明日の黒板

湊波

明日の黒板

「三浦春子さん! 俺と付き合ってください!」

「お断りします、夏男君」

 夏男の一世一代の告白は、そうやってあっさりばっさり終わった。

 目の前の幼馴染は、躊躇いも心残りもない、まったくの綺麗な笑みを浮かべて首を傾ける。

「ごめんね」

「いや、あの、えっ……?」

 戸惑う夏男を他所に、周りは一気に盛り上がる。

「ぷ、くくっ! 夏男のやつ、本当に告りやがった!」

「いや、そりゃ失敗するだろ!」

 ばんばんと肩を痛いくらいに叩くのは、夏男をけしかけた張本人たちである。

 卒業式の終わった教室。皆浮かれていたのだと思う。黒板は色とりどりの模造花で彩られ、少ない色数で苦心して描かれたであろう、下級生からの卒業祝いの言葉が躍る。昼下がり。冬の終わりの日差しに染まり、電気ストーブの香りが微かに混じる空気までも、いつもと違って特別だ。

 これでもう、最後なんだぜ。心残りとかないのかよ? そうけしかけた、夏男は実に軽い気持ちだった。なんか、最後に馬鹿して遊ぶとか、先生にちょっとした悪戯するとか。その程度のことを考えていたのだ。

 で、なぜかそれが巡り巡って、夏男が幼馴染の春子に告白する流れになっていた、と。

 で、一瞬で失敗した、と。

「……いや、なんで俺こんなことになってんの……?」

「いやーまじ夏男ぶれねぇわ」

「お前のそういう男気? ユーモア? 一周回ってバカ? なとこ、俺は好きだぜ、友よ」

 涙目でぼやく夏男を一斉に褒めたたえるのは男子たちである。

 一方で、夏男の幼馴染……春子を囲うように立つ女子たちは、ひどく冷たい目で夏男達を見ていた。

 というか、見下していた。

「よく言うわ、男子たちは」

「デリカシーってもんがないわよね、ホント。春ちゃん、大丈夫? 傷ついてない?」

「えぇ? まさか。夏男くんはいつもこうでしょ?」

「さすが春子様。クールなとこがたまらないわ」

 気づかわしげな女子の声にしかし、春子はクスクスと笑いながら肩をすくめて見せる。あまりにも、すげない。夏男が恨みがましく取り巻きを見つめれば、その視線に気づいた女子の一人が馬鹿にしたように鼻で笑った。

「というかね、春子は海外に留学するのよ? あんたと付き合えるわけないでしょ!」

「えぇ!? マジで!?」

 ちょっと待った。それは聞いてない。信じられない気持ちで夏男が春子を見れば、彼女は何故かさっと目を逸らした。夏男は慌てて周りを見やる。そうすれば、誰も彼も……というか、自分以外の男子も含めてほぼ全員が、気まずげな笑みを浮かべている。

「……えっ、ちょっと待った。聞いてないの俺だけとか? いや、なんで高校最後の日に突然のいじめ?」

「ち、っちげぇよ夏男! ただ言うな、って三浦さんが言うから!」

「いいじゃない。女の子には一つや二つ、言いたくはない秘密があるものなのよ? 夏男君はその辺の男女の機微ってものを学んだ方がいいわ」

「……ちょ、お前、キビってなにか知ってるか……?」

「し、しらねぇよ……きびだんごじゃねぇの……?」

「あんたら男子の頭の悪さには、本当、呆れて物も言えないわ……」

 夏男の親友は必死に弁解をし、春子の親友はすげなく言い捨てた。言いくるめられたのは男子の方だ。悲しいかな、この手の戦いで、男子が勝てた試しは一度もない。女子筆頭、春子が小さく噴き出した。まるで勝利宣言みたいなそれに、夏男は意を決して手を上げる。

 ここで引くことは許されぬ。散っていった友のためにも!

「こーぎします!抗議!」

「うるさいなぁ、男子は……」

「まぁまぁ……それで、夏男君? 何を抗議するのかな?」

 呆れたような親友をなだめて、春子は小首を傾げた。色素の薄い髪がさらりと零れて額にかかる。

「あんまりだ! 俺ばっかり傷ついてんじゃん!」

「えー? 自分で言い出したんでしょう?」

「はい! 参考までに聞きたいです! 春子先生!」

「はい、何でしょう? 夏男君」

「俺のどこが駄目なんですか!?」

「えー……」

 春子は逡巡するように視線を上にあげた。クラス中が口を紡ぐ。夏男はごくりと唾を飲み込む。遠くから、浮かれた生徒の騒ぐ声が聞こえてくる。

「……全部?」

「これはひどい!!!」

 大げさに叫んで、夏男は床に突っ伏した。クラス中が爆笑に包まれる。どんまい、夏男! 今日は飲もう! だなんて、男子達から慰めにもならない慰めが飛ぶ。うるせー! と夏男は半ばやけくそで返した。それでまた、笑いが起こる。

 まったくもって、いつも通りだ。夏男が調子よく振舞い、春子が諫め、クラス中が明るい笑いに包まれる。明日も明後日も続きそうな、この流れ。


 卒業する自分たちには、明日も、明後日も、ないのだけれど。



*****



 誰もいない教室を開ければ、昼の残り香のような空気が溢れてきた。暖かくて、少し埃っぽい。

 違うのは、外がすっかり日が暮れていて、人気の欠片もないことだ。夏男はスマートフォン片手に歩いて行った。電気をつける気にはなれなかった。手元のライトが床に落ちる。無機質な白い光が夏男を誘導する。それさえも、なぜかこの空気に不釣り合いな気がして、夏男は電灯のスイッチを切る。

 教室は真っ暗になる、わけではなかった。窓から蒼白い月明かりが差し込む。黒板の端だけを照らし出す。昼間、鮮やかに彩られていたそれ。今はしかし、見る影もないくらい何もない。纏うものもなくなった黒板。その大半は、月明かりも届かない。夜の色を湛えている。深く、濃く、底の知れない色。

 まるで、自分の中の見てはいけないものを覗いているかのような。

 浅く、呼吸をした。ふらりと夏男は足を踏み出す。スマートフォンを教壇の上に置く。


 ねぇ知ってる? 午前十二時の黒板に願い事をかけば、それが叶うんだって。


 春風のように柔らかくて心地の良い声が蘇って、消えた。夏男はちびたチョークを手に取る。

 真っ暗な世界に、真っ白な線が、いっぱいに踊る。微かな音と共に。密やかな息と共に。時折、黒板に引っかかる白い欠片は、悲鳴のような軋んだ音を立てる。

 もう一度浅く息を吐いて、夏男はチョークを置いた。目を瞬かせ、書き上げたそれを見る。乱暴で、お世辞にも綺麗とは言えない文字。黒板いっぱいに描かれた、たった二文字。けれどそれは、彼を現実に引き戻すには十分だった。

「……ばっかみてぇ」

 苦笑いして、夏男は黒板消しを手に取った。誤魔化すように急いで消す。もう一度チョークをとった。今度は長いチョークだ。黒板の端。月の光で明るく照らされたところに、小さく文字を書く。白い線は、まるで自分の口みたいに滑らかに動いた。



『君が、幸せに暮らせますように』



*****



「いやいやいや、ほんっとすみませんっ!」

「阿呆! 本多! 卒業式の日に忘れ物する奴があるか!」

「そこをなんとか! 先生!」

 翌朝、夏男は学校の前で教師に平謝りしていた。忘れ物をしたのである。卒業式の日に……というか、正確に言うと、卒業式があった日の真夜中に、なのだが。これを言うと、目の前で顔を真っ赤にして怒っている元担任の話がますます長くなりそうなので、黙っておいた。

「いやー、俺、先生のこと、すっごくイケメンだと思ってたんすよね! 心が広いってゆーかー、優しいってゆーかー」

「お前は……そのお調子者のところ、もう少しなんとかならんのか……」

「えーだって、これが俺の長所だし?」

「こんな時くらい神妙な顔しろって言ってるんだよ、俺は。お前、春から働くんだろ?」

「そうっすそうっす。いやー、俺の人当たりの良さの勝利っすよね!」

「はぁ……もういい。早く取って来いよ」

「サンキュ! 先生!」

 からりと笑って、夏男は学校に飛び込んだ。まったく、スマートフォンを忘れるなんて。夏男は胸の内で自嘲する。昨日の自分はちょっとおかしかったのだ。

 明るくて、愉快で、馬鹿な本多夏男は、あんなことするはずないのだから。そう思って、自分を諫めて、昨日のことはすっぱり忘れておしまいにしようと夏男は思う。なんの躊躇いもなく教室の扉を開く。

 そうして、ぽかんと口を開けた。

 ほんの少しだけ残る埃っぽい空気は変わらない。けれど、真っ白な朝の光に照らされた黒板いっぱいに、見覚えのない文字が躍っていた。細くて、繊細で、でもどこか芯が通った真っすぐさを感じさせる文字。見間違えるはずもない、それは春子の文字で。

 彼女も来てたのか。夏男は小さな驚きと共に、黒板に近づく。ほんの少し、気恥ずかしくもあり、嬉しくもあった。彼女も自分と同じことを考えていたのだろう。そのことが。結局は、似た者同士で、幼馴染だもんな。だなんて、ちょっと呆れもして。

でも、それだけだ。

 目的の忘れ物は教壇の上にある。それをポケットに入れて、きっと春子が望むだろうからと、夏男は軽い気持ちで黒板消しを手に取った。

 手に取って、黒板にあてて、腕を動かそうとして。

 そうしてそれに気づいて、心臓が止まった。

 流麗に書かれた文字の下――うっすらと別の言葉が書いてある。一度黒板に文字を書いて、乱暴に消した、その残り跡。


 『私も』という、たった、二つの文字。それは確かに、夏男が最初に黒板に書いて、消し去ったはずの、言葉の返事で。


「……なんだよ、それ」

 夏男は、そうとだけ、呟いた。呟くことしかできなかった。誤魔化すように笑ってみようとして、失敗した。息をすることもできなくなって、その場に崩れるように仰向けに倒れた。朝の光が眩しくて、目を腕で覆う。


 ――笑うことも馬鹿をやることも、夏男にとって簡単なことだった。彼女が笑ってくれるなら。

 そのためなら、どんなにふざけたことだって出来る。本当は誰かと話すのも苦手なのに、人当たり良く演じることだってできる。彼女を心配させたくなくて、だから真面目に物を考えていることも隠した。

 でも、本当は分かってたのだ。

 春子が自分を悲しませたくなくて、海外に行くことを告げられずにいたこと。自分の家は春子の家とは比べ物にならないほど貧しくて、彼女を追いかけることなどできないこと。


 彼女はけれど、きっと夏男からの告白を……本気の告白を待っていたこと。


 そうして、自分は。


「お、れは……」



 君のことが。



 唇を動かす。声にすらならない音が空気に紛れて消える。不意に、朝の澄んだ空気が夏男の頬を撫でた。見上げれば、窓がわずかに開いている。カーテンが、真っ白な光を孕んで揺れる。


 青空が、見えた。どこまでも透き通って、深い青。その中を飛行機が進んでいく。真っ青な世界に、真っ白な飛行機雲を、儚げに残して。

 それが眩くて、苦しくて、耐えきれなくなって、夏男は泣いた。



『君が、幸せに暮らせますように』

『君も、幸せに暮らせますように』

 黒板に書かれた言葉は、静かに静かに、朝の光に照らされている。

 祈るように、ただ静かに。

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明日の黒板 湊波 @souha0113

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