雨空と傘

凩 さくね

第1話


 人知れず地べたに伏し、もう息絶え動かなくなった同じホームレスの男性を見たとき、いつの日かは私もこうなってしまうのだろうと、諦めにも侮蔑にも似た感情を抱き、そしてまた何もなせずに消えてしまうことに焦燥を感じる。


 今日は生憎の雨空模様だった。


 雨を避けるように、ふらふらふらふら雨よけになるところを移動する。それでも体はどんどん濡れてって、車のはねた泥水ですっかり汚れてしまった。もういっそ諦めたと道の真ん中に出れば蔑む様な他人の視線を感じる。私はこういう不特定多数の視線が一番嫌いだった。特に人が一番嫌いだった。


 そんな視線から逃げるように大したあてもなく駆ける、雨脚はさっきより強くなっていた。もちろん、今更取り返しのないずぶ濡れ状態。だから通りすがるだけのアイツらを消す様に無視して、風と雨を切りながら強引に駆けた。


 私は社会の一部じゃなかった。世界の一部じゃなかった。いても、いなくても、誰の役にも立てない。むしろその存在自体を煙たがられるような邪魔者。そんな奴だった。


 ただ、なんでか。もしかしたらうしろめたいからかもしれない、私は顔を上げることがどうしてもできなかった。走っているうちに心臓が破裂しそうになって、足がガクガクになって、人気のない雨宿り場を見つけそこに身を潜めた。


 そうして蹲って、ただただ雨がやんでくれるのを待つつもりだった。


 「こんにちは、いや、もう時間的にはこんばんはかな? でもまぁ、初めまして」


 気づけば目の前には一人の青年が屈みこんで存在していた。


 「君は僕によく似ている、うちに来ない?」


 あまりの突拍子の無さに頭の中が混乱する。こいつは一体何を言ってるんだ? なんて感想とも疑問とも取れるものが私のちっちゃく大したことのない脳を徐に満たしていく。だから逃げるなんていつもの選択肢を考えることができなくなってしまったんだと思う。


 すると、青年は笑った。嬉しそうに笑った。


 こんなうれしそうに笑うやつのどこが私と似てるんだか、内心イライラが沸々とこみあげてくるのを感じた。


 だから少し、興味がわいたのかもしれない。目の前の青年と私のどこが似ているのか、全く似ていないと突き付けてやったとき彼は一体どんな顔をするのだろうとか。


 「来てくれるなら、ほら」


 彼は自分の持っている傘に入る様に促してくる。


 まぁ、いっか。どこ行く宛もないし、帰る家があるわけでもない。私は私自身にこだわりがあるわけじゃない。この後例え殺されたとしても、それはそれで私らしい終わり方かなって容易に受け入れることができる。自暴自棄、生きてる意味なんて解んなくなった私にとって、この先の未来なんて、今降ってる雨粒くらいにどうだってよかった。


 だから、これからの未来を、自分が捨てたような未来なら彼に預けた方がまだ時間が報われるだろう。そう思って私は差し伸べられた傘に入った。


 これが私と彼の生活の始まりだった。





 午後十時過ぎ、彼は仕事からくたくたになって帰ってくる。そして一緒にご飯を食べて、お風呂に入って、のんびりと過ごした後、彼はスイッチが切れたように寝てしまう。そして翌朝五時、彼と私は起きて晴れればふたりで散歩に出る、彼は決まって今日はいい天気だねと言うのだった。雨の日はのんびりしたり、少しじゃれたりなんかして。そうして朝八時になると彼は家を出る。


 「ユキ、行ってくるね」と「ユキ、ただいま」


 彼はこの言葉を好んで発っしている様だった。そして私もこの言葉は嫌いではなかった。彼から私に向けられた言葉が嫌いではなかった。


 嫌いだったはずの他人と紡ぐ日常は、私はそこまで嫌いじゃなかった。





 とある春の休日。


 この日は鼻に触れる風が心地よいそんな快晴の日で、彼の提案で少し遠出をすることになった

 彼は歩くのが好きな人種らしい。見慣れていたビルのたつ景観は足を進め昼頃になると、すっかり木々の生い茂る風景へと様変わりを果たした。


 彼は「少し前から、雪とここに来ようと思ってたんだ」なんて言った。ほんと少しの事で上機嫌になれるんだな、なんて思いつつ。少しその性格がうらやましくも思った。


 彼はたぶん私に合わせてゆっくり歩いていたんだと思う、だから当初の目的地に着いたときにはもう時計は午後三時を指していた。


 付いた目的地には、五十メートルほどの真っ直ぐに伸びた道があって、その両脇に規則的に並べられた満開の桜があった。彼を見ればこの光景を素直に楽しみ笑みを浮かべている。そして私の視線に気づいたのかその笑みをこちら側に向けてきた。


 「どう? 綺麗でしょ?」


 そう彼は問う、確かに綺麗だ。


 私の様子に「それはよかった」と彼は私の頭を撫でた。


 それからゆっくりと、桜を眺めながら一直線の道を歩いた。桜吹雪に少しだけ気分がよくなって、それらを無邪気に追うように駆けると彼に「元気がいいね」って一笑されてしまった。


 「いい日になった」と彼は言う、その通りだと思う。


 「また来ようね」と言われて、来年という概念に初めて私は希望を募らせた。


 とてもいい日だった。





 「ユキ、ただいま~」


 “おかえり。”


今日の彼は普段より一層疲れている気がした。居間に私が座っていると後から腕を回してきた。それでも私には全く体重なんてかけないように重心を移動させているのだろう、彼の重さを私は感じることはなかった。


彼は仕事の不平不満の一切を私の前では吐露しない。それは半ば意地のようでさえ感じられるほどに徹底されていた。その代りなのだろうか彼は疲れるとこうして私を後ろ側から抱擁するようだった。


「ユキ―」


ただ名前だけ呼ばれる。ただ呼ばれたことで彼の疲れが吹き飛ぶとか何かが変わるとか、そう云ったことは何一つとして起こりえるはずは、万が一にもないのだけど。


名を呼ばれたからと言って、私が彼のためにしてあげられることなんてたかが知れているのだけど。


内心やれやれとか、お疲れ様だとか今彼に伝えたい言葉を想起させつつ。


あむ


目の前にあった、私を抱擁していた彼の腕を軽く甘噛む。すると彼はイテーなんて大げさな反応と共に腕を解いてそのまま後ろに寝そべった。


 こうすると、何故か彼は嬉しそうに微笑む。頬を緩めて、声をあげて笑って、ついでに涙腺も緩めて、笑ったまま涙を零した。それから放っておくとそのまま電源を落とされたように眠ってしまう。


 彼はいつも消毒の臭いがする、それが当たり前になった今ではもう、気にも留めていないのだけど。しかし彼が疲れて帰ってくるときには大抵、別の臭い、つまり人の死んだ匂いがした。


 鉄っぽい匂いだとか、胃の内容物が唾液に触れた臭いだとか、もがいたときの嫌な汗の香りだとか、具体的に表そうとすればたぶんそんなところなのだろうけど。これは本能的に人の死の臭いだと感じるものだった。


 そしてこの匂いが私は好きじゃなかった。


 シャットダウン間際の横になった彼の上に飛び乗る。そのまま顔を何度か撫でると彼は少し気だるそうに眼を開いてくれた。彼が起きたのでタオルを見せてお風呂に入る様に私は促した。


 「あ、あぁ。そうだね、風呂くらいは入って寝ないと、明日病院に迷惑かけるよね……」


 彼はそう言ってうつろな目を何度も瞬かせ、不確かな足取りでお風呂場へと向かった。


 彼は一体どれほどのストレスを抱え日々を過ごしているのだろうとか、ガラにもなくどうでもいいはずの事に小一時間ほど思考を傾け、彼が戻ってくるまでの時間を潰そうとした。


 しかし彼は待っても待ってもダイニングルームには戻ってこなかった。何事かと私は少しだけ焦燥に足を急かしお風呂方へと移動した。


すると彼はすんなり見つかった。リビングに転がった状態で。どうやら風呂から上がった後、眠気のピークが来てしまったらしい、はたから見れば軽く殺人現場の様な雰囲気だと思う、俯けで四方向にだらんと四肢が伸びていた。


 そんな様子に呆れつつ、いつものように彼の寝床から毛布を一枚引きずってきて彼に掛ける。すると大きなあくびが一つ出た。はてさて、私もつかれているようだ。この日はそのまま彼の横で寝てしまおうと決め、私は彼に寄りかかる様に横たわり静かに目を閉じた。


 冷たかったフローリングは少し上がった私の体温をちゃんと奪ってくれた。





 そしてその週の休日。


 「ほら、散歩にでも行こうか」


 台詞とは裏腹に声などこかいつもより弱い声で私にそう促すと、彼はふらりと玄関まで足を進めた。そのまま玄関で座り込み靴を履き始める。誰がどう見たって彼が心身とも疲労困憊しているのは一目瞭然で、なんていうか。


 そんな彼を見て、何となく、私は外に出たくない気分になった。


 彼が立ち上がろうとした瞬間、後ろから彼の上着を引っ張り彼を強引に座り込ませてみた。鈍い音がしたけど、まぁいたずらだと思ってくれたならいいかなって。


 当たり前だが、彼は少しだけ戸惑ったように私を振り返ってみてくる。そして私の行動をどう解釈したのか、私に向って「ありがとう」言葉を紡いでみせた。


 彼はまたいつものように微笑みを浮かべて、私を撫でようとし私の頭上に手を伸ばす、私はもちろん華麗にかわした。別に礼を言われる覚えはない、ただ私の気分が外に出たくなかっただけだ。


 「素直じゃないね」と彼は言洩らしまた微笑む。ええい、うるさいうるさい。


 私は逃げるようにして玄関を後にした、すると彼もまた私を追うように玄関からまた部屋の方へ身を戻した。


 結局この日は一日中を彼と部屋で過ごすことに使った。彼は始め日向で本を読んでいたのだけど、小一時間ほどでまた眠りに落ちてしまった。私はと言えば彼に寄りかかったまま同じように眠ってしまっていたのだけど。これを時間の無駄使いだとはこれっぽっちも思わなかった。


 だって温かい昼下がりに形成された絶好のお昼寝を誘う空気だ。眠らない方が損だろう?


 なんてのは建前なのだけど。


 ただ、まぁ、彼の背中は思っていたより大きくて、寄りかかっていて安心感があって、その点でいえばこういう過ごし方をして正解だったなって、この時私はそう思った。






 「ただいま、ユキ」


 もう何百回この台詞を聞いただろう。


 “お帰り。お疲れ様”私が玄関まで行くと彼は何も言わずに私を抱きしめた。


 もう、彼と出会ってから三年という月日が経つ。わたしはもう、君がいないと生きていけないな、なんて。


こういうことを素直に思える様な日が彼のおかげで迎えることができ、それを嬉しく思って、私は彼に軽く頬ずりをした。


 くすぐったそうな顔を見せながら彼は「なんだか、今日は嬉しそうだね」って、いつの間にか見透かされるようになってしまったのは癪だけど。でも、悪い気はしないかな、なんて。


そんな感覚に不意に捕らわれつつ。



こんな幸せな日々が、ずっと続いてくれればいいなって。本気でそう思ったんだ。



でも現実はそうはいかない、当たり前のことだけど。現実はそんなに甘くは出来てないし、そんなこと望むべくもないことは本当は最初っから分かっていたんだけど。


だって私は彼とは違うから。


彼のように明るくは成れないし、笑顔をいつでも見せることはできない。彼のように律儀でもなければ優しくもない。もっと言うなら彼の作るようなおいしいご飯だって作れないわけで

頭の上に生えた尖った二つの耳、すっと延びたしっぽ、黄色の目、白い無垢な毛。私にあるのはそんな彼の役には立てないような特徴ばかりだった。


そもそも二足歩行だってできないし。どこまで行ったって私はただの猫だ。


出自が飼い猫は十五年、でも野良は5年が精いっぱい。これが私に与えられた時間だった。


あと一年さえ生きれるのかどうかすらわからない、もし生きれたとしても彼と一緒にまたいろんなとこを歩き回ることはできなくなってくることは容易に想察できる。


それが死ぬより辛い。自分だけ老いていくことが、彼に颯と置いていかれることが、そして優しい彼の悲しむ姿を見るのが、私は想像しただけでどうしようもないくらい耐えられない。


彼の買ってくれた住処を抜けだして、不用心に開けっぱなしの窓から外に出た。最後だから、彼の顔くらい拝んどいてやろうとも考えたけれど、決心が揺らいでしまいそうで、怖くて、結局私は逃げた。


住んでいた団地の廊下、彼と見ていた景色は色が無くなったように思えた。月の青白い光は記憶をいい具合に塗りつぶしてくれたのだろうか。私はもう見覚えのないような道を通る気分でそれらを進み、私は立ち去った。






 今日は生憎の雨空模様だった。


 雨を避けるように、何の成長もなくふらふらふらふら軒下を移動する。それでも体はどんどん濡れてって、学習もしていない、昔と同じように車のはねた泥水ですっかり汚れてしまった。もういっそ諦めたと道の真ん中に出ればヒトの蔑む様な視線を感じる。私はこういう不特定多数の視線が一番嫌いだった。特に人が一番嫌いだった。


 彼以外の人間は嫌いなままだった……。


 逃げるように駆ける、雨脚はさっきより強くなっていた。もちろん、今更取り返しのないずぶ濡れ状態。だから通りすがるだけのアイツらを消す様に無視して、風と雨を切りながら強引に駆けた。


 ただ、なんでか。それとも後ろめたいからか、顔を上げることがどうしてもできなかった。心臓が破裂しそうになって、足がガクガクになって、人気のない雨宿り場を見つけそこに隠れた。


 そうして蹲って、ただただ雨がやんでくれるのを待つつもりだった。誰かを待つつもりじゃこれっぽっちもなかった。これからまた、野良として、独りで生きるつもりだった。


最後は独りで死ぬつもりだった。


「こんにちは。いや、もう時間的にはこんばんはかな?」

………。


また、傘は差し伸べられた。


顔を上げれば私をユキと名付けたとき、一緒に桜を見に行った時、日向ぼっこをした時、私を撫でたとき、それらの時と相変わらぬ微笑みを浮かべ彼は立っていた。


ここで差し伸べられた傘に入ってしまったら、これからもその純粋な笑顔をこちらに向けてくれるのだろう。でも、きっと私はきっとつらい思いをする。五年という野良猫に与えられた時間を考えればここで逃げることが一番の得策なのはわかっていた。なのに……。


それでも。


「かえろう? ユキ」


それでも、傷つくとわかっていたとしても甘えてしまうのは、彼と私の似ている所なんだろう。私たちは似た者同士だ。認めるよ、もう降参。







町行く人々は、上機嫌の白猫と笑顔の青年が同じ傘に入り進む光景に、ほんの少しだけ目を止めた。

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