第4話

 星の降る、夜であった。


 膠着状態が長く続いているが、だからといって怠けていい訳ではない。前線部隊を統括する身として、訓練期間にある兵士には常に陣を出ての野営を命じていた。

 夜間でも常に警戒を怠らない様にしている。つい先日、少数ではあるが遂に魏軍が兵を率いて夜襲を仕掛けてきた。指揮官は郭淮である。魏軍では交戦論の熱が高まっており、まるで弱い者を狙って虐めるように、魏延に部隊を蹴散らされていた郭淮の発言力も危うくなっていたのであろう。小さくても良い、少しでも勝つ必要があると思っての、苦し紛れの出兵であった。

 魏延は、それを半数の兵で打ち破った。何度も調練で踏んだ土地である、例え夜間でも思う通りに兵を動かせた。歩兵で敵の突撃の勢いを止め、そこからは魏延直属の三百の騎馬隊が、郭淮の軍を二度、三度と断ち割った。後は歩兵で圧力をかければ、壊走する。深追いはしなかった。郭淮があっさりと負けた、それを魏軍に伝える者が多ければ多いほど都合が良い。


「ここに居られたか、魏延将軍」

「おぉ、馬岱殿か」


 長く漢中を共に守ってきた、将軍の一人である。攻めも守りもそつなくこなし、決して失敗を犯さない。大胆で果敢な戦を好む魏延の副将として、非常に優秀な将軍であった。

 その人柄は、繊細で真面目。人の何倍も悩み事を抱え込む性質であるが、いざ戦場に立つと、驚くほど素早く決断を下せるような一面もあった。


「そろそろ兵の調練は、他の将軍に任せられてはいかがか。ご子息の魏豊殿も、立派に調練を行える力量をお持ちだ」

「この前線部隊は、長安に一番乗りし、常に先鋒として天下への道を開く軍なのだ。魏軍よりも、呉軍よりも強くあらねばならん。だから、俺が調練をするのだ」

「だからといって、戦の前に兵を疲れ果てさせることもないでしょう」


 馬岱は笑う。そこら一帯に、疲労困憊の表情で泥の様に眠る兵達が居た。ただ、これでも敵の足音が聞こえれば、瞬時に戦闘態勢を整えられるようになっている。そういう訓練も施していた。


「酒でもどうでしょう、将軍」

「いやいや、今は調練中だ。酒は飲まない」

「一献だけでいい、私の我がままに付き合ってほしい。どうも今宵は胸騒ぎがして落ち着かないのだ。これほど、星が降る夜も珍しい」


 確かに、不気味なほどに美しく、流れるように星が降っていた。そして、胸騒ぎがするのは魏延も同じであった。

 馬岱と向かい合うように、草もまばらにしか生えていない、固い土の上に座る。小さな器に、一口にも満たない酒を注ぎ、飲み干した。もっと飲みたいと、体が訴えてくるのが分かる。

 何か言葉を交わすわけでもない。ただ、空を眺めるだけだった。すると、伝令の兵が一人、こちらに駆けてきた。


「大将軍、参軍の費褘殿がお越しです。巡察ついでに、将軍に会いたいと」

「構わん。こちらから出向こう」


 馬岱と共に立ち上がり、伝令の案内に従って歩いた。

 そこには伝令の通り、費褘が一人で待っていた。諸葛亮を補佐する文官の一人で、まだ二十代後半という年齢であるのにも関わらず、国政の重役を担う天才である。


 戦にも出ない立場で色々と口煩い文官が基本的に魏延は苦手であったが、費褘だけは別だった。人間性は明るく大らかで、嫌みなところが無い。軍人に負けず劣らずの酒好きというところも好感が持てた。


「これはわざわざ、大将軍自ら足を運んでいただき恐縮です。それと、馬岱将軍もいらしたとは知りませんでした。ご無礼をお許しいただきたい」

「頭を上げられよ。今日はなんだか落ち着かぬ、それで歩きたい気分だったのだ。それにしても、何故こんな夜更けに巡察など」

「先日、魏軍からの夜襲がありましたので、本軍の方でも警戒を強化しているのですよ。大将軍に会いたいと思ったのは、私の勝手でございます」

「巡察程度、兵に任せればよろしいではないか」

「また丞相の悪い癖が出ましてね。それで私が自ら巡察を願い出たのです」


 諸葛亮は、どんな仕事も自分でこなそうとする悪い癖があった。少しの失敗も許せない質なのか、部下に任せればいい事まで自らの手を伸ばそうとする。ただ、そのせいで体を崩しては元も子もないのだ。国政の長の身でありながら、どうやら巡察まで自分でやろうとしたのだろう。恐らく費褘はそんな諸葛亮を止め、代わりに自分で見回ることにしたに違いない。


「若いのに、気苦労が多いな」

「いえいえこの程度、丞相や大将軍に比べれば」

「それで、費褘よ。何か俺に話したいことがあってきたのではないか?」


 若干、その顔が曇ったような気がした。ただ、暗くてよく分からない。馬岱は変化があったことにすら気づいて無さそうだった。

 魏延は気を使い、伝令と従者の数人を遠ざけた。馬岱と魏延、費褘の三人だけとなる。


「また、丞相が倒れられました」

「……っ」


 これで、二度目である。前回の北伐時にも、数日間意識を失うように倒れたことがあった。原因は分かり切っている。過労である。しかし、それを改めずにまた倒れたというのだ。今の蜀という国にとって、自身がどういう存在なのか、その自覚が全く足りていない。魏延は溢れそうな怒りを何とか鎮めなければならなかった。

 馬岱も驚きを隠せず、身を乗り出す。


「そ、それで、諸葛丞相の容体は」

「前回の様に全く意識が無い訳ではありません。ただ、いつ再び容体が崩れるかは、従医にもわからぬようです」

「腹立たしい、その一言に尽きる」


 ただ、今は怒りに身を任せていい、そんな事態ではない。

 挑発の効果がようやく表れてきたのだ、そんな中、諸葛亮が本軍の指揮を行えないとなると、事態は一気に悪い方へと転じてしまう。前線部隊の指揮権は魏延にあるものの、本隊の、そして全軍の指揮権は諸葛亮にある。それに、敵を待ち受ける罠も、全て諸葛亮の頭の中にある。魏軍は、蜀軍より何万という規模で兵数が多い。普通にぶつかれば、苦戦は必至である。


「費褘よ、丞相が病床に伏せている間、全軍の指揮は俺が受け持ちたい。丞相は意識のある間は自らで指揮なされようとするだろうが、何とか説得してはくれまいか。丞相は簡単に、俺に指示を一言二言与えてくれるだけで良い。今まで、誰よりも丞相と共に戦場を駆けてきたのだ。期待を裏切る様な戦をするつもりはない」

「それは、あまりに急なお話……前線部隊は、誰にお任せになるのです」

「馬岱殿が最もふさわしい、と俺は思う。副将も付けるべきであろうが、それは俺の一存で決めて良いものではない」

「し、しかし」


「何を迷う事がある!明日にでも、いや、今からでも決戦は起きるぞ。戦況は予断を許さぬところまで来ているのだ。そして、勝機はこちらにある。この戦は必ず勝てる。勝てば、追い打ちに追い打ちを重ね、一気に長安まで取れる。亡き先帝が目指された覇業の一歩を、ようやく踏み出せるのだ」


 困惑の面持ちで、しかし、どこか悲しそうで。費褘はただうつむいていた。

「……国へ軍を引き返す。そう、考えることは出来ませんか」

「ならん、それだけは断じてならんぞ、費褘よ。確かに丞相の為を思えば軍を引き返すべきであろう。しかし、丞相も俺も、そしてお前も、この戦場に居る蜀の者はみな、先帝の、そして劉禅陛下の臣下なのだ。忠誠を尽くすべきは、丞相ではなく陛下であり、この蜀漢という国だ。北伐が成される状況を目の前にして退くことは、蜀漢という国に対しての背信以外の何でもない」


 しばらくの沈黙。星はもう流れておらず、同時にピタリと、風すら止んでいた。


「分かりました、大将軍の意志を、伝えて参ります。明日、再び私が大将軍をお呼びしますので、今宵はゆっくりお休みなさいませ」

「頼むぞ」

「さらばです、魏延将軍」


 深く礼をし、費褘は去っていった。

 明日の事を考えて、馬岱は魏延の陣中で待機させることにした。魏延が全軍の指揮を任されたその時に、前線部隊に将が居なかったら、どうにもならないと危惧しての措置である。


 調練を中止し、兵を陣営へ戻らせた。あと、一戦だけでいいというのに。それがどうしてこんなにも遠く感じるのだろうか。



 そして、翌日の明朝。陣中を騒がしく駆ける馬の足音で、魏延は飛び起きた。幕舎に駆けこんできたのは、悲痛な面持ちを浮かべた魏豊である。


「父上、蜀軍の本隊は、既に漢中への退却を開始しております。戦場に残されているのは、馬岱将軍と、我が軍のみです」

「なっ、それは、それはどういう事だ?」

「……諸葛亮丞相が、昨晩、息を引き取られたみたいです。全軍の指揮権は、楊儀殿に預けられたとか」


 こんなことがあるのか。


 天に向かって吼える。あまりに、あまりに理不尽な死であった。


 全てが崩れ去っていくのがはっきりと分かっていながら、自分の心だけが未だ気高いままで。それが無性に、悲しかった。

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