第3話 手を切った

 中央広場のベンチに座り、女に目を据えたまま久坂の連絡を待つ。

 その間に女は何度か私に近づいた。

 夕方のこと。帰宅する学生の群れが私と女との間をぞろぞろと流れた。視界が遮られ、女の姿を見失う。そして彼らが歩き去った後、女は2、3メートルほど近づいていた。その後も人波が寄せては返すたびに少しずつ近づいてくる。

 女が近づけば、その都度こちらも距離をとる。少なくとも50メートルの距離を維持するようにした。

 それを繰り返すこと5、6回。何時間経ったか分からないが、日はとうに落ちていた。外灯や校舎の明かりも消え、広場は昼間と打って変わって静まり返っていた。

 月明かりを頼りに女を見張り続ける。暗がりの中で見る女の姿は昼間より一段と悍ましく見えた。周りに誰もいない寄る辺なさがさらに恐怖を駆り立てる。

 真っ暗闇なら女はとっくに目の前にいることだろう。そうなったら私はどうなるのだろうか――と思わず考えてしまい、ぞぞぞと鳥肌が立った。

 余計な想像を脳裡から追い出そうとするが、女の姿が嫌でも目に入るこの状況ではそれも難しい。見れば見るほど恐怖が募っていくというのに目を逸らせない不条理――。

 だが不思議なことに、これほど差し迫った恐怖の中でも眠気は容赦なく襲ってくるのだ。眠りは死に直結する。ここからは睡魔との闘いでもあった。

 とにかく今は久坂からの連絡が来るまで時間を稼ぐしかない。


 どのくらい時間が過ぎただろうか。すでに疲労がピークに達していた。

 徐々に狭まる視界――

 一瞬の暗転。

 瞼を閉じていたのは一瞬、ほんの一瞬の間だけだと思った。だが、次に目を開けた時――

 目の前に女がいた。

 引き攣れた短い悲鳴を上げ、ベンチから飛び起きる。

 女はほんのすぐ近く、足を大きく一歩踏み出せば手が届くほどの距離にまで迫っていた。前屈みになり、生気のない無表情な顔を突き出している。長い髪がゆらゆらと風に揺れて、今にも動き出しそうだ。

 あまりの恐怖に目を瞑ってしまいたくなる。だが、絶対に目を逸らすわけにはいかない。この場から逃げ出したい欲求を抑えつけ、荒れた息を整え、食い入るように女を睨みつけた。目を向けたまま、じりじりと後ずさる。

 広場の反対側まで回り、50メートル以上の距離をとった。また眠りに落ちないように今度は立って見張ることにしよう。


 そのまま長い一夜が明けた。

 8時を過ぎ、中央広場にいつもの騒々しさが戻った。時間が進むにつれて人が増え、再び女の姿が行き交う人々に遮られはじめる。そうして気付けば女との距離は2メートルほどにまで縮まっていた。

 距離をとろうと一歩足を引いた時だった。不意に、びたっと不自然な姿勢で固まっている男が視界の片隅に入った。右足を前に突き出し、腕を中途半端に上げたまま、2、3歩先からこちらに体を向けている。

 そこではっとした。

 そうだ、そもそもだるまさんが一人だけとは限らないじゃないか。二人――いや、それ以上いてもおかしくないはずだ。咄嗟に男へ目線を切り替える。

 男はすぐに何かを思い出したかのように踵を返して立ち去った。彼はただの人間、ただの思い違いだったのだ。

 すぐさま女の方へ向き直る――が、

 いない。

 ――しまった、見失った。

 半狂乱で首をねじるように振り向く。右に左に――

 がっ――

 突然、首が止まった。後ろから両手で頭をがしりと掴まれ、首を動かせない。10本の冷たい指が側頭部にめり込み、耳の奥でみしりみしりと音が鳴る。

 続いて、耳を劈くばかりの甲高い笑い声。すぐ後ろから悲鳴にも似た笑い声を狂ったように張りあげ続ける。その体の揺れが腕を通して伝わってくるほどだ。

 意識とともに遠ざかる笑い声――。


 覚えているのはそこまでだった。

 気が付けば、人の往来のただ中にいた。寄せては返す人の波。それでも私は誰ともぶつからず、誰とも目を合わせることなく、只々その中に突っ立っている。

 ああ、そういうことか――。自嘲めいた笑いが込み上げる。だるまさんがころんだ――

 今度は私の番ということか。

 鬼を探さないとな――


 雑踏の中へ、はじめの一歩を踏み出す。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

だるまさん 東方雅人 @moviegentleman

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ