第13話 嘘つき(その2)
――まどか。キミは月へ行きたいのかい、それとも、プロフェッショナルになりたいのかい?
メールは英語で、簡潔だった。差出人のアドレスは見覚えがあるような気がしないでもないが、しばらく考えてみても心当たりはなかった。悪戯かとも思った。けれど、それにしては、核心を突いていた。
私は月に行きたいのか。プロフェッショナルになりたいのか。
「まー、まー」
娘がペタペタと頬を叩いてくる。スマートホンを一度置き、娘を抱き上げる。胴の重さ。腰の太さ。頬を叩く手の力強さ。何かをしきりと話しかけ、泣き、笑い、不満を言い、目を離すと何をしでかすか判らない。毎日抱き上げ重さを感じているけれど。いつの間にか、こんなにもしっかり大きくなっていた。
こんな娘でも、ほのかでも。健やかに育っていけるような。
生きる場所とは、そういう場所だ。
スマートホンを取り上げる。メールを、返す。
――プロフェッショナルとして、月へ行きたい。
腕の中で娘は身をよじりだす。離せばハイハイであっという間に部屋の隅にまで行ってしまう。ゴツンと音がしたかと思えば、タンスの前で尻餅をつく。やがて盛大な泣き声が聞こえ始めた。
「ほのちゃんー!」
子供は勝手で何を考えているか判らない。不満があれば泣くか怒るか。けれどそうして主張して、自身の安全と快適を、確保するのだ。拙くて、幼くて、苦笑いしか出ないこともあるけれど。
スマートホンが新たな着信を告げる。
「痛いの痛いの飛んでいけー!」
抱えて、抱きしめ、頭を撫でて。あやしながら、メールを開いた。
――キミに学ぶ気があるのなら、チャンスを用意しよう。
今度のメールにはシグネチャーが入っていた。耳元で痛いのだとびっくりしたのだと主張を続ける娘の声を聞きながら、シグネチャーを眺めていく。
"prof."の文字が飛び込んできた。
―― Environmental Sciences prof.Mick Cuthbertson.
ミック・カスバートソン。
ブロンドの面接者の名に思い至った。
――キミが嘘つきかどうかを見てみたい。私が嘘つきかどうか、キミが判断すれば良い。
*
地下都市は至る所に防犯カメラが取り付けられている。見張られている対価として、子供から目を離したとしてもそうそう危険はないとされる。
各階層、各区画に一カ所は設けられている児童公園は、水道設備も噴水も殺菌され、万一のこともないようにと気を配られている。野生動物の糞尿や、鳥が運ぶという伝染病の心配もない。犬や猫や鳥やうさぎや、動物を飼うことは可能だが、届け出が必要であり、伝染病の予防注射や定期検診は義務づけられている。狂犬病など、万が一にも入り込んだりしないように。
下水は最下層の処理施設で処理されて、一部は戻され、一部は川へと廃棄される。その際に出る汚泥は、化学的処理の下、野菜工場などで肥料として利用されている。
空調は幾つも建てられたダクトを通じ、セントラルコントロールが成されている。各家庭では好みに合わせて微調整を行えば良い。
採光は光ファイバーを通じて取り込んだ天然光を有害な紫外線を除去した上で各フロアへ分配、また、不足分は、電気エネルギーでまかなっている。電気エネルギーは太陽光発電や汚泥分解時の熱を利用するなどで得た電力に、都市外での発電分を購入していた。
そのために日々どこかで点検がなされ、工事がなされ、街が、暮らしが、支えられている。
安全でクリーンで環境にも配慮し、人々の健やかな暮らしを守るための都市。金糸雀を死なせないように全力を尽くすように。
「ほのちゃん、この街は好き?」
娘を抱いて、階段を上がっていく。階層ごとに似たような作りのはずでもどこか違うのがなんとも不思議だ。
エレベーターフロアの前に、明るい服飾店が並ぶフロア。生活密着の食料品店が並ぶフロアに、本屋、楽器屋、そんな店が場を締めるフロアもある。
フロアにたどり着き娘を下ろすと、だいぶしっかりしてきた足取りで娘は歩いて歩いて戻ってくる。たまに、戻らず迎えに行く。
娘は散歩の犬にも動じない。たまに出くわす猫にもうさぎにも歓声を上げて近寄っていく。警戒心のない、天真爛漫と言える性格だと思う。
明るく屈託なく少女達が目の前を過ぎる。
ランドセルを揺らした小学生達が、じゃれないながら過ぎていく。
杖をついた老人達が、お喋りしながらゆっくりゆっくり横切っていく。
それをカメラと警備員が感情もなく、見守っている。
籠の中で金糸雀が歌っている。
屈託もなく歌い続ける。
「ほのちゃん、お母さんは」
*
帰宅する。娘の手を念入りに洗う。しっかり水気を拭き取れば、とたとたと音を立てながら、好きなところへ行ってしまう。
私は一つ息を吐く。娘が居間へ入ったことを横目で見て、徹の書斎をノックした。
「徹、話があるの」
ん。待って。くぐもった声が聞こえる。程なく、頭をかきつつ、首を捻りつつ、扉が開けられた。
「どしたの。改まって」
私はもう一つ、息を。
そして。
「アメリカへ行きたい」
学んで、知って、考えて――籠を出て。
「月へ行くの」
**
どうにも納まらないグラデュエイトキャップを掴んで、駆けだした。
「ちょっと、プロムは!?」
「ごめん、無理!」
友人の声に謝りながら、階段を駆け下り校舎を出る。正門まで駆け抜けて、正門側に駐められた小っちゃくてくたびれた日本車へと駆け寄った。
「お待たせ!」
「もう少しゆっくりすれば良いのに」
「いいの!」
後部座席に乗り込んだ。役目を終えたアカデミックドレスなど、皺になってもかまいやしない。
それじゃ、と車は走り出す。私は後部座席でもう、邪魔なばかりのドレスを脱いだ。
「急いだって飛行機は逃げやしないよ」
「落ち着かないの! だってもう、着いてるんだよね?」
「無事に着いたって連絡があったよ」
前座席の間に突っ込まれたタブレットを引っ張り出す。暗証番号など勿論知ってる。勝手に開けて勝手に調べる。SNS、メーラーその1、メーラーその2。その2に。
――ただいまって、もうすぐ言える。
ぷるんぷるんと気の抜けた音で私の端末が鳴り響く。画面には今日までのクラスメイトの名があった。
「ハイ」
『ホノカ、プロムは!?』
ジャッキーの声はちょっと大きい。少しだけ端末を離して、私は応える。
「プロムより、ママの方が大事!」
軌道ステーションから一日かけた、明日の朝。
月面基地の循環システムへ大幅な改良を加え、そして新たな課題をひっさげて。
人より早く届いたデータと報告に、既にラボは動き出していると聞く。
ママが帰ってくる。
月面研究員の一度目の任期を終えて。
――おかえり! 明日、軌道エレベーターの前で!
返信を押す。小鳥がメールをつまんで飛ぶ、アニメーションが表示される。
黄色い小鳥が。
月面の金糸雀 森村直也 @hpjhal
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