第5話
ひとしきり吼えた後、意識を切り替える。死には、慣れ過ぎていた。悲しむのは、後からいくらでも悲しめばいい。それに今は、やるべきことが他にある。
魏延は魏豊の他、配下の者達にすぐさま軍をまとめるよう指示を出す。この際、必要最低限なものだけを携え、兵糧や無駄な装備は捨て置く様に言った。
既に馬岱も、自分の軍をまとめて合流していた。兵装もまばらで、慌てて駆け付けてきたことが見て取れる。
「魏延将軍、一体、これはどういうことなのだ。丞相が息を引き取られた、それは分かった。しかし何故我らは、本軍からの伝令が一つも無いまま、戦場へ取り残されねば……」
「全軍の指揮を預けられたのが、楊儀だ。それで全ての説明がつく」
魏豊や馬岱が軍をまとめている間に、魏延は書状をしたためていた。剣は毎日握っているが、筆を握ったのがいつぶりなのか、思い出すのも面倒である。
簡潔にまとめたその文を、魏延は伝令に持たせる。
「急ぎ陛下へ届けよ。時は一刻を争う」
「はっ」
「馬岱殿、国鎮、すぐにここを発つぞ。司馬懿の事だ、既に丞相の訃報を知っておろう。このままでは我らは魏軍に成す術なく押し潰される」
武具と馬、それだけあれば充分である。それも、軽装で良い。他のものは皆捨てさせた。
ふと、楊儀が脳裏に浮かぶ。馬にも乗らない為、丸く小柄な体格。口を開けば人を妬み、中傷する、小汚い鼠の様な顔だった。
互いに嫌い合っている、そんな甘い関係ではない。魏延も楊儀も、本気で相手を殺したいと思う程に嫌っていたのだ。諸葛亮の手前その一線が越えられることは無かったが、今や諸葛亮は亡く、実権は全て楊儀にある。諸葛亮は死の際にこうなる事の予想すら出来なかったのだろうか。
「楊儀は我らを置いて行くことで殿の役割を無理やり押し付け、魏軍の足止めを行わせたいのだろう。そこであわよくば我らが死ねばいいと、そう思ってるに違いない。馬岱殿、貴殿は俺と関係が近いが為に巻き込まれたのだ」
恐らく昨晩、費褘が訪ねて来たその時には、諸葛亮は死んでいたのだろう。
費褘は探りに来たのだ。もし、魏延が全軍の撤退に協力的であれば、楊儀と力を合わせることも出来るだろうと。しかし、魏延は戦闘の続行を主張した。この時点で、軍の分裂を最小限にするべく、魏延らを見捨てることにしたに違いない。
「以前より楊儀の狭量さは有名であったが、まさかここまでとは。こうなれば、残された道は三つです、将軍」
馬岱は怒りに震えながら、指を三本立てて見せる。
上策は、一時的にですが、本軍に降伏すること。此度の件は誰がどう見ても楊儀が悪いと見るでしょう、本国に帰った後に陛下へ上奏し、裁きを待つのがよろしい。
中策は、魏軍へ降伏すること。今、魏軍に最も恐れられているのは、魏延将軍でございます。それに、丞相の死、楊儀と将軍の確執、これらを調べれば降伏が偽りであるとは見られません。特に郭淮は、将軍を悪く扱うようなことはしますまい。必ず重く取り立てるよう動いてくれましょう。
そして下策は、本軍を急襲し楊儀の首を取り、丞相の棺を奪うこと。ただ、楊儀はそれを十分に警戒しておりましょうし、私と将軍以外の部隊は皆、本軍についております。勝ち目はそもそも薄く、何より味方同士で戦うのはあまりにも愚かでございます。
馬岱から出された三つの策。魏延はそれを聞きながら具足を縛り、薙刀を握った。
「貴殿の言うその下策が、俺にとっての上策であり、残りの二つが愚策よ。国鎮、馬を持て」
「ただいま連れて参ります」
「なっ、正気ですか将軍!?」
「我らは常に漢中におり、成都から離れていた。諸葛亮の影響力というのは貴殿の思っているよりも遥かに大きいぞ。その諸葛亮が後事を楊儀に託したのだ、事実など関係ない、陛下に訴えても楊儀が、諸葛亮の判断が正しいと言われるだろう。そして俺は、先帝の残された蜀を離れるという心づもりは持っていない。二度と、寝返るなどと言うな。次は首を飛ばすぞ、馬岱」
「されど、このままでは死にますぞ」
「俺の夢を知っておるか、馬岱殿」
こんな状況で、魏延は懐かしそうに微笑む。馬岱は不意に、涙がこぼれそうになった。
「先帝と初めて言葉を交わしたとき、俺は生意気にもこう言った。夢は、先帝の為に天下の道を切り開く、天下一の猛将になることだと。先帝はこれを聞き、まるで子供の様に喜んでくれた。この上なく、嬉しかった。この人を天下人にするためならば死んでも良いと、そう思えた」
魏豊が馬を連れて来た。何年も共に戦を駆け抜けてきた愛馬である。魏延がひらりと飛び乗ると、馬も嬉しそうに首を振る。
「されど将軍、死せば、その夢すら果たされぬ!」
「死など、恐るるに足らず!ただ俺が恐れるは、この誇りが折れる事のみ。馬岱殿は本軍に降られよ、俺ならともかく、馬岱殿を悪く扱うことはするまい」
劉備が生きていれば、例えどんな屈辱にも耐える事も出来ただろう。しかし、その劉備はもう居ない。ただ彼の生き様が、天下統一の志が、交わした約束が、心で強く光を放つ。
天下一の武士。それは、決して誰にも膝を折らず、誰にも敗れる事のない、そういう男の事を言うのだ。戦場にこそ、その道は開かれる。劉備亡き今、この誇りだけは決して誰にも汚させるつもりはない。
魏延は軍を全速力で走らせた。後ろには魏豊がいるが、馬岱の姿は無い。兵数は、僅か三千。本隊は全軍で八万を超える兵数である。
本隊の行く退却路を迂回し、魏延は恐るべき速さで進軍。道を先回りして本隊の退却路の途中にある桟橋を焼き、その足取りを遅らせた。
魏軍も追い打ちを開始。楊儀はその兵力の多くを割いて迎撃に向かわせざるを得なくなった。魏延は、ひたすら待つ。伝令さえ戻ってくれば。それを待っていた。
「父上、伝令には何を持たせていたのですか?」
「陛下への上奏文だ。楊儀が諸葛亮の棺を奪い、反逆したと。そもそも丞相亡き後、大将軍である俺が指揮権を持つのが順当だ、楊儀の性格を考えれば無い話では無い。俺の軍こそが正規軍であるという勅命が欲しい。そうすれば蜀軍のほとんどは、こちらに靡く」
成都に居る蜀帝の劉禅がどちらを正と見るのか、それでこの戦の帰趨が決まる。だから何よりも早く、魏延は伝令を走らせた。
「大将軍、物見に御座います。ただいま、王平将軍がこちらへ進軍中。その数は二万程、夕刻には到着します」
本気で自分を殺すつもりらしい。王平の名を聞いた瞬間、楊儀の意図を理解した。
王平、蜀軍の中で最も守りに長けた将軍である。そして、徹底した軍人であった。決して命令には逆らわず、死ねと言われれば迷いなく死ぬ、そういった男である。
例えかつての味方同士であったとしても、王平だけは、命令通りに迷いなく魏延を斬るだろう。
日は傾き、平原は朱に染まる。魏延の正面に、王平軍の二万は整然と対陣した。
七倍もあろうかという兵力差。しかし魏延の軍は少しも腰が引けてはいない。むしろ、王平の軍の方が弱気にも見える。
これが、常に第一線の戦場で生き抜いて来た魏延の力量である。魏延の下に付けば必ず勝てる、兵はそう信じて疑わない。むしろその強さをよく知るからこそ、王平軍は何倍もの兵力差を持ちながらも、士気が振るわないのである。
「逆賊の魏延よ、出てこい!」
王平である。数騎の配下を伴って、陣の外でしきりに声を上げていた。
「父上、射殺してしまいましょう。挑発に乗る必要はありません」
「待て。俺の敵は楊儀であり、王平ではない。話だけでもしてやろう。お前も来い」
魏延も、配下を三騎、そして魏豊を伴い陣の外へ出た。
小柄な体格で、肌は浅黒い。異民族の出身であるからか、王平の話す言葉はあまり闊達では無かった。
「魏延よ、何故丞相の遺体もまだ冷めぬうちに裏切った!丞相は指揮権を楊儀殿に預けられ、退却をお命じになった!それなのに貴様は殿の務めも果たさず、我が軍の退却の邪魔をし、挙句には兵を挙げて迎え撃つ始末!」
「黙れ王平!丞相の死も、殿の命も我らは聞いておらぬ!丞相亡き後、本来ならば指揮権は俺に預けられるところを、楊儀は遺言を詐称し、軍の指揮権を奪ったに違いない!逆賊なのはどちらの方だ!それに此度の戦は勝てたのだ、陛下に忠誠を尽くす臣下として、敵を目の前に退却するなど命令違反も甚だしい!」
「陛下に忠誠を尽くす臣下だと!?詭弁も大概にせよ!」
王平が手を上げると、傍らの配下が懐から紙を取り出し、それを大声で読み始める。
「陛下よりの勅命である!大将軍魏延は、丞相諸葛亮の死に乗じ兵を挙げ、蜀を裏切った逆賊である!丞相長史楊儀は、これを必ずや討ち果たし、丞相の遺体を無事成都まで帰還させよ!」
魏延の陣営に、大きなどよめきが走った。
勅命に逆らうという事は、祖国に逆らう事である。このまま魏延についていれば、自分達の家族や親戚が皆、処刑されかねないのだ。
「魏延よ、明日の明朝、決戦を行おう」
そう言うと王平は自らの陣営へと戻っていく。
魏豊も、配下の者達も皆、顔を青くして動揺していた。魏延だけだった。翌日の決戦について、既に考え始めていたのは。
陣に戻ると、思っていた以上に兵は混乱していた。これでは、戦にならない。決戦を明日まで待つと王平が言ったのは、武人としてのせめてもの情けなのだろう。
「皆の者、ここに魏延より命を下す」
さほど大きな声ではない。それでも、三千の兵の隅々までよく通る、不思議な低い声であった。
同様の声を上げていた兵士らが全員、声を殺す。静寂だけが、全身を包む。
「聞いての通り、明日の明朝に決戦が行われる。そこで今夜、全ての兵に逃亡を許可しよう。誰が逃げようと、一切の罪に問わぬ」
再び、兵がどよめいた。異例の命令である。
普通ならば一兵でも損じたくはない状況なのだ、監視を厳重にするとばかり誰もが思っていた。
「将軍は、将軍は如何されるのですか」
兵の一人が声を上げる。
若い、兵士であった。まだ魏豊よりも若いだろう、その顔には幼さが残っている。
「俺は、誰が何と言おうと、蜀漢の大将軍だ。先帝の残されたこの蜀漢の誇り高き大将軍は、決して膝を地に付ける事など無く、例え我が身一つとなろうと、必ずやこの戦に勝つ。俺は魏文長なのだ、心配はいらぬ、お前らが居らずとも死ぬものか」
いつしか、皆が泣いていた。戦場で何度この声に救われただろうか、それを思い出して泣いていた。
例え一人の一兵卒ですら、魏延は見殺しにしなかった。逃げ遅れる者が居たら進んでそれを救い、誰よりも先頭で馬を駆けさせ敵を切り伏せる。だからこそ兵士は皆、魏延の為に命を捨てられるのだ。
今や劉備以来の、蜀を支えた猛将はこの魏延ただ一人となった。劉備の志を受け継ぐ、最後の一人である。
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