途切れた記憶と始まりの日 4
下柳が足を止めたのは、モダンな西洋造りの一軒家の前だった。
そのお屋敷は周囲の建物とは比べられない程に大きい。
自分の家だという屋敷も大きいと感じたけれど、この屋敷はそれ以上だ。
陽菜乃が目を開き屋敷を見上げていると、下柳が慣れた調子で扉を開いた。
「タエさん、今戻ったよ」
「おや
彼を出迎えるかっぽう着姿の年配の女性に、下柳が頷く。
「ああ。思ったよりも早く彼女に会えてね。タエさん、サンルームに紅茶と・・・・そうだな、貰い物のチヨコレイトがあっただろう。それを持って来てくれないかい?」
「かしこまりました。タエにお任せくださいませ」
曲がった背中を少しだけ直してタエが奥へ消えていく。
「さぁお嬢さん、お茶会を始めようか」
下柳は傷一つない革靴を脱ぎ、玄関で立ちっぱなしになっている陽菜乃に笑いかけた。
********************
下柳に案内されたサンルームは、屋敷の外と同じように豪勢な造りをしていた。
緑を基調とした部屋は大きな窓に囲まれ、天井にはステンドグラスが施されている。
下柳と陽菜乃は木製の机を挟んで並んだソファーに、向かい合って腰を下ろす。
「失礼します」
陽菜乃が部屋の中を見渡していると、タエが銀製のお盆に乗った紅茶とチヨコレイトを静かに机に置く。
「ありがとう、タエさん」
「いえいえ。ごゆっくり」
タエが部屋を出ていった後息を吸い込むと、甘い香りが鼻孔をくすぐる。
「いい匂い」
陽菜乃がそう言うと、下柳が嬉しそうに「そうだろう?」と頷いた。
「これは英国のものでね。僕がパトロンを務めている店でもこの紅茶は評判がいいのだよ」
「パトロン・・・・・?あの下柳、伯爵は一体何をされている方なのですか?」
軍服を着ているから軍人なのかと思ったが、屋敷の前で会った記者には伯爵と呼ばれていた。それに、今パトロンとも。
一体何をしている人なのだと不思議に思う陽菜乃に、彼は片目を閉じながら「さて、何をしてる男だと思う?」と面白そうに微笑んだ。
「それがわからないから質問しているんです」
「おや、つれないね。このまますぐに正解を言ってしまってはつまらないだろう。考えてみなさい?」
考えて見ろと言われても・・・・・
陽菜乃は下柳をじろりと睨むが、彼は楽しそうに笑うだけだ。
「じゃあ忍者、とか」
その瞬間、ぶは、と破裂音がサンルームに響く。
下柳が紅茶を吹き出したのだ。
カップをカタカタと震わせ、口を拭う下柳の目には涙が溜まっている。
一体何が、と口を開く前に、下柳が震える声で言った。
「に、にんじゃって・・・・・ふ、っ、あっははははは」
可笑しくてたまらないというように腰を折り曲げて笑う下柳に、陽菜乃の顔が真っ赤に染まる。
「ほんとに忍者だとは思ってませんよ!考えてみろって貴方が言うから適当に言っただけで・・・・・っ」
「だからって君、ふ、ふふふ」
「もう忘れてください!」
いくつも名前を持っている彼はまるで小説に出て来る忍びのようだったからつい言ってみただけなのに・・・・・
陽菜乃が肩を落としていると、ひとしきり笑い終えた下柳が「ああ、面白かった」と涙を拭い、正解はねと続けた。
「僕はこの下柳家の当主。伯爵の爵位を持ち、同時に軍人の職にも就いている」
「さっきの、パトロンっていうのは・・・・・?」
「時々、銀座の街に出店する店のパトロンもやっているのだよ。まぁ、道楽といえばそれまでだが結構楽しくて・・・・・ふふ。残念ながら、忍者ではない」
「ですからそれはもう忘れてください!」
力いっぱい叫ぶが、無理な相談だなぁとからかわれる。
なんだか、この人は不思議な人だ。
初めに会った時は紳士然とした印象だった。
次に記者に向けた視線の冷たさは軍人特有のもののような気がする。
しかし今、彼の印象はそれらとは違い、悪戯好きの青年に見える。
どれが本当の彼なのか、どれも本当の彼なのか。
何にせよ、ころころと表情が変わるこの人に、短時間の間で何度振り回されているだろうか。
そういえば、あの時も・・・・・
陽菜乃は引っかかっていたことを思い出した。
「あの、下柳伯爵」
「なんだい?お嬢さん」
「さきほど言っていた婚約者、というのはどういうことなんでしょうか」
「うん、やり直し」
「え・・・・・?」
やり直し?とわけがわからず首をかしげる陽菜乃に、下柳は人差し指を立てながら、
「婚約者という言い方よりもフィアンセの方が洒落ていると思うのだよ」
そう言うので、思い切り脱力してしまう。
この人、もしかしてわたしをからかっているのだろうか。
陽菜乃はキッと下柳を睨みながら、訂正しますと前置きする。
「わたしがふぃ、あ、ん、せ、というのは本当ですか?」
下柳は満足げに頷いた。
「ああ。本当だとも」
「そう、なんですか・・・・・?」
「正確には、フィアンセになる予定だった、が正しいね」
「予定って・・・・・?」
「君は父上から聞いていないのかい?本来ならば今日、僕と君は見合いをする予定だったのだよ。場所は帝国ホテル。僕の叔母と、君の父上が設けた場だ」
「今日、ですか」
「あんな事件があった後だ。見合いは実質無くなったのだが、どうにも気になることがあってね。本庄家に立ち寄ってみたら、君に会えたというわけさ」
「・・・・・そうなんですか」
そう言われても記憶が戻ることはなく、陽菜乃は両手をギュッと握りしめ、顔を伏せる。
下柳が陽菜乃の顔を覗うようにして言った。
「君は、何を悩んでいるんだい?」
「え・・・・・っ」
顔を上げると、下柳の真っ直ぐな視線に囚われる。
何も言えない陽菜乃に、彼はさらに続けた。
「昨日の事件の事、ご両親の事、確かに君が不安になる要因は数え切れないほどあげられるが、君が本当に悩んでいるのは他のことのようだ」
「ど、どうしてそんなことがわかるんですか」
「さぁ、ただの勘だけど。僕の勘は当たるのだよ」
探るような下柳の視線に、息を飲む。
「下柳伯爵も、わたしが昨日の事件の犯人だって・・・・思いますか?」
声が震える。
陽菜乃は吐き出すようにそう言った。
震える指を見つめながら、自分は答えを聞く覚悟が出来ていないのだと気付く。
情けない。そう思っていると、顎に手を当て考え込むようにしていた下柳が「面白い事を聞くね」と漏らした。
「面白いって、わたしは真面目に・・・・」
「いや、失礼。失言だった。だが、不思議でね」
「不思議・・・・・・?」
「誰がどう言おうと、君自身が違うと否定すればいいことではないか。なぜ僕にそれを聞くんだい?」
「そ、れは・・・・・」
言い淀み、そして覚悟を決める。
真っ直ぐに目を見て話を聞いてくれるこの人なら、信じてくれるような気がした。
だから・・・・・
「記憶が、抜けているんです。事件の記憶も、事件前の記憶も、全部」
どんな風に自分が暮らし、生きてきたのかわからない。
陽菜乃がそう言うと、下柳が大きく目を見開く。
「目が覚めた時に診てくれたお医者さんには、おそらく一時的なものだろうと言われました。でも、いつ記憶が戻るかわからなくて」
陽菜乃が顔を伏せると下柳は立ち上がり、座っている陽菜乃の正面で静かに跪いた。
「え・・・・・?」
戸惑う陽菜乃に、下柳は笑顔を向ける。
「それならば僕のところに来るといい」
「それって、どういう・・・・・」
「しばらくこの家に住み、これからどうするのか考えるといいという意味さ。それとも君はどこか行く当てはあるのかい?正直、君が家に戻るのはあまり勧められないよ」
「あ、いえそれが、あの家には入りたくても入れなくて・・・・。病院で家の場所は教えてもらえたんですが、わたし肝心の鍵を持っていなくて」
「・・・・・あのね、お嬢さん」
「は、はい!?」
にこやかな笑顔から真剣な表情に変わる下柳に背筋が伸びる。
「あまりにそれは無鉄砲だ。帰る家がなければ今日はどうするつもりだったんだい?」
「ええと、家の前で一晩過ごしていたかもしれませんね」
「あのね、君は女性なのだよ?危機感を持ちなさい」
「で、でもだからといって下柳伯爵の家にお世話になるわけにはいきません!ご迷惑がかかりますし、それに話を聞いてもらえただけで十分です」
お邪魔しました、と立ち上がろうとすると下柳に腕を掴まれる。
痛くはないが、振りほどけそうにない。
「あの、下柳伯爵」
離して下さい、と言う陽菜乃に、彼は「嫌だ」ときっぱりと言い切った。
「君は僕のフィアンセだ。少しは僕の意見も聞きたまえ」
「ふぃあんせって。今日のお見合いは無くなったんでしょう?」
それはつまり破談ということだ。
だから、彼にここまで親切にしてもらう理由はない。
そう伝えたのだが、下柳はそんな事知ったことではないという風に言い切った。
「僕が君をフィアンセにしたいのだから関係ないよ。君は嫌?迷惑かい?」
「・・・・・・わかりません」
掴まれた腕が、彼の唇へ引き寄せられる。
下柳は慌てる陽菜乃を視界に入れ、目を細めた。
「なら、わかるまでここにいなさい」
気がつけば陽菜乃は、小さく頷いていた。
「うん、いい子だね」
さっそく家の中を案内しようと言う下柳の後を陽菜乃は追う。
「ありがとう、ございます。あの、わたしに出来ることがあれば言ってください。なんでもしますから」
「じゃあ今日はゆっくり休みなさい」
「そういう意味ではなくてっ」
陽菜乃は下柳と言葉を交わしながら、ここに来た時よりも軽い足取りでサンルームの扉を静かに閉めた。
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