第3話

 此度で、五度目の北伐であった。


 今までこれといった大きな戦果は挙げられていない。ただ、大きな損失も無い。如何にも文官である諸葛亮らしい結果と言えるだろう。

 しかし、これでは何時まで経っても平行線である。死を覚悟しない戦で勝ちを望もうとするのは、到底無理な話だと思った。傲慢ですらある。


 軍事においては、魏延の方が圧倒的に経験値が高かった。それに、あの劉備に才を見出されて大抜擢を受けたのだ、将としても卓越した才能を持っているのはこれまでの実績で証明されている。


 漢中と、魏の一大軍事拠点である長安の距離はさほど遠くない。魏延は軍を二手に分けて、一気に長安を急襲する戦法を取る様に何度も諸葛亮に進言していたが、それはことごとく退けられている。いずれも、危険が大きいというのが理由であった。


 今まで防衛に出てきた魏軍の戦術といえば、亀の様に拠点に籠って守りを固め、こちらの兵糧切れを待つといったものである。互いに小競り合いを繰り返し、退却する。そんな戦ばかりであった。

 守って出てこないなら、無視すればいい。無視して長安を奪ってしまえばいいのだ。危険が大きくとも、それ以上に勝算もあった。魏延が鍛えに鍛え上げた直属の軍は、間違いなくこの天下で最強だという自信もある。


「父上、兵の選抜を追えました。いつでも出撃できます」


 息子の、魏豊(ぎほう)が馬に乗って駆けてくる。字は国鎮(こくちん)と付けた。劉備の築いたこの国を守る、そういった人材となれるよう、願いを込めた。

 歳は、二十を過ぎたばかりだが、軍人として良く育ってきたと思えた。体格も大きい。ただ、戦場での判断が些か浅いと思えるところがあったが、こればかりは若いが故に仕方の無いことだと思うようにした。


「兵数は」

「父上の仰せの通り、若い騎兵を百騎」

「馬を軽く走らせておけ。俺もすぐに向かう」

「御意」


 魏豊は素早く離れていく。その後ろ姿をしばらく眺め、魏延は薙刀を握る。そして直属の騎兵を、三十騎集めた。

 今回の北伐では、諸葛亮に文句を言うのは止めていた。文官には、文官なりの戦があると、気づいたからである。そして、任せてみようとも思えた。


 諸葛亮が見据えていたのは魏軍を蹴散らす事ではなく、過去の全ての北伐において行く手を遮ってきた「司馬懿」一人を、潰す事であった。今までの戦は、司馬懿を研究し尽くす為のものであると言っても過言では無い。そして着実に、司馬懿一人に向けて諸葛亮が流した毒は、魏軍を蝕んできている。


 諸葛亮が得意とする戦法は、こちらに仕掛けた罠へ、敵を誘き寄せる戦である。敵が攻め込んでくれば、後は思い描いた通りに丁寧に罠に嵌めていく、戦というより感覚的には作業に近いものである。ただ、攻め込んでこなければ、いくら罠を仕掛けたところで無駄だった。諸葛亮の戦は、攻めに向いてない。


 だからこその、毒であった。


 魏軍に対しての執拗な挑発。司馬懿個人にも、諸葛亮は挑発文を度々も送り付けていた。女物の衣服を添えて「部屋に籠ってばかりいる軍の指揮官は女に違いないでしょうから、貴方にお似合いの娼婦の衣装を送ります」という文書を送るなど、何とも憎い小細工である。更には魏軍後方の兵站で、蜀軍の少数の将兵が兵糧を焼き払ったりもしていた。

 そして何より魏軍を苛立たせたのが、蜀軍が魏の土地で屯田を始めたことであった。

 攻めて来なければ、永遠にここに居座ってやるぞと、諸葛亮は徹底的に魏軍を虚仮にしたのだ。


「あと、一押しで、魏軍は暴発するだろう。何度も魏帝から『攻めてはならない』と勅命が届いているらしい。つまり、誰もが我慢の限界なのだ。ここは丞相の手助けをしてやろう」

「しかし父上、城の外を巡察してる少数の魏軍を攻めて、何になるのです?僅かに百人、居るかどうかです」

「魏軍ではない。郭淮(かくわい)の部隊だ」


 魏豊は馬を駆けさせながら、難しそうに首を傾けた。

 全体を見渡す力が欠けている。魏延は溜息をつき、言葉を続けた。


「今の魏軍は、こちらの挑発が功を奏し、盛んに息巻いていて暴発寸前だ。ただ、郭淮、あの男だけが冷静なのだ」


 郭淮。対している魏軍の中で、司馬懿に次ぐ軍権を持つ男の名である。

 長く、漢中に居る魏延と対峙してきたのもこの郭淮であり、類まれな戦術眼を持っている武将と評価できるだろう。今の魏軍が崩れそうで崩れないのも、郭淮の目が光っているからに違いないと、魏延は読んでいた。郭淮だけが恐らく、諸葛亮の張った罠に気づいている。


「奴は稀代の名将だろうと思う。しかし、弱点はある。その弱点が己が立場を危うくさせる」

「弱点?」

「戦は頭で行うものではないのだ。頭で戦を考えている内は、奴はこの魏延に勝てるまい。そして、負けた将の言葉に耳を貸す者など居ない」


 今まで度々、郭淮と直接戦っている。布陣や戦況の読み方に光るところはあるが、いざ戦となると、その兵の動かし方が固く、そして遅れている。これが郭淮の弱点だろう。

 戦が始まれば、勝つこと以外考えてはいけない。剥き出しにした闘志、それだけがあれば良い。頭でばかり考えていると、常に変化する戦場に対応が遅れるからだ。


 魏延が郭淮に戦で負けたことは、一度も無かった。

 この戦場でも、郭淮の隊だけ執拗に叩いておけば、例え被害が微少であろうと、軍内における発言力は弱くなる。郭淮の抑えが利かなくなれば、あとはもう、諸葛亮の思い通りだ。


「あれが、郭淮の巡察部隊だな」

 やはり挑発行動が頻繁に起きているせいか、部隊の兵数も予想より多い。さらに、こちらが連れてきた若い騎兵は、まだ新兵に等しい。調練代わりに丁度いい、そう思って連れてきた兵である。

「国鎮、あれを蹴散らしてこい。最低でも、半数以上を討ち取れ。お前の選んだ百騎のみでだ。引き際はお前が決めろ」

「御意」


 魏豊は騎馬隊を小さくまとめると、すぐさま駆け出した。


 そこでようやく敵は接近に気づき、兵の三分の一を離脱させ、残りで迎撃に出てくる。

 騎馬隊を、二十、四十、四十で三つに分ける。二十は魏豊自らが率いて、敵部隊の真正面から突っ込んだ。他の二部隊は素早く分かれ、離脱した敵兵を一瞬で蹴散らす。これで援軍が駆けつけるまでの時間は稼げるだろう。


 敵深くまで切り込んでいた二十騎は、やがて勢いを無くし、中央から反れる様に包囲から抜け出してゆく。

 それを追いかけようとした敵の左右に、離脱兵を蹴散らした四十騎が攻め入った。

 魏豊も馬首を返し、再び切り込む。

 三方から崩れた。

 こうなれば敵もやがて踏ん張りが利かなくなり、離散し始めるしかない。

 実に鮮やかな戦ぶりであった。ただ、鮮やか過ぎた。敵を崩すのが早すぎて、恐らく敵の損害はそれほど大きくはないだろう。

 こちらは味方を五騎、失ったのみであった。


「申し訳ございませぬ、父上。敵兵が崩れるのが予想以上に早く、多くを討ち取れませんでした」

「当たり前だ。あれは巡察部隊で、主な役割は異変を本隊に知らせる事にある。最初から戦意が高くないことは分かり切っていただろう」


 危うくなったら助けに入ろうとも思っていたが、魏豊は、新兵を扱った戦で上出来すぎる程の結果を出した。それでも褒める事はせず、魏延はあえて厳しく当たって見せた。

 考えすぎるのは動きを鈍らせるが、考えすぎないのも問題なのだ。今の魏豊にはそういった危うさがあった。勝ってる時にこそ気を引き締めなければならないのである。

 ただ、経験。それさえ積めば、有能な武将になり得る素質は十分にあった。


「戻るぞ」


 あまり長居していると、敵の援軍が押し寄せてくるだろう。流石にこの兵力ではどうにもならない。

 魏延は直属の三十騎と共に馬を駆けさせた。最初こそ後に付いてきていた新兵達が、あっという間に引き離されていく。魏豊が一人何とか付いて来ていたが、やがて、遅れる新兵達をまとめる為に、馬首を返した。


 今日の様に、郭淮の部隊だけを蹴散らし続ければいい。ただ、もっと大きな戦がしたいと、魏延の心は疼いていた。

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