謳う骨
日由 了
第1話 楠
インドやタイなど各国を周遊してきた友人が久し振りに私に会いたいのだという。断る理由もなくこれといった予定もないので約束をとりつけ、5年ぶりに友人の居宅に招かれることになった。
約束の日になり手土産を持って友人宅を訪ねた。出迎えてくれた友人は、私の記憶の姿よりも日に焼け幾分か痩せていた。それでもにっぱりと浮かべられた人の良さそうな笑顔は変わらないもので、どこか安堵して彼の招きに応じた。
部屋に通されている途中、古い板張りの縁側から庭の楠が目に留まった。
枝ぶりは立派で、青々と茂った葉は薫風の中気持ちが良さそうに揺れていた。この楠も5年の間に様変わりしていた。私が見たのは植えて間もないころである。思わず感想を呟いたが、彼は緊張した面もちで礼を言った。てっきり喜ぶものかと思ったのだが。
それからは旅行中に彼が見聞きしてきたこと、私の近況、昔話に花を咲かせた。友人の部屋は5年前と寸分変わらず、旅行の荷物も綺麗に片付けられていた。友人のご両親や家のお手伝いさんの熱心さと不在の間の絶えない愛をひしひしと感じた。
話し込んでいる内にすっかり日も暮れ、彼は泊まっていくよう勧めてくれたが私は丁重に断った。
気のおけない仲でいたい私なりの処世術でもあるのだが、彼の家族に気を遣わせるのも申し訳ない。
彼は残念がったが、近くのホテルに数日滞在するため何日間か会える旨を伝えると、嬉しそうにしていた。
翌日。
友人は急死した。
前日までに会っていたのが私であったため諸々の聴取があったが、私は私が無実であることを知っている。なによりも彼を手にかける理由がない。私自身突然の死に衝撃が大きかったため何を答弁したかは記憶にない。司法解剖後、彼の死は不審死という結論になり、私も解放された。
衝撃の大きさにぽっかりと穴の空いたような気持ちで通夜と葬儀の日を迎えた。彼の家族とは多少なり親交もあったが、手伝いは断られた。ただの一介の友人にできることなどそれほどないのだと幾らかの寂寞を覚えたが、至極当然といえばそうだろう。仮にも容疑者だった友人に、そう易々と気を許してくれるわけがない。彼の両親が厳格であったことを抜きにしても、葬儀の出席を許してくれただけまだマシというものである。
葬儀では、友人と思わしき年齢の者は私くらいのものだった。人の良い彼のことだ、意中の恋人でもいたのではないかと思ったが、その影すらなかった。親族と彼の親族が懇意にしているのであろう厳しい顔つきの人ばかりだった。
彼の葬儀なのに、棺の中に彼がいないかのようだった。
そうであれば、どれだけよかっただろうか。
彼の葬儀の後、階段の踊り場の窓から、家族と使用人たちが庭に集まっているのが見てとれた。手斧にスコップなどを各々が手に、例の楠を囲んでいる。
彼の死からわずか数日の後であるのに楠の葉のみずみずしさは失われ、衰えてみえた。家の者たちは口々に何かを言いながら、木の根元を掘りにかかった。
窓は開いており風に乗ってかすかにだが彼らの話を運んできた。
虫のせいかしら、おいたわしや、まだお若いのに虫がついたから。ああ、坊ちゃん。おいたわしや。
口々に囁かれる言葉に目を伏せる。
……立ち入るべきでないのはわかっていたが、つい、立ち止まって厚手のカーテンの陰から楠の根を覗き込む。
根元周りの土が掘り返されていく。思い出の品でも納めるのだろうか、と私は考えていたが、目を見張った。
根に何かが絡み付いている。
木の根に絡めて捕らえられたそれは乳白色をしていて、石灰の塊のように思えた。大きさも形も不揃いのそれが徐々に露わになると、石の類ではないことに思い至り私は息を浅く吸い込んだ。
骨。骨だ。
彼のものではない。1人分ではない。
落ち着け。家畜の可能性もある。豚とか鶏とか。
自分の手で口を塞いだ。息を殺して窓から身を引いた背が、何かにぶつかった。無論、壁ではない。
おや、と、嗄れた声がした。
それが一体誰だったのか。私は振り返らず走り出した。乱暴な音を立てて階段を転がり下り、鎧戸を千切るように開け、彼が時折、息が詰まると言っていた巨大な門扉を破るようにして、飛び出した。
どうやって滞在先のホテルまで戻ったかは覚えていない。彼には申し訳ない上に無礼千万だが布団を被って丸一日震えていた。
ただ、走り去る前に視界の端で捉えたものが焼き付いて離れない。
幹の脇に積まれたおびただしい数の砕けた白色の塊と、私の背後から伸びつつあった錆だらけの手斧。
嗚呼やはり悪い虫がついてしまった、と、嗄れた声は彼の老執事のそれにとても似ていたように思う。
それから一夏が過ぎて、再び彼の家を訪れた。
我ながら、なぜそう思い至ったのかも分からないが、単に気持ちの整理をしておきたかったのだと思う。葬儀の後見たものに納得のいく答えが欲しかったのかもしれない。
売り土地の看板が広大な更地にぽつねんと立っており、彼が遠回しに嫌悪した彼の家は跡形もなく消えていた。近所の人に尋ねたところ売りに出されたものの買い手も付かず、桜の頃に解体工事を行ったらしい。
巨大な門扉も。荘厳な屋敷も。何度か訪れた彼の部屋も。庭にあった楠も。何もない。
綺麗な桜の木の下には死体があるなどと嘘八百であるが、では楠ならばなんとしよう。立派な楠の下に死体があったのならば。
後日調べて判明したことだが、彼が海外を周遊、もとい家を出奔する前に、彼の周辺では失踪事件が相次いで起きていた。彼に好意をもったもの、または、彼が好意をもったもの、その全て。
楠はその幹より樟脳を精製する。
彼に惹かれ、彼が魅了されたもの。両者は総じてあの厳格で構成された箱の中では取るに足らない虫であったのだろうか。あの日、海外から呼び戻された彼を見て悟った。全てを語れなかった彼の部屋。愛で塗り固められた虫籠で彼は自身の火に飛び込もうとしていたのだと。
かつての場所に陽炎がさす。その傍へ目を細めて見遣れば、ひなびた楠の若木が、恨めしそうにこちらへ枝を伸ばしている。
隣の庭先で蝉の落ちる音を聞いた。
どうせ羽虫であるのなら蛍でありたかった、と私は随分と時期外れなことを考えながら、焦熱の場に背を向けた。
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