最終話
翌朝、三千の兵は五百にまで減っていた。魏延直属の三百の騎兵は、誰一人として欠けていない。
「これほど多くのものが残ってくれたのか」
素直に驚いた。残っても百に満たないと、そう考えていたからだ。
「父上、王平の軍は二万です」
「あの小童相手には、五百でも十分すぎる程の兵力だ。調練代わりに追い散らしてやろう」
全員が、死を覚悟した兵である。憑き物が取れたような、清々しい顔をして笑っていた。
食事は軽めに済ませる。残った食料はみな焼き捨てた。ここで死ぬのだ、翌日の飯など要らないと、思い定めた。
五百の兵を全て騎兵として、小さく固まらせる。先陣は、魏豊である。魏延は自ら先頭に立つつもりであったが、楊儀の首を取るまで休んでいてくださいと、魏豊は頑なに先頭を譲らなかった。
王平の陣営から、銅鑼の音が響く。軍を三段に分け、鼠一匹漏らさないと言わんばかりの堅陣である。
例え五百騎であろうと、決して油断はしない。病的なまでに慎重な、王平らしい陣形と言えた。
法螺の笛が鳴る。五百の騎馬は一斉に駆けだした。平原が陰る程に降り注ぐ矢の雨、しかし騎馬隊は雨が届くよりも早く前に前に加速する。
王平軍の陣形が変わる。前面に出たのは弓兵でなく、弩兵である。そして左右が五百騎を圧し包むように囲み始めた。
合図。弩兵から矢が直線で放たれる。魏豊が腕を縦に振ると五百騎は散会し、誰も居なくなった空間を弓矢が虚しく通過する。そして再び、五百が一つの塊となった。
弩兵を庇うように、盾兵が前で構えた。それでも、これまで一度も減速していない騎馬隊は、その盾をあっさりと突き破る。
魏豊が槍を振るえば敵兵は道を開けるようになぎ倒され、配下の騎馬隊が左右からの圧力を物ともせず、中央を走る魏延を守る。
「第一陣、突破されました!討ち取った敵兵は僅か十騎のみ!」
敵は僅かに五百だぞ。王平は怒鳴りたい気持ちを堪えて、第二陣に指示を出す。
五千人を配置した包囲をあっさりと突き破る。これが劉備に見出された魏延の力。これほどまでに圧力を感じる戦が未だかつてあっただろうか。
第二陣は、魚鱗と呼ばれる陣形である。一塊になった陣形で、中央に行くほど兵が厚くなる。流石にこれを突き抜ける事は出来まい。王平は前進を命じる。
すると騎馬隊は三つに分かれ、まず、魏豊の隊が切り込んだ。
浅く切り込み、横に抜ける。後続の隊がすかさず切り込み、また、離脱を繰り返す。鱗が少しずつ重なり、剥がれてゆく。陣形が徐々に崩れ、連携が上手く機能しなくなる。どうして勢いが止まらない。たかが、五百ではないか。
ついに、魚鱗が剥がれた。流石に騎馬隊は、半数まで削れている。それでも、魏豊、魏延は健在。残っている騎馬隊は全て、魏延が鍛え上げたあの直属の配下達である。
ただ、第一陣の兵が左右に回り込んでおり、騎馬隊に押し寄せた。
魏延を守る様に配下の兵が捨て身で左右にぶつかり、道をこじ開ける。少しずつ、少しずつ、衣が剥がれるように騎馬隊は削れていくが、勢いだけは止まらない。
まだだ、まだ。
汗が滲む。後退の命を出したい気持ちを抑え、魏延の目を正面に見据え続ける。
「────放て!!」
前後左右と、既に騎馬隊に逃げ場はない。引き付けるだけ引き付けた。王平の居る第三陣から弩兵が前へ出て、無数の矢を放つ。兵に、馬に吸い込まれ、突き立った。
しかし、それでも、倒れない。
「化け物が……っ」
特に先頭を駆ける一騎が、鬼神の如き働きをしていた。体中に矢が突き立ってもなお槍を振るい、道を開く。
それでも、既にその数は百に満たないのだ。第三陣を更に前進させる。これでもう、逃げ場はない。
「出てこい、王平!大将軍魏延が長子、魏国鎮がお相手仕る!!」
このまま押し潰せば、何一つ危なげなく勝てる。そう、頭では理解している。それなのに王平は長剣を携え、馬に乗った。
自分らしくないと、分かっていた。それなのに、どうしてこれほどまでに血が滾る。ここで出なければきっと、自分は武人ではなくなるだろう。
「道を開けい小童がぁ!望み通り、この王子均が相手になってやろうぞ!」
配下の制止を振り切り、千の騎馬隊を携えて魏豊の真正面から突撃した。
魏豊に向かって行く騎馬兵は、ことごとく打ち倒される。王平自ら、前に出た。
刹那、馳せ違い、首が飛ぶ。
馬は倒れ、槍が、地に落ちた。
「我が息子よ、父の名を汚さぬ、立派な最後であった」
魏豊の首が飛び、次に眼前に迫ったのが、魏延である。
まるで全身が凍る様な感覚に襲われた。
これが、敵として現れた魏延の姿か。今の蜀軍における、最強の猛将。
「王平よ、この魏延と刃を交わせること、誇りに思え」
「息子と共に、戦場で散れ!魏延!」
一瞬であった。何が起きたのかも分からないうちに、王平は地面にたたき落とされていた。その凄まじい衝撃で、意識が飛びそうになる。
死んではいない。分かったのは、それだけであった。
魏延の騎馬隊は、二万の兵を前に直線で駆け、ついに突き抜けた。
まさに、圧倒する様な武。魏延らが向かった先は、全ての始まりの地である、漢中の方角。楊儀が、軍を率いて退却している方向でもあった。
生き残ったのは、四十騎である。体に傷を負っていない者など一人もいない。魏延の体にも、幾本もの矢が突き立っていた。
既に、血を流し過ぎている。薙刀を振るう力は残っていない。代わりに、長剣を握る。まだ、戦いを辞めようとは思わなかった。
王平の軍を振り切り、山中でつかの間の休息を取った。山の水が痛いほどに、体に染み渡るのが分かる。
「よく、これだけ生き延びたなと思う」
皆、馬を休ませていた。しかしもう、これ以上駆け続けるのは無理だった。
魏延の愛馬も、安全な場所まで駆けると、そこで突然息絶えた。何本も矢が突き刺さっており、それは肺にまで達していた。逆にここまで駆けてきたことが奇跡なのである。
「若殿は、実に見事な最期でございました」
「一番先頭で駆け、最も多くの矢を体に受け、それでもなお槍を振るう息子の後ろ姿を見るのが、親としてこれほど苦しいとは思わなんだ。王平に首を飛ばされるよりも前に、既に息絶えていただろうな」
思い返せば、褒めてやったことなど一度も無かった。
それでも常に戦場では魏延の側から離れず、どれほど苦しい調練でも音を上げなかった。自慢の、息子であった。
魏豊の首が飛んだあの瞬間に、魏延の中で何かが切れた気がした。
心はまだ、身を焦がすほどに熱く、戦いを求め続けている。しかし、体が全く動かない。
「お前らに、最後の命令だ。全員、生きて帰ってくれ。必ずだ。漢中に戻り、自らの妻子を、親を、守れ。お前らは、魏延に付き従った大罪人なのだ。その罪は親族にまで及ぶ」
「既に我らは皆、大将軍の兵でございます。どうして、将軍を捨てて逃げれましょうや。妻子も親の命も捨てて、将軍にお仕えする。それが我らの誇りでございます」
「ならば尚更、逃げてくれ。そして、この国に最後まで忠誠を尽くした、不器用な将軍が居たことを、子に語って欲しいのだ。お前らが語らねば、俺は本当に、ただの反逆者として死ぬだけだ」
「それは、それは……あまりに酷な命令に御座います。どうか共に死なせて下さい。死ねと、我らにお命じになって下さい」
魏延は首を振る。配下の兵達は、血の涙を流す程、懇願した。それでも魏延は、優しく微笑むだけであった。
「生きるのだ。今、この時より去らねば、主人の死の際に裏切った不忠の者とするぞ」
ようやく、一人、二人と腰を上げ、木々の中に消えてゆく。どこまでも、慟哭する程の泣き声が聞こえていた。
しかし、三名の配下のみが、決して離れようとはしなかった。
「我らには、妻子も、親も、親族もありません。例え不忠の者と呼ばれようと、最後まで、お付き合いいたします」
「……参ったな」
魏延と、他の三人は重い腰を上げ、剣を握った。
既に囲まれている。しかし、不思議と敵意は無い。木々の間より一人、魏延の前に出てきた。
「馬岱殿ではないか」
「ご心配なく。先ほど山を下りていた兵達は捕らえておりません。必ずや、漢中まで無事に辿り着かせましょう」
悲壮な面持ちの馬岱は、その場に膝をつき、頭を地面に打ち付けた。周囲を取り囲む兵も皆、同じように頭を下げている。異様な光景だった。
「魏延大将軍。我らに降っていただきたいのだ!将軍が居らねば、誰が魏と抗し得るというのです。丞相亡き今、将軍はこの国にとって最も必要な御方なのです。恥も、外聞も、誇りも、志も、その全てを一度でいいので、折って下され。例え楊儀が、陛下が、将軍の処刑を命じたとしても、私が必ずお守りいたします。全てを投げ打ってでも、命だけはお救い致します!どうか、どうか、剣を下ろしていただきたい」
それでも、剣は下ろさない。
魏延も含め、四人の剣の切っ先は、常に前を向いている。
「お心遣い、痛み入る。されど、立たれよ馬岱殿。そして、剣を握れ。魏延という男がどういう男か知っておろう。一度でもそれを折れば、生きる意味を見出せぬ男だ。お前がこのまま立たねば、その首を斬り、お前の部隊を俺が使ってやる。楊儀の首を取るその瞬間まで、もがき続けるぞ」
そこでようやく馬岱も立った。剣を抜き、対峙する。
涙は、流すまい。悲しむのは、全てが終わってからいくらでも出来るのだ。
「殺す気で行くぞ、馬岱」
「さらばです、将軍」
土が蹴られ、剣が交わる。
ここに、劉備の夢を継ぐ、最後の武士が潰えた。
一つの時代が終わったのだ。馬岱ははっきりと、それを感じた。
裏切り者と呼ばれた将軍「魏延」 久保カズヤ@試験に出る三国志 @bokukubo_0123
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