昨日、世界が滅亡しました。

伯灼ろこ

序章

世界が滅亡した次の日

 10年前、2016年2月15日に世界が滅亡するとアメリカ航空宇宙局NASAが発表をした。理由は単純で、隕石の衝突――らしい。どう足掻こうが滅亡は避けられない未来として全世界に絶望が蔓延した頃、アメリカ合衆国大統領はメディアの前へ立った。

『滅亡のその日まで、精一杯、生きましょう』

 短くまとめられたメッセージは、混乱に陥ろうとしていた人々を落ち着かせたかのようにみえた。


 *


――2016年2月16日

 その日はたぶん、今までにないくらい爽快に晴れた朝だったと思う。私は家の中に射し込む強い朝日から逃れるように顔をそむけ、ゆっくりと瞼を開いた。ぼやける視界に映るのは、明るいオレンジ色の髪をした少年の寝顔。自分の弟であるとすぐにわかった。その上にぶら下がる母親の首吊り死体と、横たわる父親の死に顔さえ無ければ、ごくごく普通の目覚めとなった日だったかもしれない。

 上体を起こすと腹部が痛む。高校の制服を着たまま眠ってしまっていたみたいだが、そんなことはどうでもいい。私は赤く血濡れた服をめくりあげ、腹に巻かれた包帯を見て首を傾げた。

「傷……触ると開くから」

 包帯を外そうとしていた私の手に男の子の手が被さり、動作を止めた。

「せっかく僕が巻いてやったんだから、治るまでそのままにしてろって」

 いつのまにか目を覚ましていた弟が、私と顔を突き合わせた状態で口を尖らせている。

「――てか」

 弟はオレンジ色の髪を無造作にかきまわし、窓の外に広がる世界へ向かって安堵とも嘲笑ともとれる息を吐き出し、鼻を鳴らした。


「世界、滅びてねーし」


 あーあ、と弟は言う。無残なる骸と成り果てた両親の死体には目もくれず、ただ笑いながら「りつと二人だけの世界になった」と。

 それもいいんじゃない。私は返した。

 あれだけ滅びると言われていた世界、NASAが正式に発表をした揺るぎない事実、それは運命たる2016年2月15日を素知らぬ顔して過ぎ去った。

 ――隕石など、落ちなかった。

 しかし、世界には確かに滅亡が訪れていたのである。

 確定事項として予告されていた隕石は落ちず、平穏なる次の日を迎えた世界にはしかし、人の息吹がなかった。静かに佇むビル群、街角の商店街、学校、近所の家――賑やかな音を発信するはずのそれらの近くには、ごろりと転がる骸が無数。この家の中にある母親と父親と同様、物言わぬ死体たちで埋め尽くされたこの世界は、確かに、滅亡したのかもしれない。

「本当に私たち二人だけになったのかな」

 窓辺に立つ弟に寄り、私は訊ねる。

「ここから見渡す限りはたぶん、そう」

 弟は答えた。建物だけが残された、生気の無い雫石市しずくしを見渡しながら。

 腹が疼く。鉄が肉をずぶずぶとかき分けていった感覚がまだ鮮やかで、私は小さく唸り声をあげた。振り返った視界に入る父親の顔がニヤリと笑んでいたような気がしてならない。歪む私の表情に気づいた弟が、父親の顔を黒いビニール袋で覆って見えなくしてくれた。


 世界が滅びて数日が経つ。時が止まった世界の中に取り残された私たち姉弟は、よく一緒に出掛けた。バスも電車も動いていないから行動範囲としては狭いけど、自転車に跨がり、コンビニやスーパーに立ち寄ってはおにぎりや飲み物を調達してピクニックへ、散乱する死体を飛び越えて道路の真ん中を走り、百貨店でずっと欲しかった服や鞄をもらっては着飾って互いに見せ合い、陽が暮れたら高級ホテルのスイートルームにお邪魔して。お風呂に入ろうと蛇口をひねり、水が出ないことをつい忘れていた私は弟と顔を見合わせて笑う。二人で屋内プールへ飛び入って、これでいいかと頷く。

 姉弟だけでこんなに遊んだことはないし、楽しく思えたのも初めてだ。でも、夜になる度に、月明かりしかなく、空と風の音しか聞こえない街が怖くなり、弟に抱きしめてもらわないと眠れなくなった。


 実家で過ごしていたある夜、居間に設置されたテレビの前で弟は座り込み、一点を見つめて深く考えこんでいた。

かなで

 私は弟の名前を呼んだ。弟――一色奏いっしきかなでは、姉の顔を認め思案が定まるや否や浅い息を吐き出す。

「まぁ、問題は色々と山積みなわけだけど――うん、まず、この放送を聞いてくれる?」

 放送? 首を傾ける私に奏は、電池式のラジオを指差す。そこからは、滅亡してから聞くことのなかった“ヒトの息吹”が流れていた。

 “息吹”は、雑音に紛れて聞こえにくいなんてことはなかった。全くもってクリア且つ、訴えるように力強く私たちに語りかけた。


『この通り世界は滅亡したわけだ。NASAの戯言を盲信した人々による自滅行為によって。しかし、我々のように戦火から奇跡的に逃れられた者たちが少なからず残っているはずだ。今、絶望しながらも生きている者たちに伝えたい。沙京己さきょうこへ来い! ここでは日本各地から生存者たちを集めて共に暮らしている。電気も通っているし、水道からは水だって出る。食料も自給自足可能なシステムを作り上げた。そう、かつての“人間が生きる世界”を取り戻す為に! ……だがまだまだ人手が足りない。生き残った強き者たちよ、どうか力を貸してくれ。そして共に顔をあげて生きよう。……ああ、自己紹介を先にしておくべきだった、すまない。しかし困ったことに結成したばかりの我々にはまだ正式な名称が無いんだ。これから生存者皆で考えていきたいと、そう考えている』


 放送は、同じ呼びかけを繰り返していた。一通り聞いた私は自分たち以外に生存者がいた喜びよりも、二人の今後を決める日についに立たされたことを焦っていた。

「奏……私たち、これからどうするの?」

「たぶん、選択肢は無いだろうな。律も気付いてるだろうけど、この街の食糧が底を尽き始めている。冷蔵庫が機能を果たさない今、腐っていない食べ物を探すことに時間をかけるようになってきた。今が幸いなことに冬だからこれまで保ってはきたけど……そろそろ限界だ」

 電気もガスも水道も供給してくれる人間がいない今、この世界は超文明の残骸だけが無様に佇むだけ。

「ラジオの呼びかけに応えるのね?」

「生きるためには」

「でもなんか矛盾してるね。10年前からずっと自分たちの死を覚悟してきたのに。あの運命の日、お父さんに殺されることよりも、世界に殺されることを選んだ私たちが……今は、生きたいとか」

 ズキズキと未だ痛む腹の傷を抑え、精一杯の笑顔をつくる。

「僕は誰かに殺されたいとか考えたことないよ。運命ならば仕方ないと諦めたこともない。誰が死んでも、僕と律が助かるならその道を迷いなく選ぶ。今までもそうしてきたから、これからも」

 おそらくすでに答えを出していた奏は、二度と帰ることのないかもしれない我が家の整理を始めた。

「まず、この臭ってきたをどうにかしないと」

 目を伏せていてくれて構わない。奏はそう念押しをし、滅亡の日からずっと居間にぶら下がったままだった母親を降ろし、起きることのない父親と共に庭へ押し出し、二人が重なったところでライターの火を投げつけた。

 赤く黒く燃えてゆくのは、世界の滅亡を待たずして自ら死を選んだ私たちの親だ。まさか子供たちの道連れも考えていたなんて、そこまで思い悩んでいたなんて知らなかった。だって、米国大統領の「最後の日まで普段通り過ごしましょう」という言葉に全国の人々が頷いていたはずだから。

 私の頬を伝うものを見た奏が嘲笑う。

「なぁ律。こいつらは、“運命に殺されるくらいなら、殺し返してやろう”という極限思想が滅亡前日となって急激に世界中へ蔓延し、まんまと感化された大馬鹿野郎なんだぞ。自分の家族を殺すことによって運命にあらがうとか、どうかしてる」

「でも……奏はお父さんを殺した」

「律の腹を包丁で刺すからだよ。隣りでは母さんが首吊りの準備をしてたしさぁ、ああ、こいつらもうダメだって思った。せめて姉さんと最後まで生きたいって……必死だったんだよあの時の僕は」

 運命の日を振り返る奏からは後悔の一文字も感ぜられない。私はどうだろう。後悔なんて言葉がおこがましいほどなにもしていない。ただ普通に生きて、殺されかけて、助けられて、生きている。行くべき先を選んでいるのは、いつも弟だ。

 夜って、こんなに明るかったっけ。月と星しかないまるで原始世界のようなのに、白い煙が天高く昇ってゆく様がとてもよく見える。ああ、違う。たぶん、夜はいつも明るいんだ。世界が光で満たされていた頃は、知らなかっただけ。

「さぁ、今日が一色家で暮らす最後の夜だ」

 鎮火したころ、奏は立ち上がる。彼のあとについて家の中へ入ると、知らず心へ浮かぶのはこれまで生きてきた18年間の思い出だ。人生の半分以上が滅亡と隣り合わせの最悪なものだったが、今となると楽しかった出来事しか思い出せない。皮肉なものね。

「明朝、街を出る。荷物をまとめるなら、今のうちに――」

 両腕を回し、頬を背中につけると奏は言葉を途切らせる。共に育ってきた弟の身体はとても温かい。私はどうだろう。温かいといいな。

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