けのび
フカイ
掌編(読み切り)
海沿いの斜面にまぎれるように、そのホテルは建てられている。
半分以上の建築物を斜面の凹凸と木々の木立のなかに隠しているから、外部からは一見するとそこにホテルがあることすら、気づかれない。
そのホテルは、どの部屋からでも水平線がきれいに見渡せる。
ビーチこそないものの、海にほど近い斜面の中ほどに、ひょうたん型のプールが作られている。
プールの底はブルーに塗り込められ、プールサイドの白とあいまって、それは美しいコントラストになっている。
しかし、今日は雨。
自慢のプールも、グレイに沈んだ風景の中、ほの寒くみえる。
だが、考えようによっては、雨の日のプールとはなかなか趣きが深い。
宿泊客達はもちろん、こんな天気にプールに出ようなどと思わないから、誰一人としてプールサイドに人影はない。
そこに、髪をアップにした彼女が下りてきた。
素足。
肩にかけたタオルは、雨を避けられる屋内のベンチにおいてきた。
パープルの、シャープなラインのワンピースの水着を、彼女はつけている。
肩から背中へ抜ける白い二本線が、ワンポイントの装飾だ。
雨のなか、プールサイドですこしだけ、身体を伸ばした。
真剣に泳ぐ時に装着するゴグルを、彼女は目につけている。
足先を水につけて、水温を確かめた。冷たくはない。
水深1.3メートルほどのプールに、彼女は足先からするりと没した。
水は、必要最低限のしぶきしか立てなかった。
プールに立つと、胸の半ばから下あたりが水面となった。
両手をだらりと水中に下げたまま、彼女はあたりを見回す。
ゴグル越しの視界のなかで、グレイの雲の下端が、もうすぐ海に触れるように見えるほど低く、垂れ込めている。
そして海は雨にやさしく煙っている。
彼女自身の立つ水面もまた、いくつもの波紋が生まれては消え、生まれては消えしている。
雨は、ただ淡々と降りつづいている。
あたたかく、やさしい雨。
彼女は水中に上半身をゆだね、水中にある脚の爪先が、底を離れた。
両手を耳にぴっちりとつけて頭の先へ伸ばし、すこしだけ背を反らせ、同じく脚も、しなやかに伸ばした。
一本の棒のように、彼女の身体は水面に浮かんだ。
雨がぴちりぽちりとプールの水面を叩く音が聞こえる。可愛らしい音だ。
きれいに伸びた足の爪先で、彼女はプールの壁をとん、と蹴った。
グレイの海と、グレイの空。
その中間にある、白く縁取られた、ブルーのひょうたん型のプール。
その真ん中で、紫色の水着を着た彼女は、まっすぐに水面をすすんでゆく。
けのびの姿勢で。
上空から見たら、まっすぐに伸びた手の先から肩にかけて、彼女がきれいに水をおし割ってゆくのが判るだろう。
彼女が前に進むと、水は彼女を中心として、左右均等に二等辺三角形の波を広げてゆく。
その小さな波の、尾根にも谷にも均等に、雨の波紋を広げながら。
ぴちりぽちりぱちり。
雨の中、低い宙を飛ぶように、彼女は静かに水面をすすんでゆく。
けのびで。
このままずっと、雨がやまなければいい。
そうすれば、泣いていることは誰にも気づかれまい。
けのび フカイ @fukai
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