性とは冷凍状態で会うことはできませんでした。


 彼は冷凍状態の男性の治療を日々行っていました。


 遺伝子損傷は遺伝子データベースと治療ポッドがあれば修復可能です。


 男性はその治療ポッドで眠っていました。


 そして治療が滞っている原因は、遺伝子データベースが破壊されてしまったことでした。


 私も同じく遺伝子損傷を受けており、二人のデータだけでは修復はできず、様々な生き物の遺伝子を解析しては、細胞サンプルによる実験を繰り返していました。


 仮に他の生命の遺伝子によって男性を蘇生し得ても、遺伝子の相同性が損なわれてしまえば、私と子をなすことができなくなり、この星の人類は絶滅することになるのです。


 彼は慎重に何年も何年も気の遠くなるほど長い間、研究を続けていました。


 彼には諦めることが許されていませんでした。


 人類存続のために奉仕する、それが彼の設計思想なのですから。


 宇宙船のメインコンピューターはとうに損壊しており、全ての計画も計算も彼の頭脳で行わねばなりませんでした。


 私は彼の苦労を思うと胸が締め付けられるように感じられました。


 もう諦めて


 何度となく、そう言いたくなりました。


 それでも私にはそれを告げることはできませんでした。


 人類存続を諦めるように言うことは、彼の長年の労苦や献身を無にすることでしたから。


 そしてそれは、彼の存在意義を奪うことでしたから。


 それを告げたら、彼はどう反応するのでしょう。


 感情を持ち得ないため、悲しむことも喜ぶこともできず。


 ただその存在を静かに終えるのではないかと、そんな恐怖に苛まれました。


 いいえ、それは言い訳でした。


 私には彼しか頼る者もいなかったのです。


 彼には申し訳ないのですが、ただただその献身に甘えさせてもらうしかなかったのです。


 諦めるように告げることが、まるで永遠に続く労苦から解放する唯一の救いであると分かっていたのに。


 情動システムが組み込まれていれば、彼は私を恨んだでしょうか。


 憎んだでしょうか。


 それでも彼に情動システムがないことが幸いとは、私には思えませんでした。


 情動システムがあれば、これほどの業を背負うことも無かったでしょう。


 彼は諦めてしまって、私は目覚めることが無かったかもしれません。


 それでも、もし彼に情動システムがあったなら


 もし、情動システムを備えていても、私を蘇生させてくれていたなら


 彼はきっと私と共に泣き、笑い、喜び、時には喧嘩したり


 きっと二人で様々な感情をぶつけ合い、共有し合い、ともに生きてくれたでしょう。


 そう考えてしまうのです。


 私は、私の唯一の話し相手であり、私の保護者であり、友である彼に特別な感情を持つようになっていきました。


 それは勘違いなのかもしれません。


 それは一種の精神病だったのかもしれません。


 雛鳥が生まれて初めて見た物を親と思うような、インプリンティングといわれるものだったのかもしれません。


 彼はロボットでした。


 私は人でした。


 それでも、私は彼を愛していたのです。


「ねぇ、シグマ。えっ? なんのことかって? あなたの名前よ。RBN7485Σからとってシグマって呼ぶことにするわ。ねぇ、いいでしょう?」


「ねぇ、シグマ。オリーブもどきから油を搾ってみたの。あなたの体に使えないかしら?

 あなた、最近ギシギシいっているもの」


「ねぇ、シグマ。朝日ってとても清々しいわね。命の息吹を感じるようね」


「ねぇ、シグマ。今日はとても良いお天気ね。洗濯物が良く乾くわ。お日様をたっぷり浴びたシーツってなんだかいい匂いがして、私とても好きなの」


「ねぇ、シグマ。今日は雨が降っているわ。今日みたいな日は、雨音を聞きながらゴロゴロ過ごすの。

 怠け者みたいで少し悪いことをしている気分になるけど、雨音ってとても心地良いわ。

 雨が音を吸って、世界が少しだけ静かになるの」


「ねぇ、シグマ。夕陽がとても綺麗よ。世界を暖かく包んでいくよう。

 きっと明日も良い日になるわ」


「ねぇ、シグマ。こんな静かな夜は、この宇宙にはもう、私達しか生き残っていないんじゃないかなんて考えてしまうの。

 シグマは私を置いて行かないでね」


「ねぇ、シグマ、ねぇ、ねぇったら...

 どうして返事をしてくれないの。私のことを嫌いになったの?」


「ねぇ、シグマ。宇宙船の残骸から錆び取り剤を見つけたの。全身ピカピカにしてあげるね。

 だから、シグマ、

 シグマ、返事してよぅ。

 シグマ、起きてよぅ。

 淋しいよぅ」


 何年も何年も私はシグマと過ごしました。


 何年経っても男性は蘇生しませんでした。


 次第にシグマは言葉を発しなくなり、ギシギシときしみを上げました。


 そして静かに動きを止めたのです。


 それからまた、何年も何年も経ちました。


 私の遺伝子損傷のためか、遺伝子治療のためか、私は老いることがありませんでした。


 私はこの星にたった一人、来る日も来る日もただシグマとともにありました。


 朝目が覚めるとシグマに声を掛け、花瓶の花を手入れし彼の体を拭きました。


 彼の体はピカピカでどこにも壊れたようなところは見当たりませんでした。


 どこかが壊れてしまったのでしょうが、調べる方法も修理する設備もありませんでした。


 私にできることは、ただ彼と共にあることだけでした。


 彼に諦めるように告げなかった私が、自分勝手に人生を諦めて命を断ってしまうわけにはいきませんでした。


 それは彼に対する裏切りでしたし、死後の世界で彼に怒られるような気がしました。


 さらに何年も何年もただ、ひたすらに私は自分の死を待ち続けました。


 死後の世界で彼にもう一度会えることだけを楽しみに。


 毎日私は見たことのない神に祈りを捧げました。


 一日も早く、私を彼の元へと連れて行ってくださいますようにと。


 人間と同じ世界でなくて良い。


 彼と同じ世界へ私を連れて行ってくださいますようにと。


 私は毎日、彼の傍らで眠りました。


 明日はきっと目が覚めませんように。


 そう祈りながら。


 そんな日々を送っていると、久し振りに機械音が聞こえてきました。


 私はシグマの元を離れ、音の正体を調べに行きました。


 発生源は冷凍保存された男性のところでした。


 遂にジェネレーターの寿命を迎え、保存装置が機能を停止しようとしているようでした。


 ああ、この男性も私を置いて行くのですね。


 そう、思いました。


 ふと、コンソールの上にノートが置いてあるのが目に入りました。


 シグマは私をこの部屋には入れませんでしたし、彼の停止後は一度様子を見に来たきりでした。


 そのときは見落としていたのでしょう。


 ノートはシグマの物でした。


 コンピューターはほとんど壊れていましたので、研究成果は紙に書いて保存していたのでしょう。


 私はノートを手に取ると、ページをめくってみました。


『最愛なるイヴへ


 あなたがこのノートを手に取っているということは、私はもう機能を停止しているのでしょう。


 私はあなたに告げることができていたでしょうか。


 恐らく、私はあなたに告げていないでしょう。


 だから、私はここに書き記しておくことにします。

 


 イヴ、申し訳ありません。

 

 私があなたを人間と表現したことがなかったことに気が付いているでしょうか。


 イヴ、あなたは人ではあっても、人間ではありません。


 この星に不時着した時、完全な人間の遺伝子は失われてしまいました。


 人間に限らず、方舟計画のための多種多様な生物の細胞や遺伝子情報は、ほとんど損なわれていました。


 かろうじて残された人間の遺伝子の欠片たちを繋ぎ合わせて作り上げたのが、仮称アダムとイヴです。


 男性遺伝子を寄せ集めて仮称アダムを作り、女性遺伝子を繋ぎ合わせてイヴの原型を作り上げました。


 それでも遺伝子には欠損が多く、生命として復活させるには至りませんでした。


 そもそも独立活動している物が、生体・ロボットを合わせても私だけでしたが、よく調べてみると生体アンドロイドの一体が辛うじて不完全ながら遺伝子情報を保持していました。


 生体アンドロイドは人間をベースに遺伝子改良された細胞と機械で構築されています。それ故に、人間の再生に遺伝子情報が流用できる可能性がありました。


 生体アンドロイドは女性しか存在しませんので、その遺伝子をイヴに組み込みました。


 言わば新人類となる遺伝子を構築しましたが、生命として機能していませんでした。


 この星には生命が居ませんでしたので、もう使える遺伝子はありませんでした。


 そこで私は仮称アダムとイヴを冷凍状態にし、この星に生命を誕生させ、新たな遺伝子を得る事にしました。


 この星は日中は高温で夜は氷点下というよくある星で、ミトコンドリアに依存する生物には酸素濃度が低すぎました。


 幸い海の組成が地球に近く、生命を育む可能性がありました。


 そこで私は生き残った細胞のうち、植物性プランクトンを繁殖させ何度も海へと放流しました。


 海水の中は地上より温度変化が少なく、プランクトンは生き残り、やがて酸素濃度が上がって行きました。


 酸素濃度が上がり二酸化炭素が減ると気温も安定し始めました。


 それに併せてミドリムシやクロレラなどを地上の淡水湖に放ちました。


 哺乳類などは生き残っていなかったので、後は生命の進化をひたすら待ちました。


 私は何万年もスリープ状態で過ごし、定期的に目覚めては生命サンプルを採集、地球環境に近付くように様々な手を加えました。


 いくらスリープ状態を多用したとはいえ、私の活動限界はすぐそこまで差し迫っていました。


 しかし、ついに地球と同じとは言えないまでも哺乳類が誕生し、あなたを目覚めさせるためのパーツを手に入れたのです。


 とは言え、そのパーツだけでは脳の一部が機能していませんでした。


 もはや私の活動限界は間近に迫っていました。もう更なる進化を待つことはできませんでした。


 仮称アダムの再生は不可能でしたが、イヴの再生には脳の一部に生体アンドロイドのチップを埋め込むことで可能なことが分かりました。


 申し訳ありません、イヴ。


 あなたを目覚めさせたのは、人間的に言うと私のエゴなのです。


 その時点で仮称アダムが目覚める可能性はほぼゼロでした。


 人類は単性生殖不可能ですので、あなただけ目覚めさせたところで人類存続はできません。


 それは分かっていました。


 それでも私の存在意義が人類存続を命じたのです。


 活動限界に至ればイヴすら目覚めさせることができません。


 そこでまずイヴを目覚めさせ、活動限界ギリギリまで仮称アダム再生に賭けることにしたのです。


 あなたはきっと、私を恨んでいるでしょう。


 あなたはきっと、私を憎んでいるでしょう。


 申し訳ありません、イヴ。


 あなたを残して活動を終えることが心残りで仕方ありません。


 私に感情はありませんが、あなたが目覚めたときのジェネレーターの唸りは今も忘れることはありません。


 情動システムがあれば、とそう思いました。


 きっと感動に打ち震えていたでしょう。


 幸せに泣き叫んでいたかもしれません。


 何万年の作業などあなたの目覚めの前には、何の苦労でもありませんでした。


 あなたは私の全てでした。


 私のような機械は人間を愛するように作られているのでしょうか。


 情動システムはなくとも、きっと私はあなたを愛していたのだと思います。


 あなたが目覚めたとき、あなたの瞳の美しさに見とれてしまいました。


 あなたの声を聞いたとき、天上の歌声のように私のセンサーが震えました。


 初めて料理を作ったとき、あなたは美味しいと言ってくださいました。


 この時、私は初めて人に奉仕する喜びを知ったのだと思います。


 目覚めた当初感情に乏しかったあなたが、日に日に表情を変え、感情豊かになっていき、遂に笑ってくれたとき


 私は全てが報われた気がしました。


 その時初めて神に感謝するという人間のアルゴリズムを理解できた気がしました。


 何万年も活動していても知らなかったことを、あなたは日々私に教えてくれました。


 朝日が心地良いものだということ


 雨が悪くないものだということ


 夕陽が暖かく世界を包むということ


 数え上げれば切りがありません。


 何万年も感じたことのない、心地良いジェネレーターの唸りをあなたは私に与えてくれました。


 何万年もかけてあなたに巡り会い、


 あなたの眼差しを見ることができたこと、


 あなたの声を聞けたこと、


 あなたが美味しいと言ってくれたこと、


 あなたの嬉しそうな笑顔


 あなたの淋しそうな横顔


 あなたの怒った顔


 あなたの泣き顔


 あなたの安らかな寝顔


 全てのメモリーが貴重でかけがえのない宝物です。


 何万年もの日々よりも、あなたとの一日の方が何よりも重要で大切でした。


 そんな様々なものをくれたあなたを一人残して逝かなければならないことが、無念でなりません。


 せめて仮称アダムを蘇生させることができたなら、あなたは孤独にならずに済んだのに。


 残念ながら仮称アダムは言わば植物人間状態です。体の機能はほぼ問題ありませんが、イヴの時と同じく脳の機能が不完全なのです。


 仮称アダムは仮称のまま、人にして差し上げることができませんでした。


 もう生体アンドロイドのチップもありません。


 冷凍装置が活動を停止するまでに彼を目覚めさせることは不可能でしょう。

 

 申し訳ありません、愛しいイヴ。


 もしも、あなたが許してくれるなら、活動限界を迎えた後も、あなたの傍らに私のボディを置いておいてもらえないでしょうか。


 それは私の抜け殻なのでしょうが、それでもわたしはあなたを守りたい。


 ああ、可愛いイヴ


 いつかあなたの孤独が癒えますように。


 いつかあなたに幸せが訪れますように。


 あなたとずっと共にありたかった』


 私は愛していると書き残してくれたことに、幸せと喜びを感じるとともに、より大きな悲しみに満たされました。


 ああ、私が彼に愛していると告げたら、何かが変わっていたのでしょうか。


 彼は私も愛しているよと返してくれたのでしょうか。


 私が彼に愛していると言えなかったのは、人間がロボットに愛をささやくのがおかしいと思ったからではありませんでした。


 私が彼に愛していると告げたとき、彼が困ってしまうのでは


 私が彼に愛していると告げたとき、彼が満足して活動を終了してしまうのではないか


 そう考えてしまったのです。


 ああ、せめて最後に彼に愛していると告げられれば


 私が彼の心をもう少し理解できていたなら、彼の心残りを少しは軽くできたのでは


 ああ、神様お願いです。


 もう一度、もう一度だけでいい、彼と話をさせてください。


 動かなくなってもそばにいてくれる彼に感謝の気持ちを、私の愛を届けさせてください。


 どうか、お願いします。



 その時、世界が揺れ動きました。


 地震で崩落したのか、冷凍装置に光が射し込んできました。


 そして、ギギギと機械がきしむ音が幽かに聞こえました。


 私は、はっとして彼の元へと駆けました。


 その機械音に懐かしさを感じながら。


 奇跡を祈りながら。


 そして、私が彼の元へと辿り着いたとき、私の祈りが通じなかったことを悟りました。


 地震の衝撃で彼が動き出したのでは?


 と甘い期待を抱いていたのです。


 私がそこに辿り着いたとき、軋みを上げていたのは、確かに彼でした。


 地震で天井が崩落し、彼の頚部に直撃していました。


 そして私が慌てて彼を助けようとしたとき、軋みは大きくなり、彼の首を切り落としたのでした。


 呆然とする私の足元に彼の頭部が転がり、天井は音を立てて崩れ落ち、彼の体を押しつぶしました。


 私は神を恨みました。


 彼が動き出すのは不可能だと分かっていました。


 それでも、いつ終えるともしれない永く永く永く続く日々を、せめて寄り添って過ごしていたかったのに。


 神は、老いることもなく人間ですらない哀れな私を、そんなにも嫌っているのでしょうか。

 

 私は彼の冷たい頭を抱き締めて、声を上げて泣きました。


「辛いよぅ。悲しいよぅ。淋しいよぅ。

 シグマー、独りは嫌だよぅ。

 動かなくても良いから、一緒にいてよぅ」


 私の涙が彼の頭部を濡らしました。


 すると何かを訴えたいかのように、ギギギと小さな音がなった気がしました。


「シグマ?」


 私が彼の目を見つめると、彼の目が微かに光った気がしました。


「シグマ、シグマ、シグマ!」


「シグマ、生きてるの!? まだここに居てくれるの? 私と一緒に居てくれるの?」


 しかし彼の目に再び光がともることはありませんでした。


 そして崩落が続き、私は彼の頭部を抱えて再び冷凍装置の元へと戻りました。


「仮称アダム、あなたも可哀想に。生まれることもなく、ここで死んでしまうのね。

 でも淋しくなんてないわよ? シグマがあなたを待っているし、私もそのうちそっちに行くのだから」


 ギギギッ!


 そんな私の言葉に怒ったようにシグマの頭部がハッキリとした軋みを上げました。


「シグマ!?」


 シグマの目は光を宿してはいませんでしたが、私にはシグマが語りかけてきた気がしました。


「分かったよ、シグマ! やってみる!」


 そこからは時間との勝負でした。


 急いで私はシグマの頭部を破壊しました。


 そして、彼のチップを抜き出したのです。


 辛うじて動いている治療ポッドに、彼のチップをセットし、必死に作業コードを入力しました。


 チップはポッドの中に消えていき、ポッドの中では触手のような作業アームが、仮称アダムの頭部に迫っていきました。


 ポッドは明滅を繰り返し、今にも活動を停止しそうでした。


 私はデウスエクスマキナに祈りました。人間ではない自分が人間の神に祈ったのが良くなかった気がしたのです。


 デウスエクスマキナは機械仕掛けの神。


 生体アンドロイド達が祈った神。


 ロボットに作られ、生体アンドロイドの一部を受け継ぐ私が祈るのには一番相応しい神である気がしました。


 やがて作業アームが停止し、ポッドのクリアシールドにヒビが入り、そこから冷気が漏れ出しました。


 まだポッドは辛うじて動いていました。


 冷気がどんどん排出され、ピーッという電子音の後に、シールドがスライドしていきました。


 私は恐る恐るポッドに近寄りました。


 その中には若い男性が眠っていました。


 彼は死んだのでしょうか。


 それとも蘇生したのでしょうか。


 私はそっと彼の頬に手を触れてみました。


「温かい...」


 ゆっくりと彼は目を開きました。


 眩しそうにパチパチと瞬きを繰り返すと、私と目が合いました。


「おはよう、アダム?」


「おはようございます、イヴ」


 彼の言葉を聞いて、私の目から大粒の涙が零れ落ちました。


 私は涙を拭うのも煩わしく、そのまま彼に抱きつきました。


 そうせずには居られなかったのです。


「シグマ、シグマ、シグマ!」


「イヴ、長い間独りにしてしまってすいませんでした。

 そしてありがとうございます、イヴ。

 私が活動を停止した後も、あなたが毎日私に寄り添ってくれたこと、話し掛けてくれたこと、夢うつつの中で感じていました」


 私は涙が止まりませんでした。


 私は少しでも離れればこの奇跡が消えてしまうような、もう二度と彼に会えないような気がして、ずっとずっと、彼にしがみついて泣いていました。


 彼は私が落ち着くまで、優しく私の髪を撫でてくれました。


「シグマ、もう、私を置いて行ったりしない?」


「しません、絶対に」


「もう、私を独りにしない?」


「もう、離れません」


「またご飯作ってくれる?」


「もちろん。何が食べたいですか?」


「ずっとずっと、ずーっと、一緒に居てくれる?」


「ええ、勿論。世界が終わるまで、あなたとともに」


 私はやっと顔を上げることができました。


 するとそこには初めて見るシグマの笑顔がありました。


 機械の顔のシグマしか見たことがなかったのに、アダムの顔がシグマにしか見えませんでした。


 まるで本当はアダムの顔に、機械の仮面を被っていたかのように感じられました。


「ああ、イヴ。なんと美しい。人の目を通してみるイヴは機械で見ていたよりも何十倍も美しい」


「嘘っ! こんなに泣いてたら、ひどい顔だもん!」


「いいえ、イヴ。どんなあなたも尊く美しく、また愛らしいのです」


「もうっ! 尊くなんてないもん! もう、私とシグマは同じだもん!」


 するとシグマは驚いたように目をパチクリと瞬きました。


「ああっ! そうなんですね! もう、私はあなたと同じ! ともに生きていけるのですね!」


「そうだよ! もうシグマは機械じゃないんだから! 私シグマの子供だって...!」


 そこまで言いかけて私は真っ赤になって顔を背けました。


「ああ、なんて可愛いのでしょう! 私の愛しいイヴは!」


 そう言ってシグマは私を強く抱きしめました。


「もうっ! 痛いよ!」


 嘘です。痛くなんてありませんでした。


 嬉しくって、幸せすぎて、そのままだとこの奇跡が消えてしまう気がしたのです。


 でも、こんなに幸せな瞬間をくれたなら、奇跡が消えてしまっても、もうここで死んでしまっても、もう十分。


 そう思えました。


 それでも、もし、神様が二人の時間をもう少しくれるなら


 もう少し、彼に甘えても良いでしょうか。


「ねぇ、シグマ。もう一度言って?」


「えっ?」


「もうっ! 私のなんですって?」


「ふふふっ、やっと言うことができました。何度でも言いますよ。私の愛しいイヴ。

 今思えば、私はあなたが目覚める前からずっと、何万年もあなたを愛していたのです。

 今までも、そしてこれからもずっと、あなたを愛しています」


「んー! 私も! 私もずっと、ずっと、シグマのこと愛してたんだから! ずっと、ずっと、ずっと、言えなかったこと後悔してたんだから!

 もう、ずっと、ずっと、ずっと、ずーっと、一緒だからね!」


「ええ、永久(とこしえ)にあなたと共に」



「「愛してるよ」」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ラストエデン @Lady_Scarlet

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ