鏡像

逆傘皎香

鏡像

 私は、彼女と共に居た。彼女は、私と同じくらいの年月を生きていたが、精神は私を遥かに凌駕していた。精神というものに優劣が存しないと考えているならば、幼い子供と成熟した大人とを想像してもらえばよい。


単純な知識や、時間をかけて至る世界の認識の仕方、哲学的な思考において、彼女は完璧であった。私の出会った人間の中で、彼女は間違いなく精神的に最優であり、誰しも所有している人間としての隙を、彼女は有していなかったため、私は彼女が完璧である、と形容する。




 私は、彼女を愛していた。それは恋や色欲によるものではなく、人間が美しいものを愛するように、根源的な部分で彼女に魅かれていた。憧れの感情もあったが、私は彼女になれないということは理解していた。


彼女の海のような不尽の知識に触れたり、私の思考を打ち明けて彼女の形而上の見識に押し流されたりする時間は幸福で、永遠とも想えるほど充実していた。




 彼女はよく鏡を見ていた。外見を整えるわけではなく、ただ鏡面と視線を合わせていた。しかし彼女の眼は鏡像ではなく、その奥の彼方を見ているようだった。一度、何を見ているのか尋ねたことはあるが、その返答が私を満足させることはなかった。


彼女はいつも真剣な顔をしていたが、鏡を前にしている時の眼の鋭さにはどこか空恐ろしいものを感じた。そして鏡像と向かい合っている彼女には私の声は届かないようだった。




 一度、鏡の中の彼女の眼が私に向けられたことがあった。その時、私は腹の奥まで全てを覗かれたような気がした。一瞬ではあったが、通常なら何の意味も持たない一瞬が私の脳裏を支配して離れることはなかった。その一件の後は、彼女と鏡との対面は見ないことにした。




 月が形を持たない夜、私は星を見ながら散歩にでも行こうか、というつもりで家を出たことがあった。家を出てすぐ、背骨のあたりに悪寒が走った。私の心から離れたことのない、あの眼光が今一度私を捉えている。どれくらいの間、私は身動きが取れなかったのだろう。長い時間ではなかったと思うが、私はこの時間が永劫に続くように思えた。


気が付くと、彼女が立っていた。空気の澄んだ静かな夜の冷たい魔力のせいか、その日の彼女は妖しく見えた。触れれば実体の消えてしまいそうな儚さを纏っおり、美しさが増していて、見とれてしまった。


この時は、いつものような話ではなく、天気や植物の話をした。彼女の瞳は恐れを抱くようなものではなく、また普段通りの真剣な目付きでもなく、焦点があっていないようにも見えるほどぼんやりとした目をしていた。




 彼女は先に帰り、私は一人で散歩を続けた。空が紫に染まっていく頃、私は家に戻った。前日は雨が降っていたようで、空の色をそこらの水溜まりが照り返していた。




 目を醒ました時、昨夜のような話をまた彼女としたいと思い、声をかけた。彼女からの返答はなかった。近づいてみると、彼女は息をしていなかった。私は彼女を地下へと運び、安置した。




 糸のような月の出ている夜、私は彼女がよく対面していた鏡の前に立った。そこである違和感を覚えた。それは鏡に映った、向かいの壁に飾られた一枚の絵画が発していた。


絵画は怯えたように小さくなっている男性と、不自然なほど伸びた彼の影が赤々した光の差す橋の上に描かれているものだった。この絵画を壁から取り外すと、鏡が現れた。


私は改めて彼女と対面していた鏡の前に立つと、鏡像と目を合わせた。そこで私の心は凍り付き、しばらくその場に釘付けになった。あの気配がするのだ。どこかに、彼女の鏡像がいて、あの眼光を私に投げかけている。


馬鹿馬鹿しい、彼女は地下に運んだではないか、と脳に張り付いた幻想を払おうとした時、鏡の中のある一点が目に入ってしまった。


それは先程違和感を発していた絵画の置いてあった、位置、今では鏡が映っている位置である。合わせ鏡となり、世界を無限に反射し続けるその中の一枚に、彼女はいた。そして私がいた。


彼女が右手をこちらに伸ばしたから私が左手をこちらに伸ばしたのか、私が左手を伸ばしたから彼女が左手を伸ばしたのかは定かではないが、彼女は私と触れ合った。直後、大きな音が響いた。床にはこちらを見つめる大量の私の眼が転がっていた。どれを見ても黒い瞳を合わせてきた。眼。眼。眼。


彼女が部屋から出て最初に行ったことは、地下室に眠る彼女を沼に沈めたことだった。

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鏡像 逆傘皎香 @allerbmu

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