第2話 化粧箱

 ある晩、彼の部屋をたずねると、追いつかれてしまう、と頭を抱えていた。

 ひどく狼狽していたので何が追ってくるのかと尋ねると、やっと僕がいたことに気が付いたようだった。見開かれた目で僕を捉えるなり、たしかに埋めたのに、とだけ言うなり黙り込んでしまった。僕はそれ以上問い詰めず、一晩中、彼と会話もなく将棋をして過ごした。


 翌日、再び彼の部屋を訪れると昨日とはうって変わって、いつものようにへらへらと笑いながら煙草と酒を勧めてくるので不審に思って尋ねた。例の問題は解決したのかい。

 すると、彼は眼鏡越しにぽかんとした視線をよこす。なにか問題でも?

 誤魔化しではなく、まるで検討もつかないようだった。


 昨日のことだ、と返すなり膝を打ち、お前のお陰で随分と落ち着いた、と顔を綻ばせた。いそいそと将棋盤を出し、昨晩の続きをしようと勝負を持ちかけてくるので、僕も追及しなかった。

 とりとめのない話に談笑していると、ふと彼の文机の上に見慣れない化粧箱が置かれているのに目がとまった。無精者の彼にしてはぞんざいな置き方をしていない。箱は、僕が手掌を目一杯広げたのよりも少し大きい。生成りの柔らかい紙の目は緻密で、模様こそないが随分上質なしつらえであろうことが遠目にも分かる。自然と視線が離せなくなって、駒を指す手が止まった。


 あれは、と尋ねようとするなり彼が突然姿勢を変えた。身体に遮られて箱が見えなくなる。誰かに贈るものか、または誰かから受け取った物なのだろう。すぐに気にならなくなった。


 勝負もそこそこに自室に戻ることにすると、帰りがけに身体に悪いところはないかと訊かれた。飲み過ぎたきらいはあるが否定する。

 ことさら彼は機嫌が良さそうではあった。


 それから、僕も彼も仕事が立て込み、恒例の将棋もどちらかの部屋で呑み交わしながらの談笑の機会もなかったため、僕はすっかり箱のことなど忘れてしまった。


 妙なことが起こったのは、ひと月ほど経ってからだった。


 始めは風邪をひいたのかと思った。妙に身体が重い。ずしりとのしかかられるように、四肢も胴体も動かすのが億劫でならない。

 医者にかかり薬を飲んで緩解はしたものの、目減りするように体力が落ちていくとともに、割れるような頭痛に日に日に悩まされるようになった。


 そうこうしていると節々に力が入りにくくなる。詳しい検査をしても身体に異常は見つからない。あくる日、いよいよ床から起き上がれなくなったところで、見舞いに来た者があった。


 彼だった。


 平時と変わらない顔色で、痩せも太りもしておらず、なんら変わりのない彼を見ていささか安心した。彼は気遣いもたっぷりに、僕の文机の脇に座ってから調子はどうだ、と尋ねる。

 見ての通り風邪でもこじらしたかもしれない。と僕は返答した。うつしてもいけない。休めば良くなるから帰るように言う。


 彼はゆるゆると首を振って、いや、いや、いいんだ。うつる類のものではないと言う。やたら、確信をもった口調で。

 僕ははたと止まり、目だけで彼を再度見上げた。

 その手に、白い化粧箱があるのを認めた。


 それは、と尋ねた僕の声は震えていはしなかったろうか。


 見覚えのある化粧箱だった。ちょうどいい具合に仕上がったんだ、と穏やかに箱の上部を引き上げる。両目の奥が抉れるように痛んだ。見るなと訴えるように。本能がそうさせるように。

 箱は僕の手掌を目一杯広げたものよりも、少し大きい。丁度それは、僕の顔面ほどになるだろう。


 彼が蓋を引き上げて、箱を開く。

 霞む視界の先に、黄色みがかった乳白色の塊がのぞいていた。生成りの白。緻密な、表面。淡く柔らかな光沢を放っている。見た目こそ違うが、ひどく見慣れているもののように感じられた。――頰骨の位置、鼻梁の高さ、おとがいの幅、僕の顔に触れれば、そっくり同じものが同じ位置にあるだろう。


 もたないか、と彼は呟く。

 喉までせぐり上げる声を押し込めるように、気道が塞がる。

 ああ。あの晩。

 お前が長患いに追いつかれるのは悲しいから、と。風化しそうな笑みで彼は言った。

 棚から溢れかえる薬の束。最後に医者にかかったのはいつだ。擦れた視界で処方日を検める。――少なくとも一月以上は前のものだった。


 優しく箱の中身を撫でて、文机にそれを置く。とても軽い音がした。眼窩の洞は憐憫で鈍く滲んでいる。


 彼が言った。

 まだ外には出してやれないから。もう少し、上手くやるから。寺へも暗い地中へも、お前を遣りはしないとも。

 彼の厚い手が、僕の喉笛へとのびる。


 奇しくもあの日から四十九日が経った晩のことであった。

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謳う骨 日由 了 @ryoh_144

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