第2話 だるまさんがころんだ
この奇怪な法則に気付くまでさほど時間はかからなかった。
女は私が目を向けるたびに近づいているが、実際に動いているところは一度も目にしていない。不自然なまでに動かないのだ。まるでビデオの一時停止ボタンを押したかのような、ぴたりとした動きの途切れ。
背を向けて彼女から遠ざかろうとしても縮まらない距離。振り向くたびに微妙に変わる姿勢。それらが指し示すものは、実にシンプルな二つの法則だった。
それに気付いてしまった今。もはや、まばたき一つでさえも恐ろしい。
この事態をなんとかするために、ある友人に電話をかける。彼は学園祭の実行委員会に所属していて、知人の中では最も人脈が広い。自分一人では打開策が見つからず、誰かに助けを求める他なかった。
彼にこの手の話に精通した人物を知らないか聞いてみると、久坂という学生を紹介してくれた。なんでも彼はオカルト研究部の部員で、超常現象やオカルト系のネタを蒐集しているのだとか。
携帯電話を目線の高さまで上げて、キーパッドと女を交互に見ながら教えてもらった番号を入力する。
電話に出たのは、拍子抜けするほど眠たそうな声をした男だった。
女から目を離さないように細心の注意を払いつつ、事情を矢継ぎ早に話す。
赤い服、白い目――自分でも荒唐無稽に感じる話を久坂は動じる様子もなく適当な相槌を打ちながら聞いていたが、見ていない間に女が近づいていることを伝えた途端、私の話を遮って言った。
「今、その女はどこに?」
その声色には微かな緊張が滲んでいた。
「目の前に――」と私が言い終えるのを待たずに、
「決して女から目を離さないでください」
「は、はい。でも、どうして?」
久坂は何かを思案しているのか、しばらく黙り込んだ後、
「もしかしたらそれは、だるまさんじゃないかな」
「だるまさん?」
「T大学に伝わる"学園都市伝説"の一つでね、赤い服の女が近づいてくるんです。見ている間は微動だにしないのに、見ていない間にじわじわと近づいてくる。ほら、それって"だるまさんがころんだ"って遊びと同じルールでしょう。それに、赤い外見に白い目。だから、"だるまさん"なんですよ」
「どうして見ている間は動かないんですか?」
「分かりません。どういうわけか目を向けている限りはぴくりとも動かない。だから、だるまさんに目を付けられた者は片時も彼女から目を離せなくなる」
私が言葉を失って黙り込んでいる間も彼は話し続けた。
「でも、怪奇現象や怪異と呼ばれる類のものは往々にしてそういうものなのかもしれません。人知れずこちらの世界に侵蝕してくるのです。だるまはいくら転んでも起き上がるけど、誰も見ていないところでは寝転んでいるかもしれない。そんな奇妙な発想が『だるまさんがころんだ』というフレーズの由来だとする説もあります。つまり、誰も見ていないところでは何が起きてもおかしくないということです」
「では、そのだるまさんに捕まったらどうなるんです?」
「残念ですが、それも分かりません。この都市伝説には"オチ"がないのです。近づいてくるというだけで、その続きがない。そもそもだるまさんはなぜ近づいてくるのか、その理由や目的さえも不明です」
しばらくの間を置いて、
「ただ、僕個人の意見を言わせてもらうと、だるまさんの目的は他でもない、あなた自身ではないかと思っています。正確にはあなたの体、つまり、あなたに取り憑こうとしているんです」
「私に?なんで――」
「おそらく、あなたが彼女を見つけたからでしょう。だから彼女もあなたを見つけた。だるまさんは自分のことが見える人間を探していて、その人間に憑依しようとしているのかもしれません。だとしたら、この話に結末がないことも頷けるし、赤い服を着ているのも人の目を引くためだと考えれば腑に落ちる」
「助かる方法はないんですか?」
しばしの沈黙。
「考えられる手は二つあります。一つは、ひたすら逃げ続けることです。車でも電車でもいい、とにかく距離をとって女にあなたを見失わせるのです。ただし、それで彼女から完全に逃げ切れるという保証はありません。この先あなたを探し出さないとも言い切れない」
「では、二つ目は?」
「もう一つは、女が動かないようにずっと見続けることです。あなたと同じく彼女が見える者に協力してもらって交替で見張る。霊感がある者なら何人か知っているのでこちらで用意は出来ます」
「ですが、それでは――」
「そうです。どちらにせよ根本的な解決にはなりません。あくまでも急場凌ぎです。最も確実な方法は霊能力者に女を祓ってもらうことですが、残念ながら僕には当てがありません。なんとか探してみますが、過度に期待はしないでください」
「分かりました。お願いします」
「とにかく今は見通しが悪い場所を避けて、開けた場所で女を見張っていてください。こちらからまた連絡します」
久坂は電話を切る間際、もう一度私に釘を刺した。
「しつこいようですが、くれぐれも彼女から目を離さないでくださいね。たとえ何があっても」
無音になった携帯電話をなおも耳に押し当てたまま、しばらく動けずにいた。
女が近づいてくる恐怖は、もはや死が迫る恐怖と同義だった。
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