まなざし-viewer-

鈴代

nobleness

 私たちは現実世界を生きている。確かにそうだけど、私にはもう一つの世界がある。それは私に寄り添い、現実で見つけた美しさを膨張させ、現実のつらさを緩和してくれる。心の中に無限に広がる想像の世界。私のためだけに存在する夢のような世界。


 授業中や食事中、友達と話しているとき、いつの間にか意識は飛び立っている。どこから湧いてきたのか分からない綺麗な物語を、気づいたら眺めている。調和のとれた絵画の前に一人立っている。そうやって想像の世界にのまれると、たちまち現実の身体は透明になってしまう。想像の世界が明瞭になるほど、現実がぼやけてくる。

 私を現実に繋ぎとめてくれるのは詩だ。詩は、想像の世界と同じくらい自由だ。表現に悩むことはあっても、詩を書いている間は気兼ねなく想像の世界に浸ることができて息がしやすい。詩は私にとって救いだけれど、彼女はすこし違うらしい。

 埃っぽい文学部の空気はなんだか停滞している。何が違うのかはっきりとは分からないけれど、他の部活にある熱気や勢いに欠けている。部室は教室の半分ほどの狭さで、向かって右側に私より背の高い木製の本棚があり、部誌や雑誌、小説などが整然と並べられている。しかし、それらは日焼けしていて、本棚の一番上からはたまに埃が降ってくる。部室の中央には長机が二つ向かい合わせに置かれていて、椅子は六つある。けれど、椅子は二つしか埋まらない。

 もう一人の文芸部員の彼女は、口下手な私と違ってよく喋るしよく笑う。明るく朗らかな雰囲気がある。でも、それは教室の中の話で、部室での彼女は鋭い。私みたいに詩に癒しを求めはしない。いつもなにかと闘っているみたいに緊張している。小説や短歌を書き上げても満足せず、まだ工夫の余地がないか入念に探す。それを繰り返して、丁寧に仕上げていく。彼女は私なんかよりよっぽど真剣に文学と向き合っている。

 彼女の瞳は曇りがなく、とても綺麗だ。だからこそ世界がちゃんと見えるのだろう。彼女がまっすぐに見つめた現実が小説に、短歌に反映されている。彼女は癖がなくて読みやすい小説を書く。しかし、彼女自身は無個性だとか稚拙だとか悩んでいる。彼女は現実を見つめることが得意だけれど、その視線は外側にばかり向いていて、おそらく彼女自身の美しさには鈍感だ。

 蝉の声が響き渡る晴れた夏。彼女に尋ねたことがある。

「どうして小説を書こうと思うの?」

「……書きたいから。んー、いや、違うかも。負けたくないから。自分が書きたい世界を一番うまく書けるのは自分だ、みたいな」

 彼女は自分の解答に納得がいっていないようで唸っていた。彼女の視線が何かを探しているかのようにあちこち彷徨った。しばらくして、再び口を開いた。

「他の人の小説とかを見て、絶対に自分に浮かばないような表現を見つけると悔しい。悔しいけど、書くのはやめられない。……やっぱり、書きたいからかも。嫌な思いしても、やっぱり書いていたい」

 彼女はまだ思いがまとまらないのか、困ったように笑った。

 私には彼女がまぶしく見えた。きっと彼女は圧倒的な作品に打ちのめされても、再び筆を執るのだろう。私はできない。そもそも私は書きたいものを書きたいように書いているだけで、彼女のように完成度を高めようとしていない。もし私が誰かと詩の出来を比較したとして、私の詩は劣等だと感じてしまったら、これまで私に寄り添ってくれた想像の世界は途端に色褪せてあっけなく崩れ去ってしまうだろう。私にあるのは脆弱な想像の世界だ。だからこそ彼女の持つしたたかさが魅力的に映った。

 彼女はずっと競争している。人の作品に負けたと感じたことは少なくないだろう。もし彼女が、自分の作品のほうが劣っていると思ったとしても、そんな評価に左右されない魅力があるとは気づいていない。彼女の作品と比べて、より秀逸な表現、より斬新な構成があるとしても、彼女の作品以上に彼女の世界が表現されたものはない。彼女の世界には静かで緊張した美しさがある。

 彼女の視線が彼女の内側に向くように私が誘導することもできるかもしれない。でも、私はそれをしたくない。彼女が自然と彼女自身を捉えるようになるならいい。だが、私の言葉程度で彼女の苦悩を取り除くのは癪なのだ。私の中で、彼女は向上心を秘めた気高い薔薇のような少女だから。自分の麗しさに気づかず煩悶する可愛い少女。

 現実に対する視力が落ちてしまった私には見えない世界を、彼女は鮮明に見ることができる。そのことをまだ自覚しないで、奮闘していてほしい。彼女には鋭利なままで書いていてほしい。私が読みたい。私が見たい。私だけの薔薇の花。

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まなざし-viewer- 鈴代 @suzushiro79

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