熱帯の小糠雨

フカイ

掌編(読み切り)







 素足で歩く、フローリングの廊下。


 すたりすたりと、静かに彼女はそこをゆく。





 廊下の左右の壁面には、20センチ四方の大きさの窪みが、


 等間隔でしつらえられ、


 なかに石仏の頭が、並んでいる。


 頭だけの石仏たちは、


 すべて目を閉じ、口を閉じている。


 男性とも女性ともつかない、


 静かでおだやかな表情をして、


 その廊下の壁に、鎮守している。





 ノースリーブの、紺のアオザイの裾が、


 はらりはらりと、宙にゆれる。


 確信に満ちた足取りで、彼女はマスター・ベッドルームへ入る。


 竹で編まれた引き戸を静かに開けて、ゆるく、風を部屋に引き入れる。


 窓からは、夕闇に沈みつつある、熱帯の森が見える。


 東京からは5000マイル。


 学会のあったジャカルタからは飛行機で1時間。


 ここへ来て良かった、と彼女は思う。


 オーラルプレゼンテーションと、


 その後の退屈なパーティーへの出席さえ果たせば、


 あとは自由な、





 カーテンを開けて、森を眺める。


 かすかな雨が、暮れゆく森に降りている模様だ。


 うっすらと、水のヴェールをまとい、原始の様相をとどめる森は、


 すこし、不気味な雰囲気をかもす。


 すでに先の見通せない濃い闇の木々の奥から、


 時を越えた何者かがこちらを見つめているような。


 あるいは未来の予感が、


 その湿った風にのってやってくるような。


 しかし、その不気味さは、神の息吹にも通じる気配。


 神やどる森、といわれる由縁か。


 片手に持った、シンハー・ビールビア・シンを、


 ベッドサイドのテーブルに置き、


 かわりに煙草を手に取る。


 一本をくわえ、ホテルのロゴマークがプリントされたマッチでそっと、火をつける。


 その、オレンジ色のともし火は、太古の神々への恭順のサインか。


 窓を開けて、森の気配を部屋にいれながら、


 ゆっくりと、煙草をむ。


 紫煙がつかの間、部屋に漂った後、神々の森にながれてゆく。


 自分の身体を一度通過した煙が、魂の一部をつれて、神々の元に帰ってゆくように。


 見るともなく、森に溶けてゆくその煙を、目で追う。


 静まる心。消え去る雨音。




 海外に来ると煙草が吸いたくなるなんて、自分でもどうかしていると思うけれど、


 致し方がない。


 そういう習慣なのだ。


 神宿る森の脇に建つ、三つ星ホテルにひとりで泊まるなんてどうかしている、と同僚は言ったけれど、


 これもまた、致し方がない。


 誰かと過ごしたら、


 この聖なる気配を感じることができようか?


 日暮れてゆく森の放つ、背筋の凍るような妖気が。


 けれどもどこか守護霊のように親しげで、


 そして鎮静の作用を持つ、この気配を。




 窓辺のソファに腰かけて、彼女は優雅に煙草を喫む。


 他と比ぶるべくもない、豊穣で静謐な時間だけが


 神々の森にながれてゆく。





 ここにはスコールさえもない。


 おもてはそぼ降る、小糠雨。


 ここにはスコールさえもない。


 おもてはそぼ降る、小糠雨さ。





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熱帯の小糠雨 フカイ @fukai

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