途切れた記憶と始まりの日 5
「今日は突然空き部屋の掃除をさせてすまなかったねタエさん」
サンルームで新聞を読んでいた下柳が紙面から顔を上げ、タエに謝る。すると彼女はゆっくり首を振った。
「いいえ。一威ぼっちゃんの突拍子のなさに、タエは慣れていますから」
顔の皺を集めてそう笑う彼女に、敵わないなと新聞を閉じる。
タエは今年六十になろうとしている。両親の代わりに自分を育ててくれた彼女には何年経っても頭が上がらない。
今日の夕飯のことや、生活備品購入に関しての報告を終えたタエが部屋を去る前、下柳に伝えた。
「そういえば、陽菜乃さん。明日から家事を手伝って下さるそうですよ」
「そうなのかい?」
「ええ。日常生活をしていれば、記憶が戻るかもしれないと」
「彼女の家には使用人がいただろう。あの子、家事なんてしたことあるのかな?」
「女学校に通っていたのですから、一通り問題ないのではないですか」
「ふむ」
それもそうかと納得していると、タエがそれにしてもと続ける。
「一威おぼっちゃんが陽菜乃さんをここに住まわせるとは、タエも思いませんでしたよ」
「意外かい?」
「それはもう。今回の縁談、おぼっちゃんは乗り気ではなかったのでね」
下柳はふむ、と足を組みタエを見据える。
「タエさん、僕はわがままで、気になったことをそのままにはしておけないのだよ」
「それは充分存じておりますが。何か気になることが?」
「・・・・・・そうだね」
自分の縁談相手である彼女の顔が浮かぶ。
日常生活を行う上での記憶に問題はないようだが、彼女自身や、彼女に関わる周囲の人間のこと。それらすべての記憶を失ったと彼女は言っていた。
その顔は、嘘を吐いているようには見えなかった。
しかし、自分との縁談前日に起きた凄惨な事件。
縁談と事件に関わりがあると読むのは、考えすぎだろうか。
「でも案外僕は、怪我をして動けない雛を大空へ飛んでいけるようになるまで見守りたいだけかもしれない」
からりと笑う下柳に、タエは大げさに肩をおろした。
「タエは一威ぼっちゃんが考える事は難しくてよくわかりませんが、ぼっちゃんがそうしたいと言うのなら、力になりましょう」
「うん、助かるよタエさん」
それでは、とタエがサンルームを出て行った後、下柳は全身をソファーに預けた。
「さて、どうなるだろうね」
自分の行動が吉と出るか凶と出るか。
静かに目を閉じたその先に答えはなく、ただ深い闇が広がっていた。
うたかた輪舞曲 ~下柳伯爵と迷子のヒナドリ~ 靺月梢 @kokko
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