1 9 9 3 / キ ー ウ ェ ス ト



 白く光る砂。

 そこに、白い波が打ち寄せては、後ずさる。何度も何度も。豊かリズムで。ひとに沈黙を与える、おだやかなリズムで。

 わたしは靴を脱ぎ、素足になってその波打ち際を歩いてゆく。

 ここ、キーウェストの浜を歩く時、心は決まって、我が故郷ミ・ティエラ、キューバに向かう。


 いつもはマイアミで録音されるわたしのレコードだけど、今年リリースしたそのアルバムは、ここキーウェストで録音した。

 何人ものとびきりのキューバン・ミュージッシャンを録音スタジオに招き入れるのは、本当に心躍る体験だった。

 そしてリリースされたそのレコードは、わたしに始めてのグラミーのトロフィーをもたらした。

 わたしはこれまでにも何度かそのアワードの候補になったことはあった。しかし、グラミーはついぞわたしにほほ笑むことはなかった。アワードの栄冠がなくても、コンサートツアーに足を運んでくれる、アルバムを買ってくれる人たちがいれば、そんなものはちっとも気にならなかった。自分にずっと、そう言い聞かせてきた。

 でも、今年のグラミーのラテン部門最優秀賞アルバムにノミネートされ、その候補者としてステージに上がった瞬間、今まではとは違う思いが胸に去来した。つまり、このアルバムの受賞は、アメリカという市場にとっての大きな意味を持つであろう、ということだ。

 その時わたしの耳には、このアルバムの企画を最初に打ち明けたマネージャーが言った言葉――政治的ポリティカル――が、重い意味を持って立ち上がってきた。





 わたしは、わたしのごく個人的なルーツを明らかにするために、このアルバムを制作することを思いついた。そして志を同じくする夫とともに、このアルバムの楽曲を書き下ろした。サウンドに関しては、これはストレートに、古きよきハバナの世界を再現することを試みた。そしてリリック(詞)については、わたし自身の心情を率直に吐露した。今までは、アルバムごとにさまざまなキャラクタを設定し、それぞれの女性たちが語る愛の世界を描いてきたけれど、ここでわたしは初めて、自分自身をストレートに詩のなかに込めた。だからこのアルバムは、わたしにとって極めてプライベートな作品になるはずだった。


 そして収録時、わたしは何度も感極まった。

 自分の中で押し留めていたものがあふれ出し、感情を抑えきれなくなることがたびたびあった。それはわたし自身の言葉にならなかったさまざまな感情、―――郷愁や、憧憬や、恋慕や、失意や、怒りや、歓喜がかたちになっていったせいなのだと思っていた。


 しかしこのアルバムをリリースすると、最初にラテン・アメリカ方面でのセールスが非常に好評を博した。その後アメリカ国内でのラテン・チャートでも高順位を維持し続けた。

 それはわたしにとってとても意外なことだった。

 これはいわば、わたしの芸術家アーティストとしてのアイデンティティーの表明としてのアルバムだ。マーケットの事情を考慮せず、これまでのセールスの産物として制作が許された作品のはずだった。レコード会社の態度も、「一枚ぐらい、おまえの好きなようにしたアルバムをリリースさせてやる」という、わたしのキャリアの上ではボーナスのような扱いのアルバムだった。

 よってこれは大きなセールスを期待されていなかった。事実、当初はプロモーションビデオの制作なども予定さていなかったほどなのだ。しかし結果は見ての通り。わたし達が予想しなかったほど、世界はこの、キューバン・サウンドを求めたのだった。


 そして、わたしはグラミーのステージに立つ。

 ラテン・アルバム部門の候補者として紹介を受け、いったん席に戻る。司会者が金のナイフで受賞者の名前の入ったカードを開き、ドラムロールが鳴り響き、そしてわたしにスポットライトが当った瞬間、わたしの頭は真っ白になった。あぁ、としか言葉が出なかった。あぁ、神様Oh, my God、と。

 やがて夫に手を引かれ、わたしはステージに上がった。受賞者として、このステージに立つ日が来るなんて。マイケル・ジャクソンや、エリック・クラプトンが客席からわたしに拍手を送っていた。司会者にうながされて、わたしは受賞のスピーチを行った。


 本当は、キチンとしたあいさつ文を考えてあった。もしものために、自宅でスピーチの練習までした。コンサートのMCは練習なんてしたこともないのに。

 そして壇上で。パートナーやレコード会社、家族への感謝の言葉をつぶやいた後、わたしは何を話せばいいのか、わからなくなった。頭のなかがまた、真っ白になった。こんなの、何年もコンサートステージを勤めているけど、初めてのことだ。ひどく緊張して、喉がからからになった。

「Muchas gracias.(どうも、ありがとう)」

 その言葉がスペイン語で出た後は、自然にその言語スペイン語で、わたしは受賞スピーチを行っていた。隣にいたプロデューサーであり、音楽でのパートナーでもある夫が、機転を効かして通訳を買って出てくれた。

「わたしはこのレコードを、ハバナに住む人たちに捧げます。

 最初は全くの趣味で作り始めたアルバムでした。

 けれどもリリースして、ラテン・アメリカで、そして合衆国内でのチャートでこのアルバムがランクアップしていくのを見ていて、このアルバムの意味をわたしは悟ったのです。

 わたしは音楽ムージカ政治ポリティカのことを持ち込むのは間違いだと思っていました。

 音楽とは楽しむためのもの。美しくあるべきものだという思いをずっと持っていました。

 皆さん知ってのとおり、わたしの出自は亡命キューバ人です。わたしはずっと、カリブ海のあの島のことを想いながら大人になりました。そして、キューバのリズムをこの合衆国のロックと融合する音楽を作ってきました。

 けれども今回、はじめてキューバの音楽をストレートに表現しました。

 わたしがここで伝えたかったのは、古きよき時代の、美しいキューバの音楽でした。

 フィデル・カストロが政権を執り、人々の生活レベルをコントロールし始める前、キューバがあるべき姿でいた時代のキューバの空気でした。

 音楽とは、楽しむためのものです。けれども同時にそれは、『かくあるべきだった世界』を描き出すことだってできるはずです。

 わたしは政治家ではありません。だからあえて、政治的な発言は控えてきました。

 しかし、わたしの父は、フィデルに反抗する政治犯として、長く、キューバの刑務所に捕らえられていました。

 わたしは、音楽で、伝えたいのです。

 それが政治的ポリティカであろうがなかろうが。

 わたしの正しいと信じることを、これからも、伝えていきたいのです」


 マイケルが、エリックが、TLCが、レッド・ホット・チリ・ペパーズがスタンディング・オヴェイジョンでわたしを迎えてくれた。

 アメリカ合衆国が、多様性のこの国が、マイノリティのわたしの歌と言葉に耳を傾けてくれた。

 わたしは、そしていま一度、神に感謝をした。





 あれから1ヶ月。

 わたしたち家族は休暇をとり、世界をゆっくり旅してまわった。

 アカプルコからマイアミへ帰る途中、わたしはひとり、またこの地へ立ち寄った。

 合衆国最南端の地、キーウェスト。国道1号線R1の起点にして、キューバまで100マイルのこの島へ。

 ニューヨークはまだ氷づけだろうけれど、キーウェストの4月はもう春真っ只中だ。まだすこし冷たい海の水を爪先にじゃれ付かせながら、わたしは波打ち際を歩いてゆく。

 ―――近いようで遠い島。

 世界をコンサートツアーで巡ったわたしだけれども、いまだに自分の故国への入国は許されない。

 それでもいつか、あの島の人々がわたしを笑顔で迎えてくれることを信じている。

 あの島の政府とそのリーダーには同意できないけれど、無邪気な笑顔を持ち、底抜けに明るいリズムを産んだあの島の人々はきっと、わかってくれると信じている。

 すぐには叶わない夢だろう。合衆国にも経緯とプライドもあろう。

 しかしわたしのような人間こそが、このR1をもっと南まで伸ばすべきなのだ。人々との連携で。多くの人々の力で。

 音楽は続く。

 人々の胸の中で。

 この、波のように、寄せては返しながら。

 わたしは、“mi tierra”と名づけたこのアルバムのタイトル曲を口ずさみながら、水平線の向うを眺めていた。









 El fin (終)




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ミ・ティエラ フカイ @fukai

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