恋文とキス

米谷明乃

恋文とキス

 朝の二度寝の五分は体感では一分にも満たない。だから、目覚ましが鳴る五分前に目を覚ますと、少しだけ損した気分になる。睡魔に抗いながら、折川悠はセットしてあったスマホのアラームをオフにした。それとほぼ同時に、スマホが振動する。メッセージの着信だ。友人からのメッセージで、今日ある英語の小テストの範囲はどこかというものだった。そのメッセージを見て、微かに自分の気分が落ち込んだことに、悠は気がついた。

 悠はスマホを放り出して、体を起こす。カーテンを少し開けて外を見ると、日差しに寝起きの目がくらんだ。五月雨が梅雨を指すのと同じように、五月晴れというのはもともとはこういう梅雨の晴れ間を指したのだという。せっかくの上天気も憂鬱の種になりうる。なにせ、こういう日は紫外線が強くて肌には厳しいのだ。

 再びスマホの振動音がして、悠はベッドに投げ出されたスマホを慌てて手に取った。メッセージは先ほどと同じで、友人からだった。相当困っているようだったので、テスト範囲を教えてやり、悠はスマホを再び投げ出した。

 制服に着替えて鏡の前に立つと、そこには普通の女子高校生が立っていた。紺の基調に白のリボン。古風なセーラー服の制服は巷では可愛いと評判である。悠自身も入学前はこの制服に憧れていた。この服を着ている高校生たちは輝いて見えた。ところが、いざ自分が着てみると何かが違う。この制服を着た自分は全然輝いて見えない。かれこれもう一年もこの服を着ているというのに、ちっとも自分に馴染まない気がした。悠は無意味に髪を撫でつける。少し癖のある髪は不格好なままだった。

 三度目の振動音。友人からのありがとうのスタンプだった。画面の中で猫とも狸ともとれる生き物が何度も頭を下げている。適当に返事をして、スマホを鞄に突っ込んだ。どうも最近は彼からの連絡を待ってしまっている気がする。あれから一か月。彼からメッセージが来ることはなかった。こちらから送ったっていいのだが、それはなんだか気に食わない。

「さてと、まずは朝ごはんかな」

 わざわざ口に出したのは気分を切り替えるためだ。



 家を出た悠がまず向かったのは駅ではなくて、自分の家から一軒挟んだ家だった。預かっている合鍵で中に入り、まっすぐ二階にある寝室へと向かう。ドアを押し開けながら、悠は叫んだ。

「静里! 起きなさい!」

「あと五分……」

 ベッドの上で惰眠を貪る幼馴染を起こすのは、小学生のときからの悠の習慣だった。カーテンを一気に開けて、日差しを取り込む。

「早く起きてくれないと私まで遅刻するんですけど!?」

「いつも言っているだろう。置いていってくれればいい。私だけ遅刻するから」

「だーめ! おばさんたちに頼まれてるんだから」

 彼女の両親は仕事で家を空けることが多いのだった。それで、悠が代わりに彼女を起こす役割を務めているのだ。これがなかなか厄介な仕事だった。なんとか彼女を起こしても、基本的には遅刻ぎりぎりで、最悪遅刻することになってしまうのだった。

「まったく、人様に迷惑をかけるとは困った親だ」

「迷惑かけてるのはお前だああああああああ!!!!」

 悠は布団を引きはがす。抵抗した静里はベッドから落ちる。鈍い音とともに、彼女の長い髪が揺らめいた。金色の髪が朝日を反射してきらめく。悠は思わず息を飲んだ。眠気を湛えたエメラルドグリーンの瞳が悠を見上げている。人形のように整った顔立ち。柔らかな唇が言葉を紡ぐ。


「痛い」


 楊静里。彼女の日常風景は、絵画の世界のように美しい。


 十年以上、毎日のように彼女と顔を合わせている悠ですらそう思うほどに。

「ほら! さっさと行く用意をする」

「眠い……」

 静里の抗議を聞き流し、悠は部屋を出る。

「食パン焼いておくから、早く降りてきてよね」

 しかし、その判断は間違いだった。しばらくしても、静里は一向にダイニングに現れなかったのだ。これはまずいと悠が様子を見に行くと、静里はベッドに突っ伏していた。悠が部屋を出た直後、静里は立ち上がろうとしたものの、そのまま眠気に負けて倒れこんだらしい。

「何しとんじゃあああああああああああああ!!!」



「痛い」

 すっかり身支度を整えた静里が冷めたパンをかじりながぼやいた。

「何が?」

「さっきのげんこつだ。かなり痛かったぞ」

「二度寝するのが悪い。ほら、早く食べる。電車間に合わなくなるから」

 悠は会話を適当に流してスマホを見る。いつのまにか、通知が付いている。企業公式アカウントからの宣伝メッセージだった。悠はメッセージに既読もつけずに通知を削除した。悠はそのままぼんやりとスマホをいじりつづけた。SNSのアプリを開いて眺める。多くの人の、何の興味もわかないつぶやきが流れていく。その間、スマホが振動することはない。

「行かないのか?」

 静里の声で悠は我に返った。見れば、静里はとっくにパンを食べ終えている。時計を見る。静里の二度寝のせいで悠長にしている時間はなさそうだが、幸いにも走らなくてよさそうだ。もっとも、予定より一本遅い電車になるのだが。

「あ、うん。行こっか」

「おっと、思い出した」

 静里は鞄から教科書を取り出した。赤みの強い橙色の特徴的な表紙で、すぐに日本史のそれとわかった。

「昨日うちで勉強したときに忘れていったろう」

「ほんと? ありがとう」

「教科書にくらい名前を書いたらどうなんだ。他の人のと紛らわしいだろうに」

「めんどくさくない? 小学生じゃないんだから大丈夫でしょ」

 悠は教科書を受け取って鞄につっこんだ。悠は持ち物に名前を書かないたちだった。実際、持ち物はきっちり管理していれば他人のものと混じることはほぼない。唯一の例外は学校の上履きで、ちゃんと名前を書いてある。体育館の入り口とかでみんなが一斉に脱ぐせいで、そうしていないとあっという間にどれが誰のだかわからなくなってしまうのだ。

「君は意外といい加減だな」

 十年以上のつきあいで何を今更かと、悠は苦笑した。



 慣性に引かれて、悠の身体が傾いた。悠自身がバランスを取るよりも前に静里が悠を抱きとめる。ちょうど、静里の豊かな胸に顔をうずめる形になった。なんだか気恥ずかしくなって、悠は飛びのくように離れた。

「きちんと何かを掴め。危ない」

「あ、うん。そうだね」

 少し混雑した電車の中で悠がバランスを崩したのは片手に鞄を掴み、もう片方の手でスマホを操作していたせいだった。右手がスマホではなく、つり革を掴んでいれば倒れこむことはなかっただろう。

「例の男か?」

「へ?」

 図星をつかれた悠は思わず奇妙な声を上げてしまった。適当にごまかす言葉を探すが、見つからない。

「いきなり何?」

「ここ最近、しきりにスマホを気にしているからな。あいつからの連絡を待っているのかと思ったわけだ」

「別にそうじゃないけど」

 その通りなのだが、認めるのはなんだか負けた気分になりそうだった。静里にではなく、自分の中の何かに。静里の宝石のような目が、じっと悠の目を捉えている。

「自分で振っておいて、その相手からの連絡を待つというのは実に未練がましいぞ」

「別に振ったわけじゃなくて、その『お友達からで始めましょう』って言ったの」

「それは『お断りします』の婉曲表現じゃないか」

 静里の淡々とした口調に微かに棘が混じる。

「なんか機嫌悪くない?」

 何か彼女の機嫌を損ねることをしただろうかと、悠は考えた。朝の惰眠を邪魔するのはいつものことなので、彼女はその程度で不機嫌になったりはしない。そうすると……

「もしかして、さっきのげんこつそんなに痛かった?」

 一瞬、静里の目が大きく見開かれる。そして、大きくため息をついた。

「まったく、君は本当に鈍いな。せっかく悪くはない頭なんだからもう少し活用したらどうだ」

「ちょっとそれどういう意味?」

 ちょうど、電車が駅に滑り込む。ドアが開いて同じ学校の生徒が降りていく。悠と静里もそれに流されるように電車を降りた。

 県立黄桜高校は駅の目の前にある。駅を出た生徒たちはそのまま校門へと吸い込まれていく。予鈴ぎりぎりの時間のため、生徒指導の教員が早くしろと生徒たちを急かしている。

「楊さん。おはよう!」

 自転車に乗ったクラスメイトが追い越しざまに静里に声をかけていった。静里は一言で言えば人気者だった。容姿端麗で成績は学年トップ。たいがいのスポーツは難なくこなしてしまう運動神経のよさ。そして、それらを鼻にかけない謙虚さまである。寝起きの悪さを他の生徒たちは知らないから、さぞや完璧に見えているのだろう。悠は隣を歩く静里を見た。輝くような金髪は紺の制服によく映えた。悠がかつて憧れ、今着ているのと同じその可愛らしいセーラー服は、まるで彼女の美しさを引き立てるために作られたような気がしてくる。そこにクールなふるまいがアクセントになって、見るものは男女を問わず魅了されてしまうのだった。

 静里が不意に口を開いた。

「悠、さっきの話の続きだが、君はもう少し自信を持ってもいいと思う」

 何がどう「続き」なのかがわからなかった。

「意味わかんないんだけど」

 悠の抗議を聞き流すように、静里はてくてくと歩いていく。昇降口で靴を脱ぎ、上履きを取り出すために靴箱を開ける。そこで、静里は一瞬動きを止めた。

「また?」

 靴を脱ぎながら、悠は呆れて言った。静里は靴箱から一通の封筒を取り出した。おそらく手紙だろう。ラブレターというやつだ。そして、悠の知る限り、彼女がこういう形で手紙を受け取るのはこれで四度目である。

「この学校、古風なことする人多すぎない? 今度は誰から?」

 悠が手紙の差出人を見ようとすると、その動きを読んでいたかのように静里は封筒を悠から見えないように遠ざけた。

「プライバシーの侵害だ」

「けち。私と静里の仲だよ?」

 悠の言葉を聞いて、静里の眉が吊り上がる。

「私が言っているのは、差出人のプライバシーのほうだ。前も言っただろう」

 静里は手紙を鞄にしまって歩き出す。悠は慌てて上履きをはいて追いかける。そういえば、似たような会話を前もした。あれは一か月ほど前の、ちょうどあの日だった。


 あれは五月半ばのことだった。

「また手紙? 古風だねえ」

 靴箱から手紙を取り出した静里を見て、この時も、悠は呆れた声を出した。靴箱にラブレターなんて、絶滅したものだと思っていたのに、友人のもとには何通もやってくるからだ。悠はひょいと封筒に書かれた差出人の名前を盗み見る。内田礼司。その名前を見て悠は驚く。

「うわ、野球部のエースじゃん。すご」

 内田礼司は昨年の夏の大会でエースとして出場し、惜しくも甲子園は逃したものの、チームを県大会決勝まで導いた。黄桜高校はどちらかと言えば進学に重きを置いた、スポーツはいまいちな公立高校なので、思わぬ快進撃は学校中の話題となった。そんな活躍と、整った顔立ちのせいか、内田は校内の女子から高い人気を誇っていた。

「差出人を勝手に覗くな。これは私に向けた手紙であって、君に見られることは想定されていない。だから、必要がなければ君にすら見せないのが誠意だろう」

 そう言って、静里は悠の頭を押さえて遠ざけた。

「で、どうするの? 受けるの?」

「断るよ」

 即答だった。まるで興味がないと言わんばかりに。実際、静里が恋愛沙汰に興味を示したのを見たことがないので、悠は冗談のつもりで尋ねた。

「なに、他に気になる人でもいるの?」

 一瞬の間があって、

「いるよ」

 と静里は答えた。面食らった悠はしばらく硬直して立ち尽くした。その間も、静里は何事もなかったかのように歩き出す。

「うええええええええええええ!? 誰?」

 悠は大声を出しながら静里に詰め寄った。楊静里の心を射止めた男の正体が、悠には気になってしかたがなかったのだった。


 静里は人差し指を唇に当てて囁く。


「秘密」


 そんな動作が様になるのは、さすが静里だった。悠は思わず見惚れて、再び固まってしまった。悠は我に返って静里を追いかける。

「ちょっとごまかさないでよ。気になるじゃん」

「あんなのでごまかされる君が悪い」

 二人のクラスの教室は、階段で二階に上がってすぐのところにあった。教室に入ったところで静里を追及するのはやめにして、悠は窓際の後ろから二番目にある自分の席に向かった。そこには先客がいた。クラスメイトの羽田久志だ。

「久志。折川が来たぞ」

「おっと。折川ごめん」

 悠の後ろの席の加藤文昭が羽田を立たせた。これはこのクラスになってからは、いつものことだった。彼らは親友同士のらしく、朝や休み時間は、ほぼ必ず、羽田が加藤のもとに話をしにくるのだ。悠の登校時間は(静里のせいで)始業ぎりぎりのことが多く、また休み時間に悠は静里のところに話しにいくので、空いている悠の席に羽田が座って加藤と話すことがほとんどだった。

「別に座るだけなら気にしないから。いつものことだし」

「お、おう。ありがとう」

 そういって羽田は頭を掻いた。

「別に礼を言われることでもないと思うんだけど。そろそろ予鈴なるし、席戻ったら?」

「そうだな。じゃあ、文昭、またあとで」

 羽田は自分の席に戻っていった。悠は鞄を机の上にどしりと置いて席に着く。後ろから加藤が謝った。

「いつも悪いな」

「だから、別に大丈夫だって。それにしても仲いいよね、あなたたち。昔からの友達とかなの?」

「いや、高校入ってからだよ。あいつも俺も電車の混雑が嫌いでさ。朝早く来るんだよ。で、することないから適当に話してたら気が合った。それだけ」

 気が合うかはともかくとして、羽田は気持ちのいい人間だった。少なくとも、彼と話して不快になる人間はいないだろうと思える、そういう人間だった。

「それに、仲がいいと言っても折川と楊ほどじゃないと思うぞ」

「まあ、静里とは腐れ縁みたいなものだしねえ……ん?」

 教科書を机の中に入れようとした悠は、机の中に覚えのない封筒が入っているのに気がついた。取り出してみると、シンプルな封筒に、几帳面な文字で「折川悠先輩へ」と書かれていた。明らかに手紙だが、封筒に差出人の名前はない。これはまさか、と悠は静里のほうをちらりと見た。静里は悠と同じく教科書を机に入れているところだった。いや、恋文と決まったわけではない、もしかすると果たし状かもしれないなどと考えながら、悠は封筒を見つめる。見つめるだけでは、中身はわかるはずもなかった。とりあえず読んでみるか、とも思ったが、悠はあたりをキョロキョロと見渡してから手紙を鞄にしまった。静里の言っていたことを思い出したのだ。これは悠に向けた手紙であって、他の人に読まれることは想定していない。差出人のことを考えれば、人目につく場所で読むべきではないのだろう。

 その日、悠は授業に集中できなかった。悠の目線は黒板から封筒をしまった鞄へと流れたし、教師の言葉は悠の右の耳から左の耳へと通り抜け、晴れた空(その日も快晴だったのを覚えている)へと消えていった。あまりにも集中していなかったので、数学の時間に教師に指名されたことにも気がつかなかった。

「折川悠! 折川!」

 気がつくまでに何回名前を呼ばれたのだろうか。

「あ、はい」

「問二の答えは?」

 どうやら、時間をつくって生徒に教科書の例題を解かせたらしかった。心ここにあらずだった悠はもちろん解いていなかった。数列の一般項を求める問題で暗算でもいけそうだったが、ぼんやりした頭ではすぐに計算ができなかった。

「えーっと、」

「もういい。大事なところだから、しっかり聞いとけよ。じゃあ代わりに……」

 教師は座席表に目を落とした。どの生徒がどの席に座っているかの表だった。授業を持ち始めて一か月。そろそろ生徒の名前を覚えてもいいころだろうと、悠は思った。

「佐竹ヒカル」

 指名されたのは悠の隣の席の女子生徒だった。短く切られた髪の毛と日に焼けた肌が運動部らしかった。佐竹は問いにすんなりと答えた。



「珍しいね。折川さんが授業中にほうけてるなんて。なんかあったの?」

 授業が終わって昼休みに入ったとき、佐竹が聞いてきた。静里に及ばずとも、悠は優等生の一角を占めていた。授業中に当てられて答えられなかったのはずいぶん久しぶりだったので、佐竹がそう思うのはおかしなことではなかった。机に恋文らしき手紙が入っていましたなどとは言えなかった。妙に喉が渇く気がして、悠はお茶を口に含んだ。

「恋の悩みとか?」

 悠はむせて、咳きこんだ。

「え、マジ?」

「違うから……げほっ、何でそうなるの、げほっ」

 咳の合間に否定の言葉を入れた。佐竹はケラケラと笑う。その口元から覗く八重歯が可愛らしかった。

「なら、楊さんとケンカでもした?」

 佐竹は「こっちが本命だ」と表情で語っていた。下手に詮索されるよりは、もうそういうことにしておこうと、悠はせいいっぱい自然な演技を試みた。

「あー、うん。ちょっとね」

「だめだよー。ほら、夫婦喧嘩は犬も……なんだっけ?」

「食わない、でしょ」

 なぜそこまで出てきてその先を忘れるのか、悠には理解しがたかったが、佐竹は「そうそうそれそれ」と笑っている。


「ヒカリ! あんた今日、購買でパン買うんじゃなかったの?」


 教室の向こう側から、誰かが佐竹を呼んだ。

「やばい! 出遅れた!」

 たった今まで悠と会話していたことなど忘れてしまったかのように、佐竹は財布片手に駆け出した。黄桜高校の購買は人気のパンをめぐって熾烈な戦いが繰り広げられ、さながら戦場なのだった。廊下のほうから、「走るなよー」という教員の声が聞こえた。

 悠は鞄から二つの弁当箱を取り出した。一つは悠の分、一つは静里の分だった。そのときに例の封筒が目に止まった。一瞬悩んで、悠は封筒を手に取り、静里のもとへ向かった。悠が傍に行くやいなや、静里は自分の弁当箱を受け取って立ち上がる。

「最近、君と喧嘩した覚えはないんだけどな」

 どうやら、聞かれていたらしかった。

「この地獄耳め」



 屋上へ向かう階段を登りきった場所にある小さなスペース。昼になるとドアについた窓から光が差し込んで明るく暖かい。そんな場所で二人は弁当を食べた。

「おじさんの作った弁当はおいしいな」

 折川家では料理は当番制であり、家族の中で一番の料理上手は悠の父親だ。この日の当番はその父親だった。もっとも、このときは弁当の味などどうでもよかったのだろう。

「私の料理がまずくて悪かったですねえ」

「そんなことは言ってないんだけどな」

 そんな冗談を言うために、ここに来たのではなかった。屋上へ通じるドアは施錠されているため、階段をここまで登ってくる人はいない。悠と静里が二人で落ち着いて話したいとき、二人はこの場所にやってくる。この日は悠の様子がおかしいことに気がついた静里が悠をここに連れてきたのだった。

「君のおいしいお手製弁当は明日の楽しみにとっておくとしてだ。その封筒が君の挙動不審の原因かな?」

「挙動不審、は酷くない? 今朝、こんなのが私の机に入ってたの」

 悠は封筒を静里に差し出した。静里はそれを受け取りはせず、ちらりと宛名を見ただけだった。

「『折川悠先輩へ』、君宛の手紙のようだが、これを私に見せてどうするつもりだ?」

「静里、こういう手紙もらうの慣れてるだろうし、相談に乗ってもらおうかと」

「私は果たし状なんて受け取ったことはないぞ?」

「果たし状なの!?」

 悠は思わず封筒を持った腕をひっこめた。そのリアクションが面白かったのか、静里がくすくすと笑った。

「さあな。さすがにそれだけの情報じゃ何もわからないよ。見たところ、封すら切ってないようだが、まさか読んでないのかい?」

「今から読むの!」

 悠の言葉を聞いて、静里は悠から少し距離をとってくれた。悠は震える手で手紙の封を切った。心臓が早鐘を打つのが聞こえた気がした。手紙は、封筒と揃いのシンプルな便せんに、封筒の宛名と同じく几帳面な文字で書かれていた。



「 悠先輩へ


 突然の手紙で驚かせてしまってごめんなさい。どうしても伝えたいことがあるのです。


 あなたを好きになったのは去年の春でした。通学途中、黄桜高校の前を通るときに偶然見かけたあなたの笑顔がとても素敵に思えました。それ以来、あなたの姿を見るのが毎朝の楽しみになったのです。あなたに元気をもらってそのまま学校へ向かう。それがあの頃の私の生活でした。

 受験勉強を頑張れたのも、あなたと同じ学校に通いたいと思ったからです。その願いがかなった今、私は、あなたともっと親しくなりたいと思っています。私の思いを直接伝えたいので、ご迷惑でなければ十六日の放課後、体育館の裏まで来てください。」



 誰がどう読んでも告白の手紙だった。手紙の末尾には小さく「天沢」と差出人らしき名前が添えられていた。

「どう思う?」

「読んでいいのか?」

 悠は無言で頷いた。静里は黙って手紙を受け取った。無言のままそれに目を通すと、静里は手紙を悠に返した。

「少なくとも、果たし状には見えないな。 この天沢という人は知り合いかい?」

 悠は首を横に振った。

「だろうな。文面からして、一目惚れの類だろう」

 一目惚れ。悠には、それがあまりにも現実離れした言葉に思えた。悠は普通の女子高生だった。静里のような美少女ならともかくとして、一目惚れされるような魅力が自分にあるとは悠には到底思えなかった。

「これ、私宛てだよね?」

「折川悠、という名前の生徒はこの学校にはたしか君だけだったと記憶している」

 自分と同姓同名の生徒には悠も心当たりはなかった。

「それで、どうするつもりなんだ? 十六日は明日だが、会いに行くのか?」

「行くべきだと思う?」

 静里の緑色の瞳が揺らめいた気がした。瑞々しい唇が微かに震えていた。

「それは私が口を挟むことではないな。君がこの人に会ってみたいのか、会いたくないのか、それだけの話だろう」

 悠は手元の手紙を見た。自分に好意を寄せてくれたこの人は、いったいどんな人なのだろうか。自分の笑顔の、どこにこの人は惹かれたのだろうか。悠はそれを知りたいと思った。

「決めた。とりあえず、会ってみる。ありがとう」

「そうか。役に立ててよかったよ。あと、おじさんに弁当のお礼を言っておいてほしい」

 静里は弁当箱を悠に返し、階段を下りていく。

「ちょっと、待ってよ」

 悠は手紙をしっかりと封筒に戻してから、静里のあとを追った。


 悠には、次の日があっという間にやってきたように思えた。前夜は緊張で眠れなかったのもあって、その日も授業に集中できなかった。教師に注意されるのを数回繰り返すうちに、気がつけば放課後になっていた。ホームルームが終わるやいなや、静里が悠の席までやってきた。

 それに気がついて、鞄に教科書を詰めていた悠は驚いて顔を上げた。いつもは放課後になると、悠が先に席を立って静里のところまで行くのだ。

「いったいどうしたのさ?」

「本当に行くのか?」

 悠は鞄に目を落とした。クリアファイルに丁寧に挟んで、あの手紙をこの日も持ってきていた。

「そりゃあ行くよ」

 悠は鞄を肩にかけ、教室を出た。後ろから静里が追いかけてきた。

「実は果し状かもしれないぞ」

「そんなものには見えないって話じゃなかった?」

 足音で静里が立ち止まったのがわかって、悠は振り返った。

「どうしたの?」

「本当に行くのか?」

 先ほどと同じ問いを静里は繰り返した。

「行くって言ってるでしょ。静里、らしくないよ? 何か私を行かせたくないわけでもあるの?」

 静里は無駄なことはしない。それを悠はよく知っていた。それに唯一の例外があるとすれば、朝の二度寝くらいだった。静里はしばらく黙ったままだった。

「無いなら、私は行くよ」

 悠は静里を置いて、歩き出した。校舎を出て、校門とは反対方向に向かった。年季の入った体育館に、何人か生徒が入っていった。おそらく部活に出るところだったのだろう。悠は彼らが完全に中に入るのを待ってから体育館の裏へ回った。単純に見られたくなかったからだ。

 呼び出しの場所の定番になるくらいなので、体育館の裏手というのはたしかに行く機会がないものだ。実際、悠が体育館の裏手に行くのは初めてだった。狭いのかと思っていたが、意外と広いスペースがあった。少しもったいないと思うくらいだった。こちらに面した体育館のほとんどは壁で、ところどころ小さな窓があった。悠の空間認識能力が正しければ、あれは体育倉庫の窓だった。道路との間には塀があって外からは見えないようになっていた。要するに、秘密の話にはうってつけだった。

 当然、人気はなく、そこにいたのは悠を除けば一人だけ。黄桜高校の制服(といってもただの学ランだが)に身をつつんだ細身の少年だった。

 悠は彼に近づいた。彼の背は思っていたより高く、悠よりはかなり高い。体の成長を見越して作られた少し大きめの制服のせいで、実際より小柄に見えたのだろう。

 悠は彼の顔を見た。綺麗な顔だった。イケメンというよりは、美少年という言葉が似合いそうだった。不安げにあちこちを泳いでいた目が悠を捉えた。彼は作ったような微笑みを浮かべた。

 高鳴る心臓の音を聞きながら、悠は彼に声をかけた。奇妙に乾いた喉から少しかすれた声が出た。

「えっと、あなたが天沢さんですか? 私に手紙をくれた」

 その言葉を聞いた途端、少年の目は大きく見開かれ、口はあんぐりと開いた。ぽかんとした、という表現はこのときの彼の表情のためにあるのではないかと悠には思えた。しかし、その表情は一過的で、みるみるうちに彼の表情は青ざめていった。

「えっと、その、ごめんなさい!!」

 今度は悠がぽかんとする番だった。言葉の意味を理解できずに固まっていた悠の横を、逃げるように少年が走り去っていった。

「ちょっと待って!」

 悠が振り返ることができたときには、少年は体育館の角を曲がって消えていくところだった。一人取り残された悠には自分が何をしにここへやってきたのかわからなくなっていた。たしか、手紙でここに呼び出され、告白されにきたのではなかったか。それなのになぜ自分が振られたような状況に陥っているのだろうかと、悠は訝しんだ。

 もしかしたら、彼はあの手紙とは無関係の人間で、手紙の差出人の天沢はこれからここにやってくるのかもしれない。手紙には放課後としか書いていなかった。自分は早く来すぎたのだ。悠はそういうことにして、しばらく天沢を待った。一時間が過ぎても、誰もやってこなかった。

「もう帰ろ」

 悠は足元に這っていた蟻を踏み潰した。

 

 校門のところで静里が待っていた。彼女は見るからに落ち着きがなく、門の前を行ったり来たりを繰り返していた。

「もしかして待っててくれたの?」

「まあな」

「ありがとう。じゃ、行こっか」

 なぜか会話がぎこちなくなった。二人は無言のまま駅まで歩き、電車に揺られた。十分ほどの時間がひどく長く感じられた。その間、静里はちらちらと悠の様子を伺っているように見えた。

 電車を降りて駅を出たところで、静里が沈黙を破った。

「その、遅かったのは、天沢といっしょにいたからなのか?」

 静里の声は妙に引きつっていた。悠は何があったかを話した。それを聞いた静里は吹き出した。

「ちょっと! 笑わないでよ。そこそこショックだったんだから」

 抗議が口を突いて出た。静里の顔が青ざめた。

「すまなかった。軽率だった」

 静里があまりに真面目な口調で謝罪したので、悠は慌てて話題を変えた。

「静里、今日の夕飯うちで食べてく?」

 精一杯明るい声をつくって言った。そのせいでわざとらしくなったせいか、静里の翠眼が非難がましく悠を捉えた。

「いきなりで大丈夫なのか?」

「大丈夫。夕飯の当番私だから」

「そうか、ならご厚意に甘えさせていただこうかな」

 静里は優しく微笑んだ。悠はほっとした。

「じゃあ買い物付き合ってね。荷物持ち」

「了解だ」

 その日、二人の間で天沢のことが話題に登ることはなかった。その話題を避けるということで二人の間に暗黙の了解が生まれていた。事態が変わったのは、さらに次の日の昼休みだった。唐突に天沢が悠を訪ねてきたのだった。



「折川先輩はいますか?」

 悠のクラスの教室に現れた天沢の手は強く握られていた。上級生の教室を訪ねるのはただでさえ緊張するものだが、彼の場合、それだけではないのは明白だった。静里の前の席に座って弁当を広げかけていた悠は彼のところに駆け寄った。慌てていたせいか、途中で足を誰かの机にぶつけてしまった。

「どうし……」

 悠が言い終わる前に天沢は悠の腕を掴んだ。

「大事な話があるんで来てもらえますか?」

 彼の言葉を聞いた近くのクラスメイトたちが黙ったのをきっかけに、教室全体が静まり返った。静里を見れば、彼女は卵焼きを口に運びかけたまま、あんぐりと口を開けて固まっていた。

「わかったから、手、離してくれる?」

「あ、ごめんなさい」

 天沢は悠の腕を掴んでいた手をぱっと離した。クラスメイトの視線から逃げるように悠は教室を出た。その後ろから天沢がついてきた。教室が少しざわめいたのが聞こえた。悠が話の場所に選んだのは、屋上の扉の前だった。いつもは静里としか来ない場所にきちんと話したこともない男性といっしょにいるのはなんだか落ち着かなかった。

 先に口を開いたのは天沢のほうだった。天沢は深々と頭を下げる。

「あの、僕は天沢尊といいます。昨日はすみませんでした」

「いいよ。気にしてないから」

 本当はとても傷ついたのだが、こうも堂々と謝られるとそう言うほかなかった。天沢は頭を上げた。彼の瞳がじっと悠の目を見た。悠にしてみれば、静里以外の人の目を見つめるのは久しぶりのことだった。

「昨日は緊張して思わず逃げてしまって言えなかったんですけど、今言わせてください。僕、先輩のことがずっと好きでした」

 率直に好意を伝える言葉を聞いて、悠は胸の奥がくすぐったくなった。天沢は震える右手を差し出した。

「僕とお付き合いしていただけませんか?」

 悠はどうしていいかわからなかった。少なくとも、差し出された右手を取ろうとは思えなかった。なにせ、悠は彼のことをほとんど知らなかった。交際などできるはずがなかった。しかし、ごめんなさいという言葉が、封じ込められたかのように出てこなかった。

「あの、私たち、お互いのことよく知らないし、その、友達から始めませんか? あなたのこともっと知ってから、きちんと返事がしたいんです」

 言葉の上では誠実な返答だと、悠は思った。同時に、自分の態度が誠実だとは全く思えなかった。

「わかりました。あの、じゃあ、連絡先だけ教えてもらってもいいですか」

 こうして悠は天沢尊から告白され、連絡先を交換した。それから約一ヶ月、天沢からの連絡が悠に届くことはなかった。



「そういえば、天沢くんとはどうなったの?」

「うえっ!?」

 ちょうど彼のことを思い返していたタイミングだったせいで、悠は体育館の片隅で奇声を上げた。バドミントンに興じる生徒たちの掛け声や足音のせいで、あまり目立たなかったのが幸いだった。その様子がおかしかったのか、悠の隣で質問の主である佐竹がけらけらと笑った。屈託のないその笑顔はとても可愛らしかった。

「別にどうともなってないよ」

 返事を保留したら一ヶ月音沙汰がなく、ちょっと悩んでいますなどと言うわけにもいかず、悠は逃げるように視線をコートで試合をしている静里に向けた。ちょうど、静里はスマッシュを決めたところだった。彼女の動きに合わせて金色のポニーテールが揺らめいた。汗が彼女の白い肌を伝っているのが見えた。

「やっぱ、告白されたの?」

「秘密」

 これでは自白も同然ではないかと、悠は自分の口を責めた。にやりと笑う佐竹もその言葉を肯定と受け取ったらしい。

「天沢くん、中学じゃ人気あったんだよね」

「そうなの?」

 たしかに天沢は美形だったから、よほどなにかの問題がない限り、異性から人気はありそうだった。

「吹奏楽部のエースの美少年だから、ファンが多かったって言うべきかな。毎朝、運動部並に早く来て一人で朝練してた。ちょうどテニスコートから見える場所でやってたから、私も毎朝見てたんだけど、朝日に照らされた孤高のトランペッターって感じでかっこよかったんだあ。文化祭でソロ吹いてるの見たけど、ほんとやばいよあれは」

 佐竹の口ぶりから察するに、彼女も「ファン」の一人だったらしい。佐竹はこの高校に最も近い黄桜中学の出身だ。たしか、そこの吹奏楽部はコンクールで全国に行くような強豪だったはずだ。その中でソロを務めるのだから、天沢の技量は相当なものなのだろう。そんな彼が自分に好意を向けてくれた。その事実が悠をくすぐる。

「君はそんな下品なにやけ顔よりも、自然な笑顔が似合うのを知っているかい?」

 静里の声がして、悠は顔を上げた。試合を終えた静里が悠の前に立っていた。悠は隣に置いてあった静里のタオルを差し出した。

「にやけてなんかないんだけど。で、試合は終わったの?」

「見てのとおり」

 静里はタオルを受け取って汗を拭い、結っていた髪を解いた。長い髪がさらりと流れ落ちた。悠はちらりとスコアボードに目をやった。静里が競り負けていた。

「惜しかったね」

「相手が現役のバドミントン部員だからな。素人がそうそう勝てるものじゃないさ」

 その相手を見ると、静里以上に汗だくだった。彼女も体育の時間に本気を出すはめになるとは思いもよらなかっただろう。次は悠と佐竹が試合をする番だった。ラケットを掴んで立ち上がった悠の肩を静里が軽く叩いた。

「君は高校に入ってからジャージや体操服を人に貸したことはあるか?」

「え、ないけど」

「じゃあ、上履きを他人のと取り違えられたことは?」

「それもないけど、いったいどうし」


「折川さん! はやくーーー!」


 コートから悠を呼ぶ佐竹の声せいで、悠は静里にどういうことかと聞き返しそこねてしまった。佐竹は準備万端という感じでラケットを振り回している。

「がんばってこい」

 静里にぽんと背中を押され、悠はしぶしぶコートへ向かう。整備不足でグリップがぼろぼろになったラケットは悠の手には馴染まなかった。



 お茶の入ったグラスとスナック菓子を二つをテーブルに置いて、悠は床に座った。静里は悠のベッドの上に腰掛けている。放課後になって、話があるから悠の家に行きたいと、静里が言い出したのだ。

「で、話って何?」

 静里は軽く深呼吸してから言った。

「天沢からの手紙だが、あれは君宛てではなかったのだと思う」 

「はい?」

 悠は静里が何を言っているのか理解できなかった。なぜなら、あの手紙にははっきりと「悠先輩へ」と書かれていたのだから。悠が首をかしげているのを見て、静里は続ける。

「手紙には『あなたの姿を見るのが毎朝の楽しみになった』とある。これはおかしい」

「なんで?」

 悠は首を反対側に傾げた。静里はため息をつきながらベッドから降りて、テーブルを挟んで悠の向かい側に座った。

「君は自力で気づけるだけの情報を持っているはずだが」

 静里はグラスを手に取り、お茶を飲む。外が暑かったせいか、静里はあっという間に半分以上を飲んでしまった。

「さっぱりわからないんだけど」

「君は普段、遅刻ギリギリの時間に登校するだろう。それは去年の春も同じだったはずだ」

「誰かさんのせいでね」

 悠の嫌味が聞こえなかったふりをしながら、静里はスナック菓子の袋を開け、菓子の一つを手にとった。

「つまり、そういうことだ」

 静里は手に持っていた菓子を口に入れた。もう説明は十分だとばかりに、もぐもぐと咀嚼している。悠は三度首をかしげた。それを見た静里は説明を付け足す気になったらしい。

「君、体育の時間に佐竹と話していた内容は覚えているだろう?」

「うわ、さすがの地獄耳。聞こえてたの?」

 試合の最中に聞き耳を立てていたのかと、悠は呆れた。

「まあね。佐竹によれば、吹奏楽部に所属していた天沢は毎朝、運動部並に早く学校に行って練習をしていたんだ。 遅刻ぎりぎりの君と朝に出くわすことはほぼないと言っていい。つまり、あの手紙が君に宛てられた手紙だとしたら、中身が事実と一致しない」

 それはあまりに単純すぎる矛盾だったので、悠は騙された気分になった。悠は立ち上がって机の引き出しを開け、天沢からの手紙を取り出した。封筒には「折川悠先輩へ」とはっきり書かれていた。悠は封筒を静里に手渡した。

「別人宛てなら、なんで宛名が私なの?」

「相手の名前を『折川悠』だと勘違いしたから以外にはないだろう。手紙によれば、天沢は意中の人物を通学途中に見かけただけにすぎない。そういう相手の名前を知る手段というのはけっこう限られてくる。天沢はどうやって意中の相手の名が折川悠だと『知った』のか?」

 静里は手紙をテーブルに置くと、また一つ、菓子を口に運んだ。つられて、悠も一つを口に入れる。

「んーと、名前と顔が載ってる何かを見るとか、誰かに教えてもらうとか、もしくは誰かにその人が名前を呼ばれているのをたまたま耳にするとか」

「それなら正しい名前を知ることになる。君と間違えることはあるまい」

「そっか」

 悠は少し考える。たしかに、通学途中に見かけただけの人の名前を知る、というのは意外と難しいのだ。そこに、勘違いが起こりうる、という条件も加わると、さらに手段は限られてくる。

「じゃあ、持ち物に書かれた名前を見る、とか……あ、それで体育の時にあんなこと聞いたのか」

 悠は思わず、ぽんと手を打った。この場合、天沢が意中の相手の名前を「折川悠」だと勘違いしたならば、その相手が悠の名前の入った悠の持ち物を持っていたことになる。

「そうだ。君は持ち物にろくに名前を書かないからな。君の持ち物で名前が入っているとすれば、ジャージや上履き、定期券とかのカード類、あとは何かしらの提出物くらいだ。ジャージや上履きの線はあの時の質問で消えた。君のカードの類を他人が持っているなんてことは考えなくてもいいだろう。提出物は普通、教員に直接提出するか、係の人間が集めて持っていくかで、勘違いを生むような状況は起こりにくい」

 瞬く間に、持ち物に書いてあった名前説が消えてしまった。悠が他の可能性を考えていると、静里は手紙を再び手に取った。

「ところで、この手紙は君の席の机の中に入っていたんだったな」

 急に話が飛んだことに戸惑いながらも、悠は頷いた。悠は菓子をもう一つ口に放り込んで、静里の説明を待った。

「つまり、天沢は『折川悠』の席がどこだか知っていたわけだ。これは、先に席を知っていて、あとから名前を知ったことの裏返しなのだと私は思う。要するに、君の席を意中の相手の席だと勘違いした天沢は、教室にある座席表を見たんだ。そして、そこに書いてあった『折川悠』を相手の名前と思い込んだんだ」

「それだと、今度はなんで私の席をその人の席だと勘違いしたのってことになるんだけど」

 悠はまだ納得できないでいた。

 静里の話はたしかに筋が通っていた。少なくとも、手紙の文面に矛盾があるのは事実だから、あの手紙が本当に悠宛てでないのは確かだろう。だが、悠にはもう一つひっかかることがあった。

「それに、私、たしかに告白されたんだよ? ずっと好きでした。付き合ってくださいって。それも、わざわざまた呼び出されて。天沢くんはなんでわざわざそんなことしたの?」

 静里はすぐには答えなかった。残っていたお茶を飲み干し、氷だけが残ったグラスをテーブルに置いた。しばらく金髪の毛先を指先に絡めて、じっと毛先を見つめている。

 再び静里が目線を悠に向けた。

「君の口が堅いのは知っているし、信頼もしている。そして、私にとって、君がいらぬ悩みを抱えているのが不快だ。だから私は自分の考えを話す。たとえ、他人の秘密を勝手に暴露することになってもだ。もちろん、君には口外しないでもらいたい」

 エメラルドグリーンの目は真剣そのものだったので、悠は頷くことしかできなかった。

「さっきの二つの質問は続けて説明したほうがいい。まず、天沢は意中の人の席を知った――厳密には君の席をその人の席と思い込んだわけだが――さて、顔しか知らない人間の席を知るにはどうしたらいいと思う?」

「実際にその人が座っている席を見る、とか」

「まあ、それが一番現実的だ。ここで君の席について考えてみよう。君の席は一番窓際の後ろから二番目。教室の中央付近ならまだしも、そんなわかりやすい場所では、隣や前後の席と一個勘違いした、ということは起こりそうにない。教室単位で一つ間違えたというのも同様にないだろう。私たちのクラスの教室は階段にもっとも近い、端っこの教室だからな。間違いが起こるなら、別のパターンだ」

 悠はじっと静里の話を聞いていた。静里は最後の一個になっていた菓子をためらいもなく口に運んだ。

「天沢は席を知るためには休み時間に意中の人の教室へ行くしかない。クラスを知ったのは偶然だったのか、わざわざ各クラスを覗いてまわって探したのかは知らないが、休み時間に、私たちの教室の前を通るときにでも、その人がどの席にいるかを確認したのだろう。そして、いつもその人は同じ席に座っていた。これなら、その席を、つまりは君の席をだが、彼の席だと錯覚してもおかしくない」

「彼……? あっ!」

 悠は静里が何を言わんとしているかに気がついた。休み時間、悠は自分の席を立ち、静里のところへ行く。そして、悠の席にはいつも――

「休み時間、君の席にはいつも羽田久志が座っていた。それもほぼ必ず。だから、天沢は君の席を羽田久志の席と勘違いしたんだ。それに君の名前はいわゆる中性的な名前だから、座席表を見ても間違いに気がつくことはないだろう。座席表にふりがなが振ってあれば、別だったかもしれないが」

 たしかに、はるか、という名前は女性に多いが、男性でもいないわけではないし、ましてや悠という漢字だけでは男女の区別はつかない。実際、悠自身も名前だけを見た人に男と勘違いされたことは何度かあるのだ。

「羽田は電車の混雑が嫌いで朝早く学校に来るのだから、天沢の通学に出くわしても不思議じゃない。天沢は朝に偶然見かけた羽田に恋をした。彼と同じ高校に入学し、彼を探した。君の席に座る彼を見つけ、教室に置かれた座席表を見て彼の名前を『折川悠』だと勘違いし、手紙を君の机に入れた。そして、告白の舞台に現れた君を見て仰天したわけだ」

 男性が男性に、女性が女性に恋をする。存在しないことにされがちな、たしかにこの世界に存在する、人間の気持ち。それが自分の周りにも存在したことは、当たり前のことなのだと悠は気がついた。

 同時に、悠の中でもうひとつの疑問がくすぶっていた。

「でも、それがどうして、私に嘘の告白をすることになったわけ?」

 静里はお茶を飲もうとグラスを手に取る。先ほどお茶を飲み干してしまったことに気がついて、グラスを戻した。

「今の私の話は、君が受け取った手紙は本来別人に宛てた手紙だった、という事実から出発している。間違いにさえ気がつけば、真相に辿りつくこと自体は難しくないだろう。だから――ここから先は完全に推測だが――、告白の舞台から逃げ出したあと、彼は懸念したんだ。もし、自分の間違いに折川悠が気がついたらどうなるのかと。自分が同性愛者であることに君が気がつくのではないかと。理解が広まりつつある現代でも、差別や偏見がなくなったわけじゃない。自分の秘密を見ず知らずの人間に握られる、勝手に言いふらされるかもしれない、というのは恐怖だ。そこで、彼は間違いを間違いでなかったことにした。君に実際に告白し、あの手紙は本当に君に宛てられたものだということにしたんだ」

 悠はもやもやした気分をごまかせないかと、お茶を一気に飲んだ。氷で薄まったお茶はおいしくなかった。静里もグラスを手にとって、氷が溶けた水を飲んだ。

「君は、その、天沢と付き合いたかったのか?」

 悠はひんやりとしたグラスを両手で握ったまま、じっと氷を見つめた。グラスを傾けると、下側の縁に氷が滑り落ちる。それを何度か繰り返しながら、悠は言葉を探す。

「付き合いたかったわけじゃない、と思う。ただ、好きだって言われて、ちょっと舞い上がってただけなのかな。私は静里と違って、そういうのに慣れてないから。私なんかを好きになってくれる人がいるんだって思うだけで、ちょっと気分がよかった。それだけ」

 悠はテーブルに置かれた手紙に目をやる。本当はここに来るべきでなかった手紙、悠のもとへ届くはずがなかった手紙に悠は浮かれていたのだ。悠は腹立たしくなってグラスの氷を口に入れて噛み砕く。

「今朝も言っただろう。君はもっと自信を持つべきだと」

「誰のせいだと思ってるのさ」

 自分の言葉と、その刺々しさに悠は驚いた。静里の顔を見ることができなかった。

「私には静里がとっても輝いて見える。静里は綺麗で、頭もよくて、運動できて、朝寝坊なとこがちょっと可愛くて、誰に対しても誠実で。学校の制服だって、私には似合わなくても静里には似合ってて、とっても素敵。静里の隣にいると、みんなが静里を見てるのがわかるの。でも、誰も隣の私なんて見てない」

「君は、私に嫉妬しているのか?」

 静里は悠の感情を一言でまとめてみせた。悠は自分の醜い感情を暴かれたような気分になった。怒りに近い理不尽な感情をなんとか抑えて、悠は笑顔をつくる。

「そうかも」

 声が震えていた。

 いつのまにか静里は悠の隣に来ていた。静里は泣きそうな顔をしていた。彼女は両手で悠の肩を掴んだ。その力は強く、痛いくらいだった。

「君は誰も君を見ていないと言ったが、そんなことはない。私はいつも君を見ている」

 静里の顔が近づいてくる。半ば押し倒されるように悠は後ろに倒れこむ。手に持っていたグラスから水がこぼれて、ひんやりと胸元を濡らした。エメラルドのような瞳が間近にせまったとき、悠は思わず目を閉じた。


 唇にやわらかい感触がした。


 頬に触れる髪の毛のくすぐったさ。伝わってくる肌の温かさと体の重み。心臓の鼓動。その全てが心地よかった。悠は時が止まったような錯覚に囚われた。唇が離れるまでに、実際にはどれくらいの時間が経ったのか、悠にはわからなかった。

 悠はゆっくりと目を開けた。静里の顔が目の前にあった。静里はぱっと悠から飛び退いた。体にかかる重さがなくなったとき、悠は惜しいと思った。

「ごめん」

 静里は逃げるように部屋を出て行った。その背を追いかけることもできずに、悠は静里が出て行ったドアを呆然と見つめていた。半開きのドアから静里が戻ってくる気配はなかった。悠は口づけの余韻の残る自分の唇に触れた。

 幼なじみで、親友で、憧れの人。そんな彼女から向けられた好意にどう向き合えばいいのだろう。悠は戸惑うと同時に、胸の奥で、たしかな幸福が熱を持っているのを感じていた。

 床にはスクールバッグが寄り添うように二つ並んでいた。

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恋文とキス 米谷明乃 @yonetaniakeno

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