新釈・分福茶釜

胤田一成

第1話

 むかしむかしのお話です。

 明徳の末か、応永の始まりのころであったでしょうか。前橋藩界隈の山林に守鶴という名前の大層賢い狸がおりました。

 守鶴は人語も操れば、変化の術をも心得ていた、海千山千の老狸ではありましたが、さる満月の夜、酔いに任せて山を駆け、川を越えて遊んでいるさなかのことです。またぎの仕掛けた罠に嵌り、全く身動きがとれなくなってしまったのでございます。虎挟みの刃が後ろ脚にくい込み、少しでも身を捩ろうものなら、容赦なく腱に返しのついた刃が肉を裂きます。守鶴は人目をはばからず、おいおいと涙を流しておりました。

 夜が明け、お天道様が上った時分でございましょうか。守鶴はまだ涙を流し、朝日に向け慟哭しておりました。

「あと数刻も経てば、猟師がやって来て、俺の命を奪ってしまうだろう。あの野蛮な道具で俺の肉を裂き、生皮を剥ぎ、鍋にしてしまうのだ」

 そう考えると、守鶴は哀れになって朝日に向かって吠えるのを止めることができなかったのです。

 それから幾刻が経ったころでしょう。一人のぼろを纏った青年が藪を掻き分け、守鶴の前にやって来ました。守鶴はとうとう己の命の幕を降ろす時がきたと心中覚悟を決めましたが、意外なことに青年は守鶴の前にかがみ込み、しばらくカチャカチャと虎挟みをいじっていたかた思うと、守鶴をその細腕に抱きかかえ、愛おしそうに頭を撫で始めました。

「可哀想に…。俺は仏門に帰依しているから肉は食わぬ。またぎに見つかる前にお前を俺の庵に連れて行ってやろう」

 青年は守鶴に語りかけるようにそんなことを囁くと、のろりのろりと歩み出したではありませんか。守鶴にとってこれは全くの意外なことでございました。

 青年が自ら庵を名乗るあばら屋に連れていかれた守鶴は、直に後ろ脚の治療を受けました。薬が塗られ、布を巻かれた後ろ脚は随分と楽にはなりましたが、守鶴は自分をとって喰わない青年を不思議に思うばかりでございます。そして、とうとう守鶴は青年に語りかけることにしました。この不思議を解かねば、なんとも頭がこんがらがって心持ちが悪かったのでございます。

「もし…。青年よ。先ずは脚の治療を有難く思う。しかし、なぜこの俺をとって食らおうとしないのだ。黙って脚が癒えるのを待とうとも思ったが、俺にはそこが謎に思えてならぬのだ」

 囲炉裏の乏しい火に当っていた青年は、突如、人語を操り始めた狸を見て、大層驚愕しました。守鶴は続けて言います。

「そう驚かなくていい。ここまで面倒を見てもらっておいて今さら、お前を化かしてどうにかしようとは思わぬ。俺はただ、なぜお前が俺を狸鍋にしないのか、それさえ知れれば良いのだ」

 青年は先程、連れて帰った一匹の畜生が化け狸だと知り、自分も化かされるのではないかと警戒しましたが、守鶴の穏やかな物言いに、やや緊張を解きました。そして守鶴の疑問に答えてやろうと心を決めました。

「先刻も申した通り、俺は仏門に帰依している。だから肉は食わぬのだ」

「ブツモンとは何だ。それに下ったものは肉を食わぬのか。そもそもなぜ肉を食わぬのだ」

「仏門とは、お釈迦様が説いた道のことだ。肉を食らうということはお釈迦様が禁じておられる。人の魂は巡り巡って止むことを知らぬ。今日人だったものが明日には畜生になることもある。昨日人だった霊を人が食らうのは罪だ。だから俺は肉を食わぬのだ」

 守鶴にはこの青年の言っていることが分かったような分らぬような、そのような微妙な心持ちになりました。釈迦というものはそんなに偉いのであろうか、またその説法従わなくてはならぬほどに尊いものなのか、守鶴にはまだまだ分かりませんでした。しかし、そのような守鶴にも分かったことが一つだけありました。

「どうやら俺は仏門とやらには下っていないようだ。何せ俺も人と同様に肉を食らう身なのだから」

 守鶴は大きく欠伸をすると、乏しい囲炉裏の火に当りながら、とろりとろりとした微睡の狭間へと落ちてゆきました。


 守鶴の脚の布も取れ、怪我も癒えたころとなりました。守鶴は青年の貧しい生活をつぶさに目の当りにすることとなっていました。そこで守鶴は青年に心ばかりの恩返しにこんなことを提案しました。

「お前には随分と世話になった。どうだろう、俺の得意な術でお前に少しばかりの金をやろうか。葉を集めてこい。そうすればお前はたちまちに長者になることができるだろう」

 しかし、青年は容易には首を縦に振りません。

「木の葉を金に変えて富を得るのは罪だ。勿論、俺とて金は欲しい、自分に嘘をつくのも罪の一つだからな。だが、少しばかりの銭で良いのだ。この冬を越せるだけの蓄えがあれば十分なのだ」

 守鶴は戸惑ってしまいました。これまで随分と人を化かしてきた守鶴にとって、木の葉を金に変えることなど罪の一つにもならなかったからでございます。守鶴にとって釈迦の教えはまだまだ縁遠いものでございました。

「ならばこれでどうだ。俺もそろそろこの家を出なくてはならぬ。俺が茶釜に化けてお前が道具屋にでも俺を売るのだ。そうすれば、多少の銭を稼ぐことができるであろう」

「ああ、それはいい案だ。お前は俺のためにお前自身を売るというのかー、お前も中々、お釈迦様の教えが分かってきたではないか」

 守鶴には青年が言わんとしている事がまるで分かりませんでしたが、守鶴は青年にー、人間に褒められたことが何となく心地良く感じました。守鶴は頭の上に木の葉を乗せると器用にその場で一回転してみせました。するとたちまち狸の姿はどこかへ消え、その場には見事な茶釜が一個、ぽつねんと残されているではございませんか。

 青年は守鶴の化けた茶釜に柏手を打つと感謝の意を示し、茶釜を大事そうに抱きしめて里へと降りていきました。青年はどこまでも無欲な人でございました。守鶴の化けた茶釜はたいそう立派なものでございましたが、青年は里でもっとも繁盛していない道具屋へと足を運ぶと、驚くほどの安値で茶釜を売ってしまいました。青年は本当にこの一歳の冬を越せるだけの銭を握りしめると、店主によくよくこの茶釜を大事にするように説き、また山へ帰っていきました。


 次の日のことであります。

 茂林寺の和尚が冬を越すために何か良いものはないかと、里を散歩していたところでございます。普段なら目にも入れない古道具屋にたいそう立派な茶釜が置いてあるではありませんか。

 守鶴は茶釜に化けたままこの和尚をじっと見ていました。あの青年がよくよく語っていた仏門とやらに帰依した坊主がやってきたのでございます。興味を注がれないわけがございません。

「よし、この茶釜を貰おうか」

「よし、この坊主の元へと行こうか」

 二人は各々心積もりがありながらも、奇しくも同じことを考えておりました。和尚は古道具屋で見つけた茶釜を大切に抱えながら茂林寺へと帰っていきました。

 茂林寺の和尚は大変な数寄者でございました。茶の道に心を奪われた和尚は道すがら、茶釜を滔々と見つめながら是非ともこの茶釜で一杯の茶を立ててみたいものだ、と思いました。これほど守鶴の化けた茶釜は立派で、カンとした佇まいの、思わず撫でたくなるような艶を帯びたものであったのでございます。

 和尚は茂林寺へと帰ってくると、大急ぎで茶を立てる準備を始めました。守鶴はあれやこれやと何か多量の道具を持って奔走する和尚を見て、これが仏門というものかとつぶさに観察しておりました。青年の家より立派で、大量な道具に満ちている茂林寺の茶室を眺めて、守鶴は一口に仏門に帰依するといっても、様々な輩がいるらしいぞ、と考えました。そして守鶴は茂林寺の瀟洒な茶室より、青年の粗末な庵の方が何か好ましく、尊い印象を受けたのでありました。

 自分の後ろでそのようなことを考えられているとは露とも知らぬ和尚は慣れた手つきで火を起こし、茶器を用意すると、守鶴の口に水を注ぎ、これをひょいと持ち上げ、火にくべてしまいました。

 守鶴の驚きようといったらありません。守鶴は口に含んだ水を吹き出し、「熱い、熱い」と大声で叫んでしまいました。また、それを見た和尚の驚きようも殊の外に表しようがないほどでございます。和尚は腰を抜かし、大声で喚き散らしながら、茂林寺の坊主たちを集め、こう命じました。

「化け物が出た。このような不浄なものを寺に置いておくわけにはいかない。どこかそこらのクズ物屋にでも売っちゃってこい」

 肝の据わった坊主たちは、「熱い、熱い」と泣き叫ぶ茶釜に化けた守鶴を手早く風呂敷に包むと、この気味の悪い茶釜を近所のクズ物屋に売ることに決めたのでございます。

 和尚はそれから幾月か腰の抜けたままで過ごしたと見聞しております。


 守鶴はその晩のうちにクズ物屋へと売られていきました。クズ物屋の主人は何度もこの気味の悪い茶釜を受け取るわけにはいかないと坊主たちに断りましたが、主人は茂林寺の檀家ということもあり、とうとう最後には折れて、守鶴の化けた茶釜を風呂敷に包まれたまま受け取ることを請け負ってしまいました。

 クズ物屋の主人が恐る恐る風呂敷を解くとそこには立派な佇まいの茶釜が一つぽつりと置かれていました。しかし、不可思議なことにその茶釜は、くすりくすりと泣いているのです。守鶴は尻を焼かれた痛みに耐えられず、先程から忍び泣きをしていたのでございます。クズ物屋の主人はこれもまた恐る恐ると茶釜に尋ねました。

「お前は茂林寺さんが言う通りの化け物なのか。化け物ならここに長く置いてはおけまい。どうか答えてくれまいか」

 焼かれた尻の痛みに耐えながら守鶴は答えました。

「いや、違う。俺の名は守鶴という山に住む古狸だ。故あって茶釜に化けた途端この始末だ。あの青年は仏門に帰依していると言っていたが危うく狸鍋にされるところであった。危ない。危ない」

 守鶴は茶の道を知りませんでした。そこで咄嗟に自分が鍋に焼かれて食われると勘違いしたのもの無理のないことでございました。

 クズ物屋の主人は、はてなとは思いながらも、「ああ荒くれ坊主たちなら和尚に黙って肉食の禁を破るのもありえることかも知れぬ」とこれもまた、勘違いしてしまったのでございます。

「しかし困った。この貧しい家にお前を置いておくにもいかない。だからといって無暗に殺生を起こすのも気が引けて仕方が無い」

「待て。俺を殺すのだけは堪忍してくれないか。お礼になんでもするから…」

「しかし、山の古狸が化けていると知った上で客にお前を売るわけにもいかない。これは困ったことになった」

 クズ物屋の主人は困り果てて、あとは白髪頭をバリバリと掻くばかりでございました。煮え切らない主人の態度を見て、茶釜に化けた守鶴は、くるりとその場で一回転すると、茶釜の口から頭を、底から脚と尻尾を出すと一緒にうんうんと考え込んでしまいました。

 その姿のなんと愛らしいことでしょうか。クズ物屋の主人はこの半分狸の化けた茶釜を見て、思わずくすりと笑ってしまいました。

「狐狸に化かされるとは恐ろしいことだとは思っていたが、お前のその姿はどこか憎めないところがある。山の古狸と聞いた時は驚き恐ろしくも感じが、今のお前の姿から邪念は一切感じられない。そうだ。その姿で俺と一緒にひと商売打ってみないか。興行をするのだ」

 守鶴は自分を取って喰わないというのならなんでも良かったところでございますから、この主人の奇妙な提案に一もニもなく飛びつきました。

「それなら俺にも腕に自信がある。人を化かして驚かすことは任せておけ」

「あ、そんな剣呑なことを言うではない。興行というのはつまりは人を喜ばすことだ。笑わせることだ。くすぐったくさせることだ。これをお前はできるか」

 守鶴には人を喜ばすことと言われてもいまいちよく分かりませんでしたが、一言、「任せろ」といい、ぽんとお腹を叩くと、後はもうクズ物屋の主人が腹を抱えて笑ってしまうのでございました。

 守鶴はクズ物屋の主人が笑い転げる姿を見て、なんだか少しだけ嬉しくなり、あの山の杣屋で青年と暮らした僅かな日々を懐かしく思うのでありました。


 次の日のことであります。

 クズ物屋の主人は店の前に舞台を作り、守鶴と共に興行を始めました。

「さあ、見てらっしゃい寄ってらっしゃい。世にも可笑しい狸の綱渡り。見るものを幸せな心持ちにしてくれる不思議な舞台ですよ。その名も分福茶釜。世にも不思議な狸の綱渡りですよ」

 守鶴は半分茶釜に化けた姿で綱の上を器用に駆けてみせ、時には綱の弛んだ場所でこれもまた器用に一回転してみせました。それだけでなく、手足を使った芸や小道具を使った芸…種々の芸能を綱の上で披露してみせました。

 客は初めこそは物珍しそうに守鶴の芸を見ていましたが、ぴょこんと出した手脚の愛くるしさ、見るものを和やかにさせるあの可愛く憎めない顔つきを見て、段々と面白おかしくなってきました。守鶴は前の晩にクズ物屋の主人を笑わせたことを思い出しながら、夢中になって客をくすぐってみせるのでした。

 興行は大成功でした。次の日も、また次の日も、里中はこの茶釜狸の見せる芸を堪能するために、クズ物屋の前に足を運びました。そして幸せな心持ちになって家路へと歩むのでした。それを見届け、主人と守鶴はぺこりと一礼するのでございました。


 クズ物屋はたちまち繁盛し、主人は守鶴の芸のおかげでまとまったお金を手に入れることができました。そこで主人は守鶴にこう言いました。

「お前のおかげで随分と金を稼ぐことができた。情けは人の為ならずとはよくいったものだ」

「俺は狸であって人じゃないよ。それにその情ケハ人ノタメナラズってのはどういう意味だい」

 主人は困りながら頭を掻き掻き答えました。

「お釈迦様の言葉でな、なに俺もそう詳しくはないんだが、情けをかけるとその人の為になるだけでなく、巡り巡って自分のためになるってことさ。この場合はそうだなあ、狸のお前を助けたおかげで俺が金持ちになれたってことになるのかなあ」

 守鶴はクズ物屋の主人のこの困り果てたといったような、眉を八の字に寄せ、白髪頭をバリバリと掻いてみせる癖が好きでした。

「そうか、それにしてもまたお釈迦様がおいでましになったか。なあ、お釈迦様ってのは偉いのか」

「うん。そりや偉いだろう」

「毎日人を喜ばしてる俺たちより役に立つのかい」

「うん。そりやお釈迦様は誰よりも尊いお方だもの。人を心から幸福にするなんて目じゃないさ」

「そうか…」

 守鶴は考えました。ふとあの山の杣屋に住む青年の細腕の中が恋しくなってきたのです。「俺はお釈迦様の話より、あの青年の腕に抱かれていた時の方が幸福だったがなあ」、と守鶴はぼんやりと思いました。耳と尻尾を下げてしょんぼりとする狸を見て、クズ物屋の主人はなんだかこの老狸が可哀想に思えてきました。

「どうだい、お前さん。俺は随分と稼ぐことができた。お前さんもそろそろ疲れたろう。ここいらで一度山へ帰ってみてはどうかね」

 主人は囲炉裏の火を弄りながら守鶴に尋ねてみました。守鶴はこの申し出に一度は大きく驚きましたが、あの青年にもう一度会いたいと思っていたところでございますから、大いに喜びました。

「そうだなあ。俺もちょいとばかり疲れた。も一度狸の姿であの山野を駆け巡ってみたいと思っていたところさ」

「そうかそうか。俺もそれが良いと思っていたところだ。お前には随分と長い間、世話になった。俺も情けをかけてやろう」

 クズ物屋の主人は守鶴が喜び、ぴょんぴょんとはねる姿を見て、にっこりと笑いました。

 守鶴はそれでは、と思い立ち頭の上に木の葉を乗せるとその場でぴょんと一回転してみせましたが、その姿は容易には戻りません。

「これは困ったことになった…」

 クズ物屋の主人も守鶴も困り果ててしまいました。守鶴は人を喜ばせるために変化した姿にすっかり身体が馴染み慣れきってしまっていたのです。

 主人と守鶴は一晩中、元の姿に戻る方策を探しましたがどれも効き目がなく、二人は弱り切ってしまいました。すると最後に主人が守鶴にこう薦めました。

「俺の檀家なんだが、ここからそう遠くないところに茂林寺という寺がある。どうだろう、お前を売りにきた寺ではあるが、そこの和尚のお知恵を借りようではないか。最後はお釈迦様に頼ってみようではないか」

 守鶴は悩みましたが、最後のお釈迦様に頼るという言葉には心を揺さぶられました。お釈迦様には、会うたことは無いが、皆がお釈迦様のことを心の支えにしていることは、守鶴にも何となく理解しておりました。それに仏門に帰依すれば、あの青年はどれほど喜んでくれるであろうか、と守鶴は想像しました。山に帰り、あの青年と肩を並べて仏門に専念するーそれは守鶴にとってこれほどなく幸福なことでございました。守鶴は悩みましたが最後には日を縦に振りました。


 次の日のことであります。

 クズ物屋の主人は茂林寺の和尚に一連の理由を話し、守鶴にお祓いを施すことで元に戻して欲しいと平身低頭して頼み込みました。

 茂林寺の和尚は市井の噂で老狸が人を化かして喜ばしているということを耳にしておりました。和尚はこの男も狐狸に化かされて、心を惑わされているに違いないと踏んでしまったのでございます。茂林寺の和尚は主人の話もそこそこに大仰な荷物を抱え、クズ物屋へと足を運びました。立派になったクズ物屋の邸内で茂林寺の和尚が目にしたのは、いつぞやの茶釜に扮した古狸ではございませんか。茂林寺の和尚は全てを覚ったような気持ちになりました。

「ははあ、この化け狸め。私を騙して腰を抜かさせただけでは飽き足らず、里中を巻き込んで悪知恵を働かせておるな。ここで会ったのも運の尽き、お釈迦様の命により、ここはなんとしてもこの古狸の策謀から里を救わなくてはならぬ」

 そのようなことを考えているとは露知らず、守鶴は茂林寺の和尚の姿を見るや否や愕然とし、次に身体が震えるのを感じました。守鶴にはこの坊主に見覚えがあったからであります。いつぞや火にくべられた時の痛みがまざまざと蘇り、守鶴はこの坊主を信用して良いのか、また狸汁にされてしまうのではないかと一抹の不安を覚えて、まじまじと茂林寺の和尚の顔を見つめました。しかし、容易にはその面の裏側を見通すことができません。守鶴は」とうとう観念して、クズ物屋の主人を信用することに決心しました。この坊主がお釈迦様の御意向を果たしてくれる、そう願ったのでございます。

 祓いの儀はすぐ始められました。尊い経典が読まれ、大仰な太鼓が鳴らされ、守鶴はそれらに囲まれるようにしてまんじりともせず、じっと座っていました。

「この苦行から解放されたとき、俺は一目散にあの青年の住まう杣屋へと駆けていこう。そうして、自分も仏門に帰依したことを自慢するのだ」

 守鶴の心は早くも青年の元に駆け寄っていました。一方、和尚はこの化け狸を一刻も早く退治しなければならぬと躍起になっていました。自分を驚かして腰を抜かされたこと、巷の住人を怪しげな術で惑わしていること、和尚にとって、悲しむべきことに守鶴は狐狸妖怪の類の獣でしかありませんでした。


 お祓いはその日の夜には済みました。しかし、そこに残されたのはあのどこか憎めない顔つきをした、愛くるしい狸の姿ではなく、一個の見事な茶釜でございました。

 茂林寺の和尚が全ての経緯を知った時には全てが終わっておりました。クズ物屋の主人は泣きました。守鶴は最後までお釈迦様の御力を信じていたのでございます。茶釜から尻尾が消え、手脚が消え、顔がなくなるまで、守鶴の心は杣屋の青年の元にありました。

 せめてもの償いとして、茂林寺の和尚はこの分福茶釜を丁重に寺に奉納しましたが、里からは笑顔が消え、どこかもの寂しい冬の風が通りを吹き抜けるばかりでございました。


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