城塞と草原のカラウナス
左安倍虎
草原の悪魔
大きな塊が放物線を描きつつ、鱗雲の浮かぶ空を横切った。
それは鈍い音を立て、練兵場の地面に転がった。目を凝らすと、腐りかけた男の首だった。髭は薄く、側面に角の生えたロージャの兜をかぶっている。
ひどい悪臭に耐えかねて僕が顔をそむけると、周囲では何人かの兵士たちが激しく嘔吐していた。
僕は無言で頭を振ると、憂鬱を無理やり振り払うように、目の前の藁人形に斬りつけた。スキュタイ様式の弯刀を振るうたびに、人形の手足が宙に舞う。古くから定住民と遊牧民とが鎬を削ってきたこの地では、鹵獲した遊牧民の武器を用いることもある。
(こんなふうに
ここ、トヴェリ城がジャライル騎兵に包囲されて、もう一月が経つ。
はるか東の彼方の草原に興り、またたく間に周辺諸国を併呑しロージャ王国にまで押し寄せてきた騎馬の民ジャライルは、その獰猛な戦いぶりから
怯懦な守将の
「ずいぶん精が出るな。にしてもちょっと必死すぎやしないか、ユーリー?肝心の城主様がこの城に引きこもったままなんだから、俺たち不死隊に出番なんてありゃしないだろ」
背中からかけられた声に振り向くと、赤毛の少年が薄ら笑いを浮かべて立っていた。そばかすの浮いた顔は、16歳という年相応にあどけなくみえる。
「そういうアレクセイこそ、少しは汗を流したらどうなんだ。いつ出動命令がかかるかわからないし、その時になってから思うように身体が動かないと後悔しても遅い」
「はっ、仮に戦う機会があったところでジャライルの大軍に勝てるのかよ?俺たちみたいな罪人まで動員しなきゃならないようなら、どのみちこの戦は負けだ」
僕は口をつぐんだ。アレクセイの言うとおりなのだ。ロージャ辺境の小城にすぎないトヴェリはもともと兵力が乏しく、今は牢に入れられていた者まで兵として組織する有り様だ。罪人なら罪を許すと約束すれば死を恐れず戦うという期待から僕たちは「不死隊」と名付けられたのだが、そもそも戦う機会がないのにそんな約束をされても意味がない。
「ま、お前はオリガの敵を討ちたいんだろうが、もういい加減あきらめろよ。どうせ俺たちは戦う機会もなく降伏するんだ」
僕はきつく唇を噛むと、首にぶら下げた小さな熊の木彫りを握りしめた。これは僕の大切な人が、熊のようにたくましくあれと、幼い頃に作ってくれたお守りだ。
僕は、トヴェリにほど近い村に生まれた。この村の富裕な地主の娘だったオリガは、優しくて、そして賢い人だった。僕の三歳年上のオリガは、彼女の畑を耕す小作人にすぎない僕にも読み書きを教えてくれた。
ある夏の日、畑の見回りに来た彼女の掌に蚊がとまっているのを見かけ、僕がそいつを払いのけようとしたことがあった。しかしオリガは「この子も生きて、命をつながなくてはいけないから」と、そのまま血を吸わせていた。痒そうな素振りも見せず去っていく背を見つめながら、蚊の守護聖人というものがあるとしたらきっとオリガのような姿をしているのだろう、と妙なことを考えていたものだ。
今から三年前、故郷の村がジャライル兵に襲われた。村の娘たちが何人かさらわれ、オリガもまた姿を消した。ジャライル兵はミハイルに身代金を要求してきたが、禿頭公は市壁の増強で財政が逼迫していると称し、要求に応じなかった。そんな公を、僕は激しくなじった。結果、僕はトヴェリの牢に投獄されてしまった。
「ま、あの禿げ頭が亀みたいに首を引っ込めてる気持ちもわからないわけじゃないけどな。なにしろ相手が相手だからな」
「黒死将、か」
トヴェリを包囲しているジャライル兵を指揮しているのが、その不吉な二つ名を持つ将だ。漆黒の鎧と兜をまとうその姿は、軽装の者の多いジャライルの中にあっては異形といえる。黒死病がすみやかに人の命を奪うように、黒死将バートルはひとたび采配を振るえば戦場に骸の山を築くといわれ、ある戦場では殺した敵兵を数えるため、切断した耳を集めたら大きな袋九個がいっぱいになったと噂されていた。
「おい、噂をすれば影だ」
アレクセイが顎をしゃくった方に目を向けると、鎖帷子を身に着けた小男がこちらに向かってきた。後退する一方の頭髪に抗うように、髭だけは豊かに伸ばしている。
少しでも威厳を身につけようとしているのだろう。
「これ、何をしておる、立たぬか」
吐瀉物の匂いに顔をしかめつつ、ミハイルはいまだ地面から顔を上げられずにいる兵の顎を剣の鞘で持ち上げた。兵がようやく立ち上がると、僕とアレクセイもミハイルの前に整列する。
「朗報だ。いよいよお前たちが、我が大ロージャのために戦う機会がやってきたのだ」
ミハイルは思い切り胸をそらせ、腰に手を当てる。
「先ほど斥候が知らせてきたのだが、トゥーラ砦にジャライル軍の兵糧が山と積まれているそうだ。しかも幸いなことに、今ここの警備は手薄になっておる。お前たちの使命は、この砦の兵糧を焼き払うことだ。事が成れば、この城の囲みも解けるだろう」
「いや、でも公爵様」
自信満々で言い放つミハイルに、アレクセイが口を挟む。
「こりゃあ、あまりにも見えすいた罠じゃあありませんか?ジャライルの奴ら、わざと隙を作って俺たちを誘い込もうって腹なんじゃないですかね」
「お前は戦というものを知らぬのだな。よいか、罠とは不利な側が仕掛けるものだ。今我等に対し優勢に立っているジャライルが、一体何のために策を用いる?そんなことをせずとも勝てるはずなのに」
ミハイルは軽蔑しきったように鼻を鳴らし、言葉を続けた。
「ジャライルは我等を侮り、油断しておるのだ。それゆえ警備に隙が生じる。そこを我等が突くのだ。戦巧者は兵站をこそ重視するのだ」
「しかし、このトヴェリはすっかり包囲されてるじゃありませんか。どうやって外に出るんです」
臆した様子もなく、アレクセイが問いかける。
「実は、この城には脱出用の地下道がある。この道はトゥーラ砦の北5ベルスタの距離にある古井戸に通じておるのだ。これこそ神の与えたもうた機会というものであろう」
「でも、そこからどうやって潜入すればいいんです?いくら警備が手薄っていっても、無人の砦じゃないんでしょう」
「ふん、お前らごとき罪人には何も思いつかんか。では私が特別に知恵を授けてやろう。一番よいのは投降したふりをすることだ。そして内部の様子を探れ」
ミハイルは満足げに髭をしごいた。大した策を披露したわけでもないのに、自分は切れ者だと思いこんでいる様子だ。
「ユーリー、お前を不死隊の隊長に任ずる。みごと兵糧を焼き払い帰還できたなら、隊員は全員無罪放免とする。祖国のために励むがよい」
そう命じてミハイルが踵を返すと、僕は周囲を見回した。十五人ほどいる不死隊の面々が、期待と不安の籠もった目で僕を見つめている。この中では一番熱心に稽古に打ち込んでいたため、僕が隊長にふさわしいと思われたらしい。
「なあ、どう思うよ、この作戦」
「僕たちがどう思うかは関係ないよ。どの道、命令には従わなきゃいけないんだから」
「そりゃそうなんだけどさ」
アレクセイは軽く肩をすくめた。
「あの禿げ頭も甘いよな。投降したふりをすればいいって言うけどな、俺たちが本当に投降するかもしれないとは考えもしないんだろうな」
「仮に投降したところで、バートルが僕たちを生かしておくとは限らないよ」
「そうだな……あいつは何を考えてるのかさっぱりわからないからな」
この城にロージャ人の首を投げ込んでくるような将が、投降兵を歓迎してくれるとも思えない。殺されなかったとしても、奴隷の身分にに落とされて一生ジャライルに虐待され続けることになるかもしれないのだ。
「ま、せいぜい頑張るしかないか。頼むぜ、隊長」
アレクセイは僕の肩を叩くと、力のない笑みを向けた。
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