最終話 「    」

 十二月第三日曜、快晴の中山騎馬場。

 朝日杯(GⅠ、芝、千六百メートル)の盛り上がりは例年以上だ。

 一年生騎馬の王者を決めるレース、毎年社ノ台高校一強でのレースとなっている。


 今年も社ノ台の存在感は際立っているが、長きに渡り短距離界を席巻する進栄学院、マイラーの名門である大樹大学付属、業界の異端児館森高校。

 実力のある騎馬が揃い、着順を予想する楽しみに加え、見応えのあるレースを期待するファンで会場は埋め尽くされる。


 ゲートの枠順で決まる番号をマークシートで塗り潰すことで馬券を購入するのだが。

 三枠五番、館森高校。

 三枠六番、社ノ台高校。

 隣り合う両校の名は、一際目を引く。


 パドックに向かう前の控え室、ここでようやく各校が顔を合わせる。

「甲斐、強行日程でもよく出てくれた。お前が居ないと、王者になっても意味ないからな」

 宇藤くんが僕たちに声を掛けてきた。

「広井くん、有太、良いレースをしよう」

 栄士も元気そうだ。そして堂々としている。


 周りを見渡す。

 今までのレースと雰囲気が違う。

 皆、思い思いに集中していると思えば、騎馬同士で笑い合っていたり。

 時折、知らない高校の騎馬とも目が合うのだが、軽く会釈してくれる。気持ちに余裕、自信のある騎馬ばかり。


 事前のデータなどで注目されていない騎馬であっても、この場に至った騎馬なのだ。

 僕らもそのうちの一校。

 目を閉じ、眉間みけんのあたりを強く押す。集中力を高め、気持ちを引き締める。


 騎娘がやって来る。

 枠順で決まるリボンの色、赤いリボンで髪を結い、ポニーテール姿の和緒。

 上半身は勝負服で身を包み、ハイウエストな位置で白いスカート、レギンスを履いている。

 隣には同じ枠順で赤いリボンを二つ、ツインテール姿の天音さん。

 こなちゃん好みであろう真っ黒なメイド服でのコーデだ。


「冴、紅城さんを意識して黒なの? 生意気よ」

「和緒こそ、急にスカートなんか履いて。ジャージ姿からのギャップ萌え狙ってるんじゃないの?」


 相変わらずテンポ良く会話をする二人、僕たち騎馬の元へ。

「無駄話はここまで、パドックで皆が待ってる。集中しないと」

 和緒の表情が引き締まる。

 甲斐と鞍を持ち和緒を乗せる。

 控え室を出て、地下道を抜けパドックへ。


 過去二戦とは比較にならない光景。

 円形のパドックは観衆で埋め尽くされている。

 五階まで設けられたパドック席も超満員だ。

 手すりを掴み、のぞき込むように観衆は各校の騎馬を見つめる。

 さすがGⅠレース。


 あまりに人が多いため、人を探すのは困難であるが目立つ存在は相変わらずだ。

“甲斐さま”の横断幕はその大きさ、色使いもパワーアップしている。親衛隊の数も明らかに増えている。

 最前列に目を配る。

――居た! 

 興奮気味に騎馬を見る姫宮先生、隣には登山先輩、先輩に肩車されたこなちゃんの姿。

 いつもの光景に安心する。


 パドックのスクリーンを確認する。

 一番人気は単勝一・三倍で社ノ台。二番人気は単勝四・一倍で大樹大学付属、三番人気は進栄学院、四番人気に館森。

 社ノ台の一着、二着以下混戦の予想がオッズに表れていた。


王河おうがさん、やはり社ノ台が圧倒的一番人気ですが?」

「雨でも降って馬場状態が悪くなれば他校にも勝機はあったと思いますが、やはり今年も社ノ台でしょうね。仕上がりが別格です」

井伊坂いいさかさん、どうでしょう?」

「いやぁ~、やっぱり社ノ台は強いもんなぁ。死角探しても死角なし。連番大穴狙いとか面白いかも。社ノ台は不動でしょ。負けたら解説クビですっ」


 タイプの違う解説者も意見は同じだ。

 各校しばらくパドックを回る。


「あれってサイレンスサーキットの」

 パドック席から声が聞こえた。

 和緒の着ている勝負服、以前に甲斐から聞いていたサイレンスサーキットの騎手、広井晴信が着ていた勝負服であることに気が付いた。


「嫌なこと思い出したよ」

「広井甲斐って晴信の息子だったか。騎娘も晴信の……冷めるよね」

 あまり聞きたくない話が聞こえてくる。

「俺、サイレンスサーキットが一番好きな馬だったんだ。あの勝負服がまた見られるなんて最高」

「応援馬券買おうぜ」


 愛された競走馬の悲しい事故だったからこそ、気持ちの置き所に困った競馬ファン。

 思い出は今もなお、皆の中に残っている。

 和緒は批判を覚悟でこの勝負服を選んだに違いない。

 でも、ファンの反応は悪いことだけではなかった。


 パドックの周回を終え、僕たちは本馬場入場へと向かう。

 地下道を再び抜け、スタンド前のコースに出てスタート地点へ。

 各校の騎馬が、実況の大アナウンスと共にスタート地点へ駆けていく。

 一校一校が駆けていく度、スタンドは大歓声に包まれる。

 僕たちの本馬場入場だ。


「今年創部の館森高校、なんと初年度からこの大舞台へやってきました。鞍上は巧みな手綱さばき、正確なペースを刻む広井和緒、騎馬はその兄である天才広井甲斐。未知との遭遇こと折出有太との騎馬は、また韋駄天ぶりを発揮するのでしょうか!? 堂々の出走です!」


 地鳴りのようにスタンドが沸く。

 後ろに控えた社ノ台が見えたからだろうか。

 どちらにせよ、僕たちへの声援も相当に大きい。


「今の実況聞いた? 未知との遭遇なんて、僕は宇宙人扱いだな」

「存在が認められているだけでも良いじゃない」

 いつもの和緒の辛口に、珍しく甲斐が大笑いしている。

「和緒、有太、最高の舞台だね。勝とう」


 甲斐の一言で僕たちはレースに集中する。

 社ノ台の本馬場入場でスタンドの盛り上がりは最高潮を迎え、各校がスタート地点に集まるとスタンドは落ち着きを取り戻し、徐々にスタートへの意識が高まる。


 レース前の緊張感が中山騎馬場を包む。

 スターターが旗を振り、GⅠのファンファーレが鳴り響く。

 大型ビジョンに映し出される鼓笛隊、トランペットを吹く女の子に見覚えがある。


 僕たちの新馬戦、思うような演奏が出来ず泣きそうだった女の子、GⅠの舞台で演奏している。

 努力したのだろう。

 その姿に勇気づけられた。

 演奏が終わり、ゲートに入る。


 隣には天音さん、宇藤くん、栄士。

 言葉は交わさない。勝負をするだけだ。

 今まで譲れない瞬間はあっただろうが、目を背けてきた。

 自身のことだったからだ。

 このスタートの瞬間からレースの最後まで、僕は何も譲れない。

 和緒、甲斐との騎馬だから。


 和緒のハンドルを握る手が少し震えている。

 僕に伝わってくる。

――大丈夫、ヒロインを助けるのは俺だ。

 イメージと身体の動きが全て重なる。

 導かれるようにゲートが開き、僕たちは一気に飛び出した。


「朝日杯スタートしま、速いっ! 館森高校が絶好のスタートで前に出ます!」

 実況の入りを乱してしまうほど、館森高校は圧巻のスタートを切る。

「グングン加速する館森高校、二番手は進栄学園、舞音まいね高校、咲良さくら高校、大樹大学付属。社ノ台はややスタート出遅れたでしょうか? 最後方を進んでいます」


 過去二戦、単騎の逃げの展開で落ち着いてレースに集中出来たのだが、粘り強く進栄学園が追ってくる。

 簡単には逃げの展開に持ち込めない。

 だがそれは想定内だ。


「館森高校、まったくペースを落としません! 追う二番手の進栄学園もさすがに距離を空けます」

 位置取りを決めた段階で、ある程度ペースを整えてレースの流れに乗る。

“息を入れる”ことでスタミナ温存、勝負所を探りながらレースを進めるのが騎娘の鉄則であるが、先頭をキープしてもペースを緩めない和緒の姿。


「これはかなり速そうです!」

 千六百メートルのレースで馬群は縦長になる。

 明らかなハイペース、スタンドがどよめく。

 館森高校はただひたすらに先頭を駆ける。

 千メートルの通過タイムはどれほどだろう。


 誰もがほどなくして迎える千メートル地点の通過タイムを気にする。

 実況、観客、おそらくレース中の騎馬でさえ、千メートル地点の通過タイムでレースの展開が変わると思っている。

 一瞬の間が生まれる。

 その一瞬を突く騎馬が、千メートル地点通過を前に駆け上がる。


「な、なんと! 最終コーナー待たずして、社ノ台が最後方から一気に上がってくる!」

 最後の直線大外一気、そのスタイルを確立した社ノ台が残り千メートル手前から動く。

 それを見た各校、慌てて一斉に動き出す。


「社ノ台が動くと共に、レース全体が動き始めました! そして間もなく千メートルのハロン棒に差し掛かる館森高校、通過タイムは……ご、五十七秒台! これはとんでもないハイペースだ!」


 距離千メートルの勝ち時計に匹敵するタイムで館森高校が千メートルを通過、ひたすら逃げ続ける。

 付き合うのが馬鹿らしいくらいのハイペースの展開、これは館森高校が生み出した。

 最終コーナーを待たずして二番手以下、全騎馬が怒濤どとうの如く駆け上がる光景。

 これは社ノ台が生み出したもの。


 先頭、最後方を進んだ二校の騎馬に、翻弄ほんろうされるように各校は駆けるしかなかったのだ。


「最終コーナー、内ラチに沿って館森高校進みます! 後続は大きな群れとなっている! 社ノ台の姿は……」

 大外を駆け上がる社ノ台の姿が見えない。馬群は一団となって進んでいる。

 鋭く内を突く影。


「社ノ台が馬群狭いところ、インコースを突きます! 一団となった馬群を置き去りに、先頭の館森高校を射程圏に捉えているぞ!」

 六馬身ほどのリードを保ったまま最後の直線を迎える館森高校。


 いつもの大外でなく、距離をロスすることなくインコースを突いた社ノ台、見事な手綱さばきと騎馬の反応、瞬間移動したかのような圧巻の馬群抜け出しからの末脚が炸裂する。


「館森はまだ脚を残している! 樹! 栄士! 坂の手前で捉えないと厳しいわよ!」

 天音は紅城から教わった館森高校の最大の強みを警戒していた。

“スピードの絶対値”

 他が十割の力で走るとしても、館森は七割の力で走れてしまう。


 通常の騎馬であればハイペースであっても、紅城が持っているスピードが別格と評する館森のスピードを以てすれば、ハイペースでなく通常の逃げの展開。

 おそらく余力も残している。

 そんな仮説が現実になり得ると判断した天音だからこそ、このレースに勝つために早くから仕掛けに入ったのだ。


「お兄ちゃん、有太、大丈夫!?」

 千メートルをこれだけのペースで駆けて最後の直線を残す展開、これこそが未知との遭遇だ。

 確かにキツイが、そんなくだらないことも頭をよぎる。


 むしろブーツの調子が良い。

 過去二戦、和緒の巧みな手綱さばきに対し、僕のブーツは反抗するような素振りもあった。細かい指示を聞けない子供のように、時折足の運びを邪魔したり、一定のペースを刻んでは速く駆けようとしたり。

 今はとにかく足の運びがスムーズで、これだけのペースで駆ける僕の気持ちの余裕はブーツのおかげだ。


 そんなことよりも和緒だ。

 スタート直後から前掲姿勢でハンドルを動かし続け、コーナー姿勢では大きくハンドルを引き体を傾け舵を取る。

 今も全力でハンドルを動かしている。


「和緒、騎馬はまだまだ大丈夫! 有太、坂に入るまでが勝負だ! ここからまた未知の領域で駆けることになるけど耐えよう!」

 騎馬同士だからなのか?

 僕の未知・・を無意識に感じ取った甲斐、そう思えた。

 騎馬一体、これならいける!


「社ノ台、一気に差し切ると思われたが逃げる館森高校が力強く伸びている! 一馬身の差が縮まらない!」


 ハイペースの逃げ馬が最後の直線で迎える状況は後退だ。

 前半はレースに彩りを、後半は勝者に華を添える。

 まして相手は社ノ台だ。

 毎年、この最後の直線は社ノ台が単騎で駆けるウイニングロードだったはず。

 見たことのない光景、先頭を館森高校が駆けている。


「私だって悔しいわよ。騎娘になれるか分からない社ノ台に来て、頑張って騎娘になっても甲斐は居ない……」

 館森を追っても追っても差の縮まらないこの状況、天音が鞍上で呟く。

「俺たちじゃ不服か? 冴」

「馬鹿ね、その逆よ」

 樹の問いに天音は即答した。


「甲斐の居ない社ノ台は歴代最弱なんて言われたりもした。でも、樹と栄士との騎馬でここまで来たんだから! 強さを証明する! 負けられないでしょうよ!」

「僕も社ノ台の騎馬だ。ブロンズコレクターに甘んじるのは、樹と騎馬を組む前の僕。もう負けないよ!」

「そういう熱だよね、熱。いくぞ栄士! 冴!」


 僕は全力で駆ける。無心で。

 状況把握は騎娘である和緒に任せているので、五感も鈍感になる。

 そんな状態の中、確かな迫る感覚。


 一瞬だった。

 鈍感な聴覚ならなおさらだ。

 音も無く一瞬で抜き去られた。

 坂の手前五十メートル、ここで社ノ台が先頭に躍り出る。


「社ノ台、ここで伝家の末脚が炸裂する! 粘る館森をここでかわしたぁ!」

 半馬身社ノ台が出たところ、すかさず館森は食らいつく。

 館森の騎馬姿勢は大きく前掲に。

「中山最後の坂、心臓破りの坂で両校決着をつけるのか!? 再び馬体が合わさる!」

 後続は遙か後方、朝日杯の最後の直線は社ノ台と館森の一騎打ち。


 館森が得意の坂を追い風に、並んだ社ノ台を頭一つ分ずつ、一歩踏み出すごとにジリジリと引き離す。

「このまま、このまま行くわよ!」

 和緒がハンドルを力強く前に押し出す。

 騎馬の面は地面すれすれを突き、館森は坂を這い上がるような姿勢で力強く伸びる。


「絶対に負けられない!」

 天音の叫ぶ声、劣勢になりかけた社ノ台が再び末脚を繰り出す。

 和緒同様、ハンドルを大きく前に押し出す天音、呼応するように社ノ台の騎馬姿勢も低くなる。


「社ノ台、館森共に譲らない! 同じような前掲姿勢で馬体を重ねる! 凄まじい叩き合いだ!」


 大歓声が中山騎馬場を包む。

 残り二百メートル。

 トップスピードを維持してきた館森であるが息を入れるタイミングもなく走り続けた代償、スタミナがついに限界を迎える。


 疲労の蓄積がブーツを重くするのだろうか。足が重い。

 和緒を支える組手姿勢、かろうじて指先の力で耐えるが、二の腕が悲鳴を上げている。鞍、和緒の両足を組手で強く挟むことで血の巡りが悪いのだろうか。

 痺れてきた。


 なるべく力まずに消耗を抑えて騎馬として駆けてきたが、レース終盤を迎えると力で押し切ろうとすることしか出来ない。

 甲斐の苦しそうな表情。

 鞍上の和緒は呼吸が乱れ、ハンドルを押し切る範囲も徐々に狭く、騎馬のストライドの伸びも欠く。

 しぼんでいくように、館森の力が失われていく。


 社ノ台も相当苦しい状況に追い込まれている。

 ハンドルを出す度、天音さんは声を上げる。

 宇藤くん、栄士も目を閉じ天音さんと共に声を上げ、最後の直線を耐えている。


 僕はもう限界だ。

 社ノ台の背中が見える。ついに前に出られた。

 限界だけど、まだ耐えなきゃ。

 和緒、甲斐のために僕はここに居る。

 

 一人であればとっくに投げ出していること、ここは二人のために……。

 そう思っていても、下降していく現状を維持していくのに精一杯な僕、情けない。

 甲斐側のスピードの伸びを、僕の蹴り出す足が邪魔しているような気さえする。

 社ノ台の背中が遠ざかる。


「万策尽きた。ここまで冴たちが強いなんて……」

 ひたすらに走る僕、おそらく甲斐も同じ気持ちだ。

 ここまでやって負けるのか。

「私がもう少し上手く乗れていれば、お兄ちゃん、有太の騎馬なら負けないのに。社ノ台から逃げた私と、社ノ台の騎娘になった冴との差……悔しい…………」


 寒空の疾走感の中、冷たくこわばった僕の頬に暖かい感触。

 駆ける中で流れるものがぽつぽつと。

 突然の雨ではない。

 これは和緒の涙だ。

 その涙を受け止めた瞬間、僕の中に強烈にこみ上げてくるものがある。

 この瞬間に憧れた? 違う、思ってもみなかった。

 心の準備も出来ていなかった。


 ピンチの時こそヒーローは現れる。

 そんなヒーローになれるとは思っていなかったのに、僕は矛盾した気持ちを叫んでいた。

 あの時は一人だったから気付けなかった。


 隣には甲斐が居る。どう見たってヒーローだ。

 ヒロインと名付けられた和緒も居る。

 三人で一つの騎馬、一人で否定した物語のセオリー、二人のために否定しちゃ駄目だ。

 ヒーローもヒロインも物語には必要なんだ!


「ヒロインを助けるのはっ!」


 叫ぶと同時、全ての迷いが消えた。

 重く感じた足、重く感じるだけ、重くない。

 駆ける足、ブーツがそう教えてくれるようだ。


――努力してきたじゃろ?

 宗さんの声に嘘がつけるわけない。

 僕の気持ちに応えてくれるブルボンブーツ。

 余力は無いが歩数で勝負だ! と言わんばかり、一歩一歩を助けてくれる。


――よおぉしっ! 全力坂残り十本追加! アタシも一緒に走るぞぉ!

――ふふふ。やっぱり折出くんと広井くんの騎馬が一番ね。

――絶対に負けにゃい呪いをかけてしまったゃ……。

 騎馬部で過ごした全てが僕の身体を動かしていく。


 坂を駆け上がった後の平坦な直線、甲斐もすかさず蹴り足よりも出す足の回転数に集中する。

 館森の騎馬走法が変わる。

 上体を起こすことで変化する組手、もはや僕の組手の感覚は無いに等しく、力が入らない。

 だが、甲斐が僕の手を離すはずがない。


 今出来ることに集中する。

 僕が鋭く足を出すことで、和緒のハンドルも勢い良く前後、和緒の動きを助ける。

 騎馬全体に残された力が分配されていく。

 僕たちは息を吹き返した。


 鈍感な感覚、ついに視覚までが限界なのか。

 スローモーションのように社ノ台の背中が近づいてくる。

 一緒に駆ける甲斐との感覚が遠のく。

 和緒を見上げようにも、もう前がぼんやりと見えているだけ。顔を上げる力も無い。


 社ノ台を抜き去る。

 横目に映った天音さん、宇藤くん、栄士の表情は見えない。

 口の輪郭が大きく開き、同じような表情を浮かべているのだろうか。

 僕たちはとてつもなく速く駆けているんだ。

 ゆっくりと流れる時間の中でも、あの社ノ台をかわして先頭に立った確かな感覚がそう思わせる。


――これがお父さんの言ってたスピードの向こう側?


 耳で聞いた声ではない。

 今の僕には何も聞こえないはずだ。

 騎馬一体で感じることの出来る感覚。

 頭の深いところで響く。

 驚きと共に、探しているものを見つけて喜んでいる女の子の声。

 僕が一番聞きたかった声。


 ゴール板がぼんやり。

 あともう少しだ……。


 あれ? ……。

 足が……重い……。


 …………。

 ………………。


「ゴール手前! 先頭の館森失速する! こ、故障発生か!?」

 我に返った瞬間、ゴール板を前に立ち止まってしまったことに気付く。

 痛覚と共に五感が戻る。

 ゴール板を単騎で駆け抜ける社ノ台の姿がハッキリと見えた。遅れて後方から重なる駆ける音、次々と他校が僕たちを追い抜いていく。

 静寂に包まれる中山騎馬場。


「有太! 大丈夫!?」

 目の前には即座に鞍から飛び降り、涙を流しながら僕を見つめる和緒。

 呆然と立ち尽くす僕。

 甲斐が組手を解き鞍を地面に置くと、僕の身体を支えるように肩組みする。


 僕は無意識にブラッと片足を上げている。

 痛む左足を見つめる。

 ブーツを履いた状態では分からないが、明らかに地面に足を着いていられないような痛み、冷や汗が止まらない。


「救護班を! お願いします!」

 甲斐がゴール板近くに待機する係員を呼んでいる。

「終わり? ……終わりなのか?」

 泣きながら立ち尽くす和緒、無言で僕の頭を優しく叩きながら、しっかり肩組みをする甲斐。

 下を向く二人に、このレースがもう終わってしまったのだと気が付いた。


「ごめん……なさい。ごめん」

 想像もしたく無かった。

 和緒を乗せて甲斐との騎馬で駆ける。

 このレースは譲りたくなかった。

 一年生の王者を決める大舞台、二人のために勝ちたかった。

 僕のせいで競走中止、このままレースを終えるなんて。

 

 自分のことで懸命になることは諦めていた。

 結果は僕に何ももたらさなかったから。

 そんな時に和緒と出会った。

 忘れていた想いがいつの間にか心の支えになって、ここまで僕を動かした。

 兄弟が夢を叶える物語、僕はきっとその一翼を担える。そう思っていた。


 最悪だ。

 こんな結果を迎えるのなら、初めから騎馬なんてやらなければ良かった。

 和緒、甲斐の夢を邪魔してるだけじゃないか。

 二人の前、この舞台からも消えてしまいたい気持ちになる。


 なのに…………。


 僕は舞台を降りるんじゃなく、最後まで続けたい。

 和緒を乗せて、甲斐と走りたいんだ。


「有太、無理させたのは僕のせいだ。限界を超えても走り続けた僕のせいだ。有太との騎馬に夢中だったんだ……ごめん」

 甲斐が涙を浮かべている。初めて見た。


「私のせいよ。ずっとスピードを落とさず、息も入れず、最後の直線もハンドルを動かし続けた。騎娘失格よ。騎馬に限界を超えさせるなんて。有太、ごめんなさい」

 涙を拭い、うつむく和緒。二人の言葉に心が痛む。


 いつだって悪いのは僕だと思っている。謝られるのは大嫌いだ。

 悪者は欲を口にする。

 謝る二人に、自分のせめてもの欲をぶつけることで、僕は悪者になれる気がした。

 そうすれば、二人に謝られているこの状況であっても、僕が悪いと納得出来る。


 僕のせめてもの欲は

――和緒、甲斐と騎馬をしたい――

 これだけだ。


「僕はまだ、一緒に駆けて良いのかな?」


 僕の言葉に拍子抜けした和緒、甲斐の同じ表情。

「な、何を当たり前のこと言ってるのよ! あんたは私の騎馬なんだから。高校三年間一緒に走るに決まってるじゃない」

 いつもの口調に戻った和緒。

 僕を見ながら腕を組み、不満気にプンスカプンスカと……。


 安心して全身の力が抜ける。

 グッと力強く支える甲斐の肩組み、ずっと甲斐が僕のことを支えてくれていることに改めて感謝したい。


「この三人の騎馬でこれからも駆けたい。僕が一番そう思ってるんだ」

 目を合わせた甲斐は、いつもの爽やかな表情で語る。


 僕にはやり残したことがある。

 まだレースは終わっていない。終わらせたくないんだ。

 救護班が僕の元に駆けつける。


「大丈夫ですか? すぐブーツ外しましょう」

 気持ちが落ち着いてきたと同時に、尋常ではない左足の痛みに襲われる。深呼吸をし、僕は平静を装う。

「大丈夫です。すぐレースに戻りますから。和緒、甲斐、行くよ」

 鞍を持つ僕を制止しようと和緒、甲斐、救護班が僕の動きを止めようとする。

「まだ進める! せめてゴールはさせてくれ! 競走中止でなく、最下位でもゴールして終えたい」


 欲しかった優勝には手が届かなかった。だけど最下位にだって価値はある。

 ゴールの無い形でこのレースを終えること。

 かつて、和緒のお父さんがサイレンスサーキットの競走中止で競馬界を去ったことを知る僕にとって、この三人の騎馬で競走中止したくなかった。

 和緒の悲しい記憶が重なってしまう。

 最下位は僕が背負うからゴールする。

 どんな結果だって受け止める。もう舞台から降りないと決めたのだから。


 かたくなにレースを続けたいという僕の姿勢。

「ブーツの動きに合わせて足を添えるだけ。ゆっくり進もう。無理だと判断したら止める」

 甲斐が救護班と僕の間に立つ。


「有太、本当に大丈夫なの?」

 和緒がずっと心配してくれている。

 こんな贅沢な時間にもう少し浸っていたいが、やっぱりいつも通りが良いな。

 僕は右手親指を立て、

「い、痛くねぇ」


……。

 うんざりした表情の和緒、微かに笑みがこぼれる。

「おバカさんなんだから……分かったわ。他校も居ないし、右に斜行するようにゴールに向かうわよ。左足への負担もかからないはずだから」


 救護班に軽く頭を下げ、僕は甲斐と鞍を持ち組手をする。

 鞍に和緒が跨がる。

 甲斐がいつもより僕の組手を引き寄せるように組み、鞍を持ち上げる際の負担が和らぐ。


 左足は痛む。

 左足を着くタイミング、僕は宙に浮かぶような感覚、右足スキップで騎馬を進める。

 甲斐が僕の足をかばい、左足が着きそうなタイミングでジャンプをするように、 鞍上の和緒も合わせるように姿勢を下から上へ。

 ぎこちないスキップ、やや右側に斜行しながら館森高校はゆっくりとゴールまで進む。


 様子を見ていた救護班が騎馬から離れてしばらく、静寂のスタンドに皆の声が戻る。

 少なからず、馬券の予想を外した観客からのヤジも聞こえる。

 全てを受け止め、館森高校は最下位のゴールを目指す。


「頑張れ」

 僕らを後押しする声援に包まれ始める。


「あの時、ゴールを迎えることが出来なかったサイレンスサーキットの勝負服、形は騎馬に代わりましたがゴールに向かっています」

 競馬の記憶、実況に蘇る。

「今年の朝日杯、館森に始まり館森で終わる。館森高校がゴール板に差し掛かります」

 もうすぐレースが終わる。これからまた始まるのだ。


「やっぱり有太にして良かった」


 ゴール寸前、和緒が僕のほうを向く。


「あの時聞いた言葉、信じて良かった」


――あの時の言葉? 

 僕は和緒が何を言っているのか分からない。


「坂の途中で叫んだ言葉の続き、今度言う時はハッキリ言いなさいよね」


 顔を赤くし、前を向く和緒。

 直後、僕の顔にも熱が帯びる。

 そうだ、確かに僕は叫んだ。

 中学生の頃、あの時一人公園で。


――ヒロインを助けるのは折出有太おれでありたい――


――あの時、まさか聞かれていたのか!?


 一人で居たつもりの公園、出会う前の和緒と二人で居たんだ。


――僕のあの言葉を信じて和緒は僕を騎馬に誘ったのか? あんな僕のセリフなんかで……。


 それは兵士Aとしてでなく、僕自身で願い叫んだ純粋な気持ち。

 それを聞いて信じた和緒は本当に女の子なんだと思った。

 まるで白馬の王子様が助けに来てくれるとでも思ってるみたいで、それが僕なんかじゃ……。

 くだらないと思って笑ってしまいそうなのに、そんなことすら愛おしく感じる。


 閉じた瞳に、和緒と出会った日から今までの光景が駆け巡る。

 あの時はただ、曖昧に定義されたヒロインを助けたいだけだった。

 もちろん起こりもしない仮想の中で。

 だけど今は違う。

 助けたいヒロインは和緒なのだ。


 今度は和緒にきちんと聞こえるように言おう、とびきりの言葉を。

 和緒がピンチの時、すぐに駆けつけて助けられるようになるまで。

 言葉は大切にとっておこう。

 僕は和緒を見上げ、前を向く和緒に向かって叫んだ。

 心のうちで。


「           」

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きばむす ~韋駄天 騎馬むすめ~ ヒナハタ フロウ @flow_hinahata

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