大汗の後継者
「ほら、食え。食えるもんならな」
牢番が木格子の向こうから、椀に入れたスープ粥を差し出してきた。僕がそれを受け取る寸前に、牢番は中身を床にぶちまける。食料が不足しているせいか、あたりに散らばったのは少量のふやけた大麦だけだ。それだけでも胃に収めようと、僕は冷たい石造りの床に顔を伏せた。
「ははっ、そこまで落ちたらもう人ってより豚だな。どうせ一日中食うことしか考えてねえんだろ、なあ」
籠城生活が続いて皆が殺気立っているせいか、牢番までもが嗜虐的になっている。僕が懲罰房に閉じ込められてもう五日が経っていたが、こんなところで死ぬわけにははいかない。今は豚になってでも生き延びてやる、と心に決めていた。
「ん?なんだか上が騒がしいな」
悲鳴と怒号が階上から聞こえ、それに剣戟の響きが混じった。どうやらジャライルが総攻撃をかけてきたようだ。しかし、これまで激しい攻城戦をやっている様子もなかったのに、どうして急にジャライル兵が城内に入ってこれたのだろう。
「おい、何だてめえは。ここへ何しに……」
牢番が最後まで言い終えるまえに、
「とりあえず食事、しろ」
たどたどしいロージャ語で、大男は僕に語りかけた。彼が差し出した干し肉を噛むうちに、ようやく人心地がついた。
「美味いか」
大男は、細い目をさらに細めて笑った。日々ジャライルへの怒りを滾らせてきた僕だったが、このときは妙に毒気を抜かれてしまった。
◇
トヴェリがジャライルに占領されてすでに三日が経ち、すでにこの小さな城の市民は日常に復帰しつつあった。オリガが略奪を固く禁じたため、トヴェリは驚くほどに平穏だ。僕はオリガとともにトヴェリ城の主塔の窓から外を眺め、城下の家々からいつも通り暖炉の煙がたなびいているのを確かめると、処刑場へと足を運んだ。
「抵抗するものが少なかったため、死傷者は最小限にとどめることができた。市内の治安もすでに回復している。さて、あとはこの者たちを処刑するだけだ」
処刑場に引き出されたミハイルとその家族、そして数人の側近を前に、オリガは言った。ミハイル達は縄を打たれ、オリガの前に膝まづいてうなだれている。ミハイルの後ろには、彼の娘らしい幼子がすすり泣く姿も見えた。
「最後になにか言い残すことはないか、ミハイル」
「言い残すことだと?ジャライルに屈した売女が何をほざくか」
ミハイルは顔を真赤にして怒鳴った。
「
「内応者を出してしまう時点で、貴方は負けているのだとなぜわからない。トヴェリの兵は、ほとんどがまともに戦おうとすらしなかったのだぞ。貴方に将としての器量が欠けているからではないのか」
「なんだと」
「貴方はそこのユーリーの言葉もろくに聞かず、獄に下した。年端もいかない少年すら疑ってかかるようでは、誰が貴方の命になど従おうか」
オリガが僕を一瞥して言うと、ミハイルはさらに声を励ました。
「黙れ黙れ。その者はお前にもてなされた上、私に降伏を促すよう指示を受けてきたのだろうが。罰を下して何が悪い?」
「貴方は何もわかっていない!」
オリガが急に声を荒げた。どこか悲痛な響きを含む声だった。
「なぜ、そうまでして抗おうとするの?大人しく降伏していれば、貴方もそこの娘さんも、みんな助けてあげられたのに。誰も、死ななくてすんだのに」
「ジャライルごときに従うくらいなら、私は誇りある死を選ぶ」
「なら、戦になる前に貴方一人で勝手に死ねばよかったでしょう。貴方が戦う道を選んだばかりに、私達は貴方の家族まで手にかけなくてはならないのよ」
ミハイルの娘が火がついたように泣き叫びはじめた。オリガは沈鬱な表情で、その様子を見つめている。
「名誉や誇りなどより、命のほうがはるかに重いに決まっているわ。ロージャの旗の元に死ぬより、ジャライルの
オリガは声を震わせた。今の彼女はトヴェリを震撼させた黒死将バートルではなく、掌にとまった蚊一匹すら殺めることのできなかった、あの夏の日のオリガそのものだった。彼女は黒死将という似合わない衣で、優しすぎる本性を覆い隠していたのだ。
「閣下、これ以上敵に情をかけるなど許されませぬぞ。本来なら
頬の痩けた法官らしい男が、釘を刺すように進言した。
「わかっている。ミハイルとその家族は斬首刑に処す」
無理に自分に言い聞かせるように、オリガは言った。僕はこれ以上、彼女が黒死将として振る舞うのに耐えられなくなった。
「お待ち下さい。バートル様、ミハイルの首、私に討たせていただけませんか」
僕がそう申し出ると、オリガはわずかに目を見開いた。
「貴方が、この人の首を?そうね、貴方は禿頭公には恨みがあるものね。──トグリル、この少年に剣を」
オリガは近習に命じ、腰の剣を差し出させた。僕はすばやく剣の鞘を払うと、オリガの首筋に刃をあてがった。
「これはなんの真似なの、ユーリー」
「もうこれ以上見ていられないんだよ。オリガ姉に処刑なんてさせられない。そんなことまでオリガ姉が背負うことなんてないんだ」
「早く剣をしまいなさい。今ならまだ、貴方を助けてあげられる」
「助けてもらう必要なんてないよ。おいお前たち、バートルを殺されたくなければ、さっさとトヴェリの外まで兵を退け」
僕の周りを、弓に矢をつがえたジャライル兵がぐるりと取り巻いていた。正直、もう助かるとは思っていない。ただ、少しの間だけでもオリガを人殺しから遠ざけていたかった。僕が歩きはじめると、オリガがジャライル兵を手で制してくれた。おかげで、僕は射られることもなく城門の外までたどりつくことができた。
城門を出ると、遠くから騎馬の一群がこちらへ近づいてきた。群れの先頭にいる男は鳳凰の刺繍された上衣をまとい、頭頂に赤い房のついた兜をかぶっていて、ひときわ目立つ。肩には真っ白な鷹がとまっていた。
「バートルよ、その有り様はなんだ。ジャライルの将ともあろうものが剣を突きつけられ、地べたを歩くとは」
男は馬を止めると、よく響く声でオリガを咎めた。その眼光は肩の上の白鷹にも劣らず鋭い。
「ウルグ様、申しわけございません。私の甘さが、このような事態を招いてしまいました」
「そなたほどの者をそこまで追い詰めた、その少年は何者だ」
「その前に、貴方が何者かを聞かせていただきたい」
僕が会話に割って入ると、男は大きな口を開けて笑った。
「小僧、ずいぶんと威勢がいいな。
朗々とした、命令することに慣れた者の声だった。どうやらこのウルグという男は、
「ユーリー、剣をしまいなさい」
オリガの焦りを含んだ声を聞き流しつつ、僕は口を開いた。
「貴方にひとつだけ要求があります。オリガ姉を、黒死将の地位から開放して欲しいんです」
「ほう、面白いことを言う」
ウルグは片眉をあげ、興味深げに僕を見据えた。
「オリガ姉には黒死将は向いていません。誰かに代わりを務めさせるべきでしょう」
「代わりだと?お前は黒死将とは替えがきくものだと思っているのか」
口角をつり上げるウルグの様子に、僕は自分の推測が外れていないことを確信した。
「お前は黒死将というものが何なのか、わかっているのか」
「黒死将とは、ただの幻でしょう。敵対する者を恐れさせ、なるべく犠牲を払わずに降伏へと追い込むための」
ウルグは真顔に戻った。隣でオリガが息を呑む音が聞こえた。
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